戦時中の軍事造船での脅威!!

アザゼル9

第1話

 俺がその軍事造船所に配属されたのは、ある戦争が激化し始めた年の春だった。名前などこの世界では無意味だ。ただ、俺は命じられた通りに働き、生き延びるだけだった――ネコの存在を知るまでは。


 造船所は、巨大な格納庫と組立施設、そして無数の鋼鉄の塊が並ぶ、無機質な空間だった。だがそのどこからともなく現れるのが、ネコだ。白や黒、縞模様や三毛。かわいい見た目に油断すれば、即死――いや、精神崩壊する。


 理由は単純。


 奴らは、うんこをする。  それを人の進路に巧妙に仕掛けてくるのだ。


 一度踏めば最後。  まるで地雷を踏んだような衝撃が精神に走る。


 最初の週、俺は見た。仲間の一人が「うわっ!」と叫んで転倒し、そのまま気絶。駆け寄った隊員たちは「踏んだぞ!ウンコ踏んだぞ!」と叫び、すぐに担架が来て、精神治療室へと運ばれていった。


 それ以来、俺は猫の存在に常に警戒するようになった。


 「おう、新入りか。俺は安地。何でも聞けや」  最初に声をかけてきたのが、安地さんだった。  白髪に油汚れのついた作業服。鋼鉄のように固い手。  だが何より印象的だったのは、彼が猫の攻撃をまるで予知するかのようにかわしていたことだ。


 「そこ行くな、今さっき茶トラがケツ浮かせとった」  その一言で俺は救われた。


 安地さんは、造船の基礎から応用まで、丁寧に教えてくれた。猫への警戒も含めて。


 だが、彼は歳だった。  ある日、静かに工具を置いて言った。


 「ワシは今日で引退じゃ。後は自分でやれ。猫には気ぃつけろ」


 そして、次に俺が目をつけたのが、山路さんだった。  彼はネコ好きだ。いや、ネコ信者と言っていい。  あちこちにキャットフードを撒き、ネコを呼び寄せては撫でまわす。


