僭王の肖像

然々

序章:血の碑文



 夜の永田町に、けたたましいサイレンが響いた。

 午後十一時二十二分、与党の重鎮にして元大臣、鷲尾慎二議員の邸宅から「異常な叫び声が聞こえる」と通報が入ったのだ。


 警視庁麹町署の刑事たちが現場に駆けつけた時、重厚な門扉は開け放たれており、庭には鷲尾家の使用人と思しき女性が泣き崩れていた。

 彼女の口から断片的に漏れた言葉は「先生が……先生が……」と、それだけだった。


 応接室の扉を押し開けた瞬間、刑事たちは言葉を失った。


 部屋一面に広がる鉄の臭い。

 絨毯は深紅に染まり、豪奢なソファは原形を留めぬほどに裂かれ、壁に掛けられていた油絵は血飛沫で覆われていた。


 部屋の中央に横たわっていたのは鷲尾慎二。

 喉は深々と切り裂かれ、血は未だ温かいまま滲み続けていた。顔面は複数回にわたり刃物で切り刻まれ、眼球すら原形を留めていない。

 その姿は人間というより「見世物の人形」のようで、刑事の一人は思わず胃の中のものを吐き出した。


 そして――壁。


 誰もが目を奪われたのは、血で描かれた異様な文字だった。

 揮毫のように大きく、しかし不揃いに震える線で書かれていた。


 「僭王を恐れよ」


 血文字は壁から天井近くまで達しており、その下には鷲尾の指が転がっていた。

 どうやら、自身の血と肉で文字を刻まされたのではないか――そんな推測が刑事たちの間に走った。


 「……僭王?」

 現場にいた若い刑事が震える声を漏らした。

 「何だそれは。英語か? いや……漢字だよな」

 「僭(せん)……王?」

 「意味は?」

 「正しくない王、ってことじゃないか……」


 彼らの囁きは、不気味に静まり返った邸宅の空気に飲み込まれていった。


 その夜、現場はマスコミに一切情報が漏れないまま封鎖された。

 だが翌朝――なぜか一枚の写真が全国紙の一面を飾った。


 そこに映っていたのは、血で描かれた異様な碑文と、白布に覆われた遺体。

 「大物議員惨殺――壁に残された謎の血文字」

 見出しは黒々と踊り、日本中に衝撃を与えた。


 新聞社の休憩室でその紙面を食い入るように眺めていたのが、藤堂怜である。

 三十二歳。地方紙「東都新報」の社会部記者。

 だが東京本社の中では記者仲間から浮いた存在だった。正義感が強すぎ、政治家やスポンサー企業に遠慮することを知らない。記事の切れ味は鋭いが、そのせいで編集長から疎まれている。


 「僭王を恐れよ、か……」


 怜は声に出してつぶやいた。

 僭王――その言葉の響きが、妙に耳に残る。

 古代ギリシャで独裁者を指す語か、あるいは中国思想の中で王権を僭称する者を指すか。

 だが、なぜ現代の東京に、それが蘇るのか。


 紙面に印刷された血文字を眺めながら、怜は背筋を冷たいものが這い上がるのを感じていた。


 これは単なる猟奇殺人ではない。

 もっと大きな何か――政治と、社会と、見えざる権力が絡み合った巨大な影が、動き始めている。


 その時、休憩室のテレビから流れたニュースが怜の思考を遮った。

 〈速報です。昨夜、鷲尾慎二議員が自宅で殺害されているのが発見されました。警視庁は事件の背後に組織的犯行の可能性があるとみて捜査を進めています〉


 画面には鷲尾の笑顔のポスターが映し出された。選挙の際に掲げられた「民衆のための政治を」というスローガン。

 その文字が、今や悪夢のように滑稽に見えた。


 怜は拳を握りしめた。

 「……俺が追うしかない」


 まだこの時、彼は知らなかった。

 この決意がやがて、彼自身を“僭王”の舞台へと引きずり込み、逃れられぬ闇の中へと導いていくことを。

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