お金がないからひのきの棒だけで魔法を極めました。
マスターボヌール
第1章 配達員と呪文
午後三時の住宅街は、いつものように静寂に包まれていた。
「山田様、お荷物です」
インターホン越しの声に返事はない。田中圭介は軽くため息をついて、もう一度呼びかけた。宅配便のアルバイトを始めて三年、不在の家ほど面倒なものはない。
その時だった。
山田邸の玄関ドアが、ゆっくりと開いた。しかし、そこに人の姿はない。
「あの...山田様?」
圭介が恐る恐る声をかけると、家の奥から奇妙な唸り声が聞こえてきた。それは明らかに人間のものではなかった。
普通なら逃げるところだろう。しかし圭介は、なぜかその場に留まった。胸の奥で何かが疼いている。まるで「入れ」と囁かれているような感覚だった。
玄関を上がると、リビングで異様な光景が目に飛び込んできた。
身長二メートルはある灰色の怪物が、倒れた老人—おそらく山田氏—を見下ろしている。怪物の全身は鱗に覆われ、口からは緑色の唾液が滴り落ちていた。
「うわああああ!」
圭介の悲鳴に、怪物が振り返る。赤く光る目が圭介を捉えた瞬間、怪物は牙を剥いて飛びかかってきた。
死を覚悟した圭介だったが、とっさに制服のポケットから何かを取り出していた。
百円ショップで買ったひのきの棒—本来は工作用の、何の変哲もない木の棒だった。
「消えろ!」
圭介が叫ぶと同時に、ひのきの棒から眩い光が放たれた。
光は怪物を包み込み、一瞬にして灰へと変えてしまう。後には焦げ臭い匂いだけが残された。
「...は?」
圭介は自分の手にあるひのきの棒を見つめた。さっきまで普通の木の棒だったはずなのに、今は仄かに光を帯びている。
「初級の除霊術にしては、なかなかの威力だったな」
振り返ると、黒いスーツを着た中年男性が立っていた。いつの間に入ってきたのだろう。
「あ、あなたは...」
「魔法対策課の佐藤だ」男性は懐から身分証らしきものを取り出した。「君が魔法を使ったのを感知してきた。しかし...」佐藤は圭介の持つひのきの棒に視線を向ける。「その杖は一体何だ?」
「杖って、これですか?ただのひのきの棒ですけど...」
佐藤の表情が困惑に染まった。
「ひのき...の棒?まさか、百円ショップの?」
「はい、そうですけど」
「嘘だろう...」佐藤は頭を抱えた。「A級妖魔を一撃で祓うなんて、最低でも五十万円以上の魔導杖でないと不可能なはずなのに...」
そこで佐藤ははっと我に返った。
「君、名前は?」
「田中圭介です」
「田中君、君は魔法について何か知っているのか?」
「いえ、全然...というか、魔法って本当にあるんですね」
何かを隠していることに勘付いたが、佐藤は深いため息をついた。
「ついてきてくれ。君には説明しなければならないことがたくさんある」
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一時間後、圭介は都心のビルの地下にある「魔法対策課」の事務所にいた。
「世界には魔法が存在する」佐藤が説明を始める。「ただし、一般人には秘匿されている。政府の特別機関や、一部の企業、そして限られた魔法使いだけが知る世界だ」
「魔法使いって、本当にいるんですか?」
「ああ。ただし、才能のある者は少ない。そして魔法を使うには、適切な魔導杖が必要だ」佐藤は壁に掛けられた様々な杖を指差した。「安いもので十万、高級品になると数千万円する」
圭介は自分のひのきの棒を見下ろした。
「でも僕のは百円ですよ?」
「それが問題なんだ」佐藤は困った顔をした。「君のような例は前例がない。本来、魔法の威力は魔導杖の性能に比例するはずなのに...」
その時、事務所のドアが勢いよく開いた。
「佐藤、新人の件で来たが...」
入ってきたのは、白いローブを着た高慢そうな若い男性だった。胸には金色の徽章が光っている。
「白金財閥の御曹司、白金雅人様です」佐藤が慌てて説明する。「A級魔法使いで...」
「説明は結構」白金は圭介を一瞥した。「で、こいつが例の?随分と...庶民的な格好だな」
「あの、よろしくお願いします」圭介が頭を下げると、白金は鼻で笑った。
「その杖を見せろ」
圭介がひのきの棒を差し出すと、白金の表情が一変した。
「...冗談だろう?この安物でA級妖魔を倒したって?」
「はい、でも本当に...」
「証明してもらおう」白金は自分の杖—宝石をちりばめた豪華な代物—を取り出した。「私の『ヘルメス・スタッフ』は三千万円の最高級品だ。君のゴミクズと勝負してみろ」
「ちょっと待ってください」佐藤が割って入る。「ここで魔法戦は...」
「大丈夫だ。手加減してやる」
白金が杖を振ると、青い炎の球が現れた。それは圭介に向かって飛んでくる。
「うわあ!」
圭介は反射的にひのきの棒を構えた。
「守れ!」
棒から金色の光の壁が現れ、炎の球を完全に防いだ。それどころか、光はそのまま白金に向かって跳ね返っていく。
「な、なんだと...」白金は慌てて防御魔法を唱えたが、反射された光に押し切られて壁に叩きつけられた。
静寂が事務所を支配した。
「嘘だ...」白金が呟く。「三千万の杖が...百円の木切れに負けるなんて...」
佐藤は圭介を見つめた。
「田中君、君は一体何者なんだ?」
圭介にも分からなかった。ただ一つ確かなのは、自分の人生が今日から大きく変わったということだけだった。
手の中のひのきの棒は、相変わらず温かく光っている。まるで「これからが本当の始まりだ」と言うように。
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**つづく**
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