 「いい子だなぁ、おまえらは……」


 俺が忠告しようとすると、彼はにやりと笑って言った。


「この可愛さに抗える奴がいたら連れてきてくれよ。そいつは人間じゃない」


山路さんの言葉に、俺は返す言葉を失った。


――いや、間違ってる。

そう思った。でも、言えなかった。

なぜならそのとき、山路さんの肩に黒いネコが飛び乗っていたからだ。


「こいつはクロベェ。この工場のボスさ。なあ?」


クロベェは人間の言葉が分かるかのように、山路さんの肩で尻尾をゆらりと揺らした。

その動きに、どこか威圧感があった。


「……山路さん、それは危険です」

「危険?アホ言え。ネコは敵なんかじゃない。共存するもんだ」


そう言って笑う彼を、誰も止められなかった。


だが、それから三日後。

造船区画E-2の隅で、山路さんは発見された。


仰向けで、微笑みながら、目は虚ろに、手には空のキャットフードの袋。

靴の裏には、明らかな“踏み跡”がこびりついていた。

しかも、三重踏み――異なる三匹のネコの攻撃を同時に受けた痕跡だった。


「……ネコに信じ込まされたか」


安地さんの最後の忠告が、俺の脳裏をよぎった。



---


それから、俺の中で何かが変わった。


俺はネコを「敵」として認識するようになった。


仲間の整備兵・戸田と共に、俺はネコの排泄ルートと出現パターンを記録する任務に就いた。

通称「糞戦線監視班(ふんせん)」。


記録の初日、戸田が言った。


「なぁ……これ、戦争だよな?ネコ相手に、俺たち戦争してんだよな……?」


俺は黙って頷いた。

そして、双眼鏡で遠くの足場に座る白ネコを見据えた。


「尻を浮かせてる……2秒以内に……」


ポトッ


「来た!記録ッ!」


戸田がノートに素早くメモを取る。


「午前08時33分、白ネコ、南架台下で排泄。弾種:軟性。踏撃警戒レベルC」


そう、もはや弾道弾のように分類せざるを得ない状況だった。



---


翌週。


「やべえッ!E-4通路、ネコが5匹並んでやがる!」


「これは罠だ……包囲陣だッ!」


無線が飛び交う。

まるで前線の指揮所のような緊迫感だった。


だが、俺は見た。

その5匹のうち、真ん中のネコ――金色の長毛種が、一歩、こちらに向けて動いた。


「あれは……シャルル……!」


誰かが呻いた。


シャルル――伝説の最凶ネコ。

奴が動いたとき、それは“精神攻撃の号令”だ。


逃げる間もなく、床に何かが転がる音がした。

戸田が叫んだ。


「踏んだああああッ!!」


次の瞬間、彼は無言でその場に崩れ落ちた。


俺は動けなかった。


シャルルの瞳が、ゆっくりと、確実に――俺を見据えていた。



戸田が崩れ落ちた音が、時間を止めた。


彼の手から滑り落ちた記録帳が、ゆっくりと床に舞い落ちる様子が、まるでスローモーションだった。俺はそれを見ながら、ただ、立ち尽くしていた。


シャルルは動かない。金色の長毛が風もない倉庫の空気をなびかせ、瞳はまっすぐ、俺を貫いている。


その瞳が問いかけている。


――お前は、どちら側の人間か?


俺の足が、一歩、前に出た。


逃げることもできた。無線で応援を呼ぶことも。だが、俺は動かなかった。


「……覚悟を決めたんだ」


ポケットから取り出したのは、安地さんの残してくれた「猫糞対応マニュアル」だった。表紙には殴り書きでこう書かれている。


『これは戦争だ。だが、勝てる戦争ではない』


ページをめくる手が震える。シャルルはまだこちらを見ている。微動だにせず。まるで、こちらの出方を見ている将軍のように。


次の瞬間――


「動いた!」


シャルルの右後脚が、わずかに浮いた。


「糞兆……!」


俺は本能で飛び退いた。次の瞬間、床に小さな音が響く。


ポトリ。


だが、ただの糞ではなかった。


「……三段弾ッ……!?う、嘘だろ……!」


軟性、硬性、粘着性――三種の性質を一度に含んだ「複合型」が床に転がっていた。


これまで記録されていない、新種。 俺は無意識に「コード:Ω(オメガ)」と命名していた。


「シャルル……お前……進化してやがる……!」


このままじゃやられる。俺は咄嗟に、訓練棟裏で密かに開発していた**「簡易糞検知シールド(試作ver.3.7)」**を展開した。安地さんのメモと、戸田の観察記録を元に開発した、薄膜センサーと芳香中和フィルターを備えた携帯盾だ。


「来い、シャルル……俺は、お前を倒す!」


だが、シャルルは動かなかった。


それどころか――にやり、と笑ったように、口の端が吊り上がった。


「なに……!?まさか……ッ」


俺は背後からの殺気に気づいた。 振り向いた瞬間、そこには――ネコの集団。


三毛、黒、白、茶トラ……見覚えのある顔ぶれが、シャルルの背後に控えていた。


いや――違う。


これは、部隊だ。


指揮官:シャルル。 副官:クロベェ(元・山路さんのネコ) 突撃兵:通称「シマ」、通称「ミミ」 情報撹乱班:双子の三毛ネコ「ミケル&ミケリーヌ」


完全に包囲されている。これはもう単なる事故でも自然現象でもない。


これは――作戦だ。


「“ネコ反攻作戦(プロトコル・シャルル)”が始まったのか……!」


俺は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。 これは偶然の糞じゃない。人間社会への侵略だ。 精神を腐らせ、足元から崩壊させる、見えざる戦争。


そして、俺は――


「……ここで、終わるわけにはいかないッ!」


腹を決めた。


腰のホルダーから取り出したのは、“猫糞専用マーキングスプレー”。 自衛隊化学班から横流しされた逸品で、猫の排泄物の揮発成分に反応し、ルートを光で浮かび上がらせる。


「……行けッ!」


俺はスプレーを撒きながら突進した。 シャルルが警戒し、一瞬身を引いた。 その隙を突いて、俺は戸田の記録帳を拾い上げ、背後のドラム缶に飛び乗る。


「シャルル!お前たちは――敵だ!俺たち人間の、敵だッ!!」


咆哮のような声が倉庫に響く。


そして、次の瞬間。


ネコたちが――一斉に、尻を浮かせた。


「総排泄攻撃(アーク・デフレクション)――来るッ!!」


世界が、茶色く染まった。



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数日前の「事件」――あの作業員がネコの地雷を踏んで廃人になった件は、誰も口にしなくなった。いつものことだ。あいつの名前すら、もう誰も思い出せない。

