人間オセロ

暇人

第1話

第一章 黒く染まったプール


真夏の太陽が、コンクリートの校舎を焼きつける。アスファルトの匂いが、地を這う陽炎とともに鼻をついた。本来なら子供たちの歓声で満ちているはずのプールは、異様なほど静まり返っている。その静寂は、死の匂いを含んでいた。


刑事の篠田は、フェンス越しにプールを覗き込んだ。そこに広がる光景は、彼の想像をはるかに超えていた。プールの底から縁に至るまで、すべてが漆黒の塗料で塗り固められていた。まるで、巨大な漆の器。その中央に、最初の死体が横たわっていた。


仰向けに寝かされた男性。胸には、赤い染みと、その中心にあるナイフの柄。スーツ姿で、年齢は四十代くらいだろうか。死んでいるのに、どこか無防備な、眠るような姿勢。その白さが、プールの黒の中で、不気味なほど際立っていた。


「市内の不動産会社の課長です。身元はすぐに判明しました」


部下の石井刑事が、緊張した声で報告した。篠田は言葉を失った。殺人事件であることは明白だ。だが、この場所で、なぜこんな演出がされているのか。視線をそらすと、死体の横に一枚の紙が置かれているのが見えた。


「これは人間オセロだ。白は仰向け、黒はうつ伏せ。すべてが裏返るまで私は殺し続ける。触れるな。動かすな。校舎の二階の四組の生徒を監禁した。ルールを破れば、子供ごと吹き飛ぶ」


篠田の背筋に冷たいものが走る。個人的な脅迫。犯人は、この小学校の、この男は、殺人をゲームだと思っているのか?


第二章 動けない捜査本部


捜査本部は、小学校の体育館に設置された。しかし、誰もが焦燥感に苛まれていた。校舎の二階の四組だった教室に子供たちが監禁されていた。警察は、教室への侵入を試みたが、扉には特殊な鍵がかけられ、遠隔操作の爆薬が仕掛けられているのが確認された。子供たちの安全を優先し、警察は身動きが取れなくなった。


「監視カメラは?」


捜査一課長の怒声が響く。


「校舎の裏手には設置されていません。夜間に侵入した形跡も見つからず……」


犯人はあまりにも大胆で、そして周到だった。プールは校舎の死角にあり、周囲は住宅街で、夜間の人通りは少ない。だが、子供たちを監禁し、死体を運び込むにはリスクが高すぎる。


「まるで、最初からそこにすべてがあったみたいだ」


篠田は呟いた。誰もが同じことを考えていた。だが、そんな非現実的なことを口に出せるほど、この状況は呑気ではなかった。


二日後、二人目の死体が発見された。前回同様、夜の間に置かれたのだろう。若い女性。今度はうつ伏せだった。


「黒石だ……」


石井刑事が震える声で言った。プールに並んだ二つの石。白(仰向け)と黒(うつ伏せ)。まるで、盤面に配置された駒。犯人は、本当にこの殺人を「ゲーム」として楽しんでいるのか?


篠田はプールを見下ろした。死体は、一つ目の死体のすぐ隣に置かれていた。何かのルールに則って配置されている。だが、そのルールが何なのか、今はまだ分からなかった。


第三章 ゲームの法則を解く者


三人目の死体は、最初の死体から離れた場所に置かれた。仰向けの白石。四人目はうつ伏せの黒石。犯人は三日ごとに死体を「配置」していく。その規則性が、篠田の頭を占拠した。


夜、自宅に戻っても、彼の頭の中は事件でいっぱいだった。リビングのテーブルに、一枚の大きな紙を広げる。そこに、プールの見取り図を描き、死体の位置を点で示していく。


「オセロなら、間を挟んだ駒はひっくり返される……」


篠田は呟いた。だが、脅迫文には「触るな。動かすな」とある。実際に死体を「裏返す」ことはできない。では、このゲームはどのように進行するのか?


