終雪 ー記憶が薔薇色に染まる頃ー

枯枝 葉

プロローグ

 近頃には珍しく、今日は心が軽かった。

 梅雨の晴れ間に広がる、澄みきった青空に誘われて、文月ふずきすすむは、久しぶりに外へと歩み出した。

 

 家を出てほどなく、地域のゴミ集積所のそばを通りかかる。進の視線は、ふと赤錆びたケージの基礎にとまった。五センチほどの朽ちかけた隙間から、小さな菫がひっそりと葉を伸ばしている。雨風をほどよく避けられる、格好の隠れ家だった。まるで、誰かとかくれんぼをしているかのように。

 進は目を細め、胸の奥でつぶやいた。

……今日は、何かいいことがあるのだろうか。


 二〇二六年、令和八年の六月。

 進は、七十歳を迎えていた。父は、六十で世を去った。老いというものを遠くに感じていたあの頃から、気づけばすでに、父の年齢を遥かに越えてしまっている。杖をつきながら歩く自分を、ときに他人事のように見つめる。不思議なものだ、と進は思った。

 

 今日は、とにかく気分がいい。せっかくだから、美しい景色の見える公園まで、足を伸ばしてみよう。

 穏やかな日差しは、肌を透かして身体の奥深くへ染み込んでいく。一本の杖に支えられながらも、その光が背中をやさしく押してくれているようだった。


 人影のない公園には、水面に弾ける噴水の音だけが響いている。進は、木漏れ日の揺れるベンチに腰を下ろす。枝葉をくぐり抜けてきた小さな光の粒が、まるで妖精たちのように身体の上で舞い、踊っている。

 進はその光の揺らめきを、そっと受けとめた。リズミカルな水の音が、遠い記憶の扉を、そっと叩く。

 心の片隅に埋もれていた景色が、ふいに息を吹き返す。

 進の意識は、静かに時をさかのぼっていった。

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