 造船所では、忘却こそが生き残る術だった。


 その日も朝から鉄の唸りが空気を裂き、溶接の閃光が視界の端を焼いた。俺は相変わらず、格納庫裏の第二作業棟でリベット打ちに追われていた。


 「おい、あんた……あそこ、またネコがいたぞ」


 背後から声をかけてきたのは、隣の作業区画で働く若いあんちゃんだった。まだ二十歳そこそこ。よく喋るが、最近目の焦点が合ってない気がする。たぶんもう手遅れだ。

 俺が無言でうなずくと、あんちゃんは肩をすくめて続けた。


 「でもあそこ、柳井の兄弟がいたのにな……ネコが逃げなかった。妙だと思わない?」


 柳井兄弟――この造船所ではちょっとした異物だ。

 どちらも無口で陰気、でも船の造りに関しては鬼のように厳しく、腕も立つ。

 それ以上に妙なのは、あの兄弟にはネコの“魅了”が一切通じないということだ。

 普通なら、ネコが一匹近づいただけで何人かは目が虚ろになり、意味のわからない歌を口ずさみ始める。最悪の場合は、鋼材の間に頭から突っ込む。


 だが、柳井の兄弟は違う。ネコが懐こうが、擦り寄ろうが、完全に無視する。

 感情がないのか、あるいはもう壊れてるのか。誰にもわからなかった。


 その日の午後、俺はクレーン搬入口の横で、異様な光景を目撃した。

 作業台の脇に、うっすらとした黒く湿った塊。――そう、アレだ。

 誰かが処理前に放置したネコの地雷。場所が悪かった。夕日が差し込んで、床の金属と同化していた。


 「あ」


 バシャッという音。

 ――踏んだのは、柳井の兄だった。


 その瞬間、兄弟の肩がビクリと跳ねた。

 次いで、彼はゆっくりと振り返り、誰もいない空間に向かってぼそりと呟いた。


 「……白い……あれは、魚じゃない……鳥、か?」


 弟がすかさず兄の肩を掴んで制止する。


 「兄さん、ダメだ。幻覚だ。今は作業だ。ほら、図面を見ろ」


 それは一瞬のやり取りだったが、俺には決定的だった。

 ――ネコの“魅了”は効かないが、ウンコ(精神汚染)は効く。

 柳井兄弟にも、まだ人間らしさが残っている。いや、それゆえに危うい。


 俺はネコの気配を感じ、背後を振り返った。

 格納庫の暗がりから、一対の光る目がじっとこちらを見ていた。



---視線を感じた。

 振り返った先、格納庫の暗がりに潜むそれは、まるで影のように静かだった。光る双眸だけが、闇の中で微かに揺れ、俺を測っていた。


 「……また、来たな」


 俺は心の中でそう呟く。


 ネコだ。それも、ただのネコじゃない。

 あれは、知っている。こちらの行動も、思考も、恐らくは……感情すらも。

 最近、そう感じることが増えていた。


 柳井の兄弟は、まだ作業に戻ろうとしていた。兄は多少ふらついていたが、弟が肩を貸し、無言で支えていた。


 あの無表情な顔の裏で、どんな悪夢を見ていたのかは分からない。

 だが、あの一瞬で分かった――奴らの精神汚染は、着実に強化されている。

 そして今、柳井兄弟という「効かない存在」すらも、確実に侵されている。


 「兄さん……“あれ”は魚じゃない……って言ってたよな」


 ぼそりと呟いたのは、隣にいた若いあんちゃんだった。

 その言葉に、俺は再び背筋が凍るような感覚を覚えた。


 「お前、聞いてたのか?」


 「……うん。あれ、たぶん……“幻影注入型”だよ。最近出てきてる、新しいタイプ。糞そのものに情報を仕込んでくるやつ」


 「……どういうことだ?」


 あんちゃんは、少し目を泳がせてから口を開いた。


 「俺、実は……前に少しだけ、踏んだんだよ。“薄型”のやつ。そしたらさ、見えたんだ……昔飼ってた犬が、ネコになって襲ってくる夢。毎晩同じ夢なんだ。あの糞、記憶と感情を混ぜてくる」