コーヒーを淹れ、再び紙に向かう。目を閉じ、集中した。最初の白石、その隣に置かれた黒石、次に置かれた白石……。犯人は、オセロのルールを再現しようとしている。だが、物理的な「裏返し」は不可能。


その時、頭の中に閃光が走った。篠田は勢いよく目を開けた。


「そういうことか……!」


犯人は、オセロを「死体を並べるだけの抽象ゲーム」として再現している。つまり、「裏返し」というアクションは、次の死体が、その駒の役割を担うことで成立しているのだ。


例えば、白石が置かれた隣に黒石が置かれる。本来ならこの白石は裏返されるが、犯人はそれを、次の犠牲者を「黒石」として配置することで代用している。このゲームは、物理的な接触ではなく、象徴的な意味合いで進行していたのだ。


背筋が凍るような戦慄が走った。犯人は、ただの快楽殺人者ではない。綿密な計画と、歪んだ論理を持った、極めて危険な人物だ。このゲームのゴールはどこにあるのか。もし、本当にオセロのルールに則るならば、最後は盤面が埋まるまで続く。そして、その結末は……。


第四章 十七年前の残響


七体目の死体が置かれた夜。プールは、半分近くが黒と白の駒で埋まっていた。篠田は、これまでの配置を分析し、一つの恐ろしい結論に達した。


「このまま行けば、最後はすべて黒で終わる」


まるで、オセロの完全制圧。犯人は、最初から**「黒の完全勝利」**を演出していたのだ。だが、ここで一つの矛盾が生じる。オセロは、本来黒から始まるはずだ。なのに、最初の駒は白石(仰向け)だった。


篠田は、再びノートに書き込みを始めた。最初の白石の配置、そしてその後の黒石の配置。犯人は、なぜルールを逸脱してまで、初手に白石を置いたのか。


その答えは、被害者たちの身元を洗う地道な捜査の中で見つかった。不動産課長、元教師、大学生、専業主婦……。一見、何の共通点もない彼らだが、捜査班が過去を遡るにつれて、一つの点が線で結ばれた。


彼らは全員、この小学校の卒業生だった。そして、十七年前の**「ある事故」**に関与していた。


十七年前、このプールの授業中に、一人の少年が溺れた。助けを求めたが、教師も、クラスメイトも、誰も彼を助けなかった。単なる「不可抗力」として処理されたその事故は、実は**「見て見ぬふり」**という、複数の人間の罪の連鎖だったのだ。


篠田は、かつての卒業アルバムと、現在の被害者たちの顔写真を並べて見た。点と点が結びつき、輪郭が浮かび上がる。そして、彼の脳裏に、一つの顔が思い浮かんだ。


それは、あの事故で命を落とした少年の兄。彼は、数年前にこの小学校の設備管理員として潜り込んでいた。


教室に子供たちを監禁したのは、警察を現場に縛り付けるため。そして、彼らが座らされているのは、弟が亡くなった十七年前の四組の教室。すべては、周到に仕組まれた狂気の劇場だった。


第五章 爆破の真相と裏返された心


爆薬処理班が教室の調査を続ける中、一つの報告が篠田のもとに届いた。


「見つかったのは、空の容器とダミー回路だけでした。爆薬は最初から存在しません」


篠田は、一瞬、呆然とした。


「あの教室に仕掛けられた爆薬は、全て偽物だったようです。工事用の模擬爆発装置も発見されました。あれは、我々を心理的に縛るための、ブラフだったようです」


犯人は、最初から爆破させるつもりなどなかったのだ。ただ「触るな」と脅すことで、警察を無力化し、自らの「ゲーム」を邪魔されることなく完遂しようとした。すべては、周到に仕組まれた狂気の劇場だった。


篠田はすぐにプールへと向かった。そこで、彼は設備管理員である男と対峙した。男は静かにプールを見つめていた。まるで、自らの作品を鑑賞するかのように。


「なぜ、こんなことを……」


篠田の問いに、男はゆっくりと振り返った。彼の瞳は、プールの黒と同じ、深い闇を湛えていた。


「オセロは最初、黒が有利に見える。だが、最後には盤面が裏返る。それが正しい世界のあり方だ」


男の声は、感情をほとんど感じさせない、静かなものだった。


「弟は、裏返されなかった。誰も助けようとしなかった。ただ、放置された。だから、私が盤面を作り直す必要があった」


彼の言葉は、彼自身の歪んだ正義を語っていた。プールを黒く染めたのは、弟の「墓標」。そして、そこに並べられた死体は、十七年前の罪を償わせるための駒。最初から白を置いたのは、すべてが裏返され、「黒の完全勝利」で終わるという、このゲームの必然を示すためだったのだ。


逮捕された男は、最後まで抵抗しなかった。ただ、静かにパトカーに乗せられた。


どうさ?


篠田は、黒く塗りつぶされたプールを見下ろした。太陽の光を吸い込むその闇は、深い、深い底なし沼のようだった。事件は解決した。だが、彼の心には、決して拭い去ることのできない、人間の持つ狂気と、そして「見て見ぬふり」という罪の重さが、深く、深く刻み込まれていた。

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