 精神汚染。それは単なるショックではなく、記憶にアクセスするウィルスのようなものになりつつある。

 人間の深層に侵入し、そこから心を壊していく。


 「……つまり、やつらは俺たちの脳を“読んで”いるってことか」


 「うん……でも、それでも俺、まだ働いてるし、大丈夫だよ。柳井兄弟も、たぶん大丈夫さ」


 あんちゃんはそう言って笑った。だが、その目はやはりどこか焦点がずれていた。


 「……“まだ”な」


 俺は小さく呟く。

 そして、再び闇の中のネコに目を戻した。


 ――そこにはもう、誰もいなかった。


 残されたのは、小さな、うんこのしみだけだった。



---


 その夜、宿舎のベッドに横たわりながら、俺は天井を見つめていた。

 クロベェ、シャルル、そして今や“部隊”を組んで動くネコたち。

 こいつらは単なる動物じゃない。確実に、知性がある。


 ――なら、あれはもう「生き物」じゃない。


 そう、兵器だ。


 そして俺たちは、それに立ち向かう“兵士”だ。


 「……戦争、か」


 誰にともなく呟いた。


 だがこの戦争に、前線も銃もない。あるのは、日常の隙間に仕掛けられた、

 臭くて、見えにくくて、精神を削る“糞”の地雷だけだ。


 俺は記録帳を開き、新しい項目を記入した。



---


> 日時:〇月△日 20:17

種別:幻影注入型/精神操作型

発見場所:第二作業棟・クレーン搬入口

対象者:柳井兄(軽度感染)

状況:踏撃→幻覚→混乱→弟による制止

特記事項:あんちゃんより新情報。糞には記憶誘導・感情連結の機能あり。要再調査。





---


 「……安地さん、あなたが言っていた“勝てない戦争”って、こういうことだったんですね」


 俺はそっと記録帳を閉じ、枕元の小型シールドを確認してから、目を閉じた。


 その夜、夢の中で――


 俺は白いネコに、こう囁かれた。


 「おまえは、まだこっちに来てないだけだよ」




その日、仕事終わりの疲労感は、いつにも増して重かった。


 汗と鉄粉にまみれた作業服のまま、俺は重い足を引きずって、造船所南側の集団浴室棟へ向かった。

 ここは一日の最後に唯一、緊張を解ける場所――の、はずだった。


 だが、その静寂は、異様な臭気によって破られた。


 「……なんだ、この匂い……?」


 先に入っていた仲間の一人が吐きそうな顔で、脱衣所から戻ってきた。


 「ちょっとヤバい。風呂場……なんか浮いてる」


 俺は急いで浴室に向かった。

 扉を開けた瞬間、鼻腔に突き刺さる悪臭が脳天まで直撃した。


 「――ッ!」


 浴槽の湯はすでに濁っていた。茶色く、油膜のようなものが浮き、そして……

 無数のネコのウンコが、ぷかぷかと湯に揺れていた。


 そして――そこに浮かぶ、数体の男たちの裸の死体。


 「才羽さん……!」


 一番奥の壁に寄りかかるように沈んでいたのが、才羽(さいば)さんだった。


 彼は年若い整備士たちの面倒をよく見ていた。寡黙だが、手は早く、判断は的確。

 皆から慕われていた。だが今、その彼の目は見開かれ、口元には泡がこびりついていた。


 「……才羽さん……おい……」


 湯船から引き上げたとき、湯気の中からネコの鳴き声が聞こえた気がした。

 それは高く、乾いた声で――笑っているようにも聞こえた。



---


 その晩、作業員宿舎では緊急会議が開かれた。

 隊長格の工区主任すら顔面蒼白だった。


 「――浴室は封鎖する。以後、個別洗浄のみ。屋外水場にて交代制での清拭処理に変更する」


 「ネコが……ついに休憩区画にまで……」


 誰かがそう呟いた。


 これは大きな転換点だった。

 これまでネコの脅威は、作業区域限定とされていた。食堂や浴場、宿舎は“安全地帯”としてかろうじて機能していたのだ。


 だが、その常識が破られた。

 ネコは境界を超えた。もう、後ろはない。


 俺はそっと記録帳を開き、あの忌まわしい事件を記した。



---


> 日時:〇月◇日 17:58

発見場所:南浴室棟・中央浴槽

状況:才羽さんほか4名死亡。全員の呼吸停止・眼球拡張。口腔から泡沫確認。

物的痕跡:浴槽内に大量の猫糞(計27個)。明らかに意図的投下と推定される。

特記事項:防衛ライン突破。ネコの侵攻は施設全域に拡大。





---


 その夜、俺はシャワーも浴びずにベッドへ倒れ込んだ。

 だが、眠れなかった。


 ――才羽さんは、最後に何を見たのだろう。

 何を感じ、何を思って、死んでいったのか。


 夢の中で、風呂場に立つ才羽さんが、湯の中から俺を見ていた。


 「……気をつけろよ。もう、ここは“後方”じゃない」


 俺は絶句する。


 「奴らは、すぐそばにいる。俺たちの足元で、笑ってる」


 そう言って、才羽さんの口元から泡が溢れ出た。



---


 翌朝、造船所の空気はいつになく静かだった。


 いや、正確に言えば――誰もが口を開かず、ただ黙々と作業していただけだった。死の臭いが、鉄と油の隙間にこびりついて離れない。


 才羽さんの死は、あまりにも大きかった。皆の間に、言葉ではなく“理解”が広がっていた。


 ネコは、境界を越えた。


 「後方」は、もう存在しない。



---


 その日、俺は再び戸田の記録帳を持ち出し、「糞戦線監視班」の任務に就いていた。


 だが、いつもと違うのは――監視対象が浴場を含む全域に拡大されたことだった。


 格納庫の北側、作業棟と食堂をつなぐ通路。その中央にある監視ステーションに、俺ともう一人の新たなメンバーが配置されていた。


 「……あんたが“記録係”かい?じゃあ俺は“掃討”か。いいコンビだな」


 そう言って手を差し出してきたのは、新任の除染作業員・**伊佐(いさ)**だった。


 年は俺と同じくらい。整った顔立ちだが、どこか目が死んでいる。顔には濃いマスクの跡、手には常にガイガーカウンターのような検知器を握っている。


 「本当は医療班志望だったんだけどな。ウンコの除去要員に回されるとはな……」


 笑っているが、その目は笑っていない。


 彼が持つその除染器具――“K.U.N-KO (Kinetic Unseen Neutralizer - Kappa Option)”、通称「クンコ」。  ネコの糞に含まれる“精神感染素子”を化学的に中和する装備らしい。どこかの研究所が政府との非公式契約で開発した試作品だ。


 「お前、あの“幻影注入型”っての、見たことあるのか?」


 伊佐の問いに、俺は頷いた。


 「柳井兄が軽度感染。あと……あんちゃんが、すでに夢に蝕まれてる」


 「夢、か……最近、俺も見てる。赤ん坊のころの夢だ。誰かに抱かれてるんだが、顔が見えない。そして、膝の上には……白いネコ」


 言葉が止まる。


 この“精神戦”は、記憶にまで侵食している。



---


 午後、第二作業棟西側――通称「死角の通路」。


 もともと物資保管用だったが、今ではほとんど使われていない。だが、だからこそネコが出やすい。


 「クンコ反応あり。強度B。移動するぞ」


 伊佐が低く囁く。


 通路の奥、折れ曲がった鉄パイプの陰。小さな影があった。


 白と黒のまだら模様。――俺は知っている。あれは「ミケリーヌ」。ミケルとともに、幻惑・混乱を誘う撹乱班の一員だ。


 「来るぞ……奴の眼を見るな。音も……遮断!」


 俺は耳栓を装着し、サングラス型の遮断ゴーグルを下ろす。  その一瞬で、ミケリーヌが尻を浮かせた。


 「動作確認……!」


 伊佐が素早くクンコを構え、除染フィルムを噴霧する。


 次の瞬間――


 パシュン、と音がして、ネコの足元に霧が広がった。


 「着弾確認……だが、反応が変だ……!」


 ミケリーヌが跳ね上がるようにして逃げた。だが、そのあとに残されたのは――何もない空間。


 「……待て、伊佐。おかしい」


 俺は周囲を見渡す。


 「反応はあった。ミケリーヌも実在してた。だが……痕跡がない」


 「……まさか……」


 伊佐が顔色を変えた。


 「“思念型”かもしれない……!」



---


 幻影注入型とは違う、さらに進化した存在。  “視認”と“接触”が必要だった従来型とは違い、見るだけで精神に影響を与える“思念拡散型(タイプΦ)”。


 「記録に追加だ……」



---


> 日時:〇月◆日 13:49 種別:思念拡散型(タイプΦ) 観測対象:ミケリーヌ(推定) 状況:遮断装備により直接汚染は回避。クンコによる除染無効。現場に排泄物痕跡なし。 特記事項:対象が“存在そのもの”で干渉してくる恐れ。視線・記憶への侵入確認。





---


 その夜。


 伊佐がぽつりと呟いた。


 「……俺さ、今日の昼から、ずっと頭の中で“鳴いて”るんだよ。ネコが」


 俺は、言葉を返せなかった。


 ただ、そっと、記録帳にもう一行だけ追加した。



---


> 備考:クンコの効果、思念型には限定的。遮断装備の更なる強化が必要。

今後、“音”を媒介とした精神侵入の可能性あり。





---


 俺たちは、戦っている。


 ネコは進化している。


 この戦争は、もう“現実”だけじゃない。


 音、視線、記憶、夢、そして――心。


 気を抜けば、一瞬で「向こう側」に連れていかれる。

 そしてたぶん、戻ってこられない。



---


 眠れぬ夜。俺はふと、耳元で声を聞いた。


 「おまえは、もうこちらに足を踏み入れてるんだよ」


 あの白いネコの声だ。


 振り返っても、そこには誰もいない。ただ、部屋の隅に――


 小さな茶色い染みが、にじんでいた。



才羽さんの死から、まだ一晩も経っていなかった。


 風呂場は封鎖された。あの静かな浴場が、今では「不浄指定区域」として警備兵が常駐している。浮いていたネコのウンコは、幻覚成分と臭気拡散性を兼ね備えた高濃度汚染体であると確認され、吸い込んだ者のうち半数が「実家の幻」に呑まれ、そのまま心が帰ってこなかった。


 俺たちは、もう入浴もできない。ただ、沈黙と疲労のなかで、毎夜、ネコの気配に怯えながら寝床へ潜り込む。

 だが今朝、軍からの視察団がやってきた。


「おい、来たぞ……あれが“前田”だ」


 作業区画の一角で、ざわつく声が広がる。整備兵たちが息を呑むなか、革製の長コートを着た男がゆっくりと歩いてきた。階級章は見えないが、彼の背後には参謀連中が控え、誰もが一歩後ろを歩く。

 智将――前田。ネコとの都市戦で数々の勝利を収めた、唯一“猫糞汚染域”からの帰還者。


 前田は立ち止まると、俺たちの宿舎をぐるりと一瞥した。


「……今夜、ここを守る。私に任せてもらおう」


 それだけ言って、さっさと宿舎へ入っていった。



---


 夜。

 風が止まっていた。月も出ていない。だがネコたちは来る。いつものように気配を消して、ひとつ、またひとつと鋼鉄の床を伝って忍び寄る。


「シャルル……どこだ、シャルル」


 俺の耳に小さな声が届く。

 そう、シャルル――あの忌まわしくも魅惑的なネコだ。あの夜のあと、姿を消したが、造船所のどこかに潜んでいる気がしてならない。彼女の目は、俺たちのすべてを見ていたような、あの瞳が忘れられない。


 その時だ。


 「……臭うぞ」


 前田の声が、宿舎内に低く響いた。


 すでに外壁には幾つかの汚染が浮き出ていた。猫のウンコが、壁の目地からにじみ出るように現れる。幻覚注入型、気化型、そして最近確認された“模倣型”。実際には存在しない猫ウンコの幻を見せる精神攻撃もある。手で触れた瞬間、視界が“柔らかな毛玉”に覆われる。

 前田は、ポケットから金属製の小瓶を取り出した。


 「塩化硝酸銀。猫の幻影に混ざる可視毒素を凝固させる」


 瓶をひと振りすると、宿舎の壁がパリパリと凍り始めた。


 ネコの気配が、一斉に散る。


 「来たか。真正面から……来るぞ!」


 次の瞬間、扉の隙間から伸びる小さな白い手。音もなく忍び込む三匹の影。そして天井裏――そこに、いた。


 「シャルル……」


 俺は声に出していた。


 前田がすかさず手を上げた。「あれは本物ではない。声に出すな。名を呼べば呑まれる」


 しかし、そのシャルルは確かに俺のほうを見ていた。ゆっくりと、哀しげな顔で。

 いや、ちがう。顔ではない。目だ。目だけが、異様に濡れて、深くて、吸い込まれそうだった。


「おまえは……なぜ、ここに戻ってきた……」


 心のなかで呼びかけると、シャルルが一瞬止まった。

 その間に、前田が銀粉を投げつけた。シャルルの姿がふわりと崩れ、煙のように消える。


 「幻影か……いや、残留記憶だな」


 前田はつぶやいた。「この宿舎には、ネコの思念が染みついている。これはもはや戦争ではない、“記憶との戦い”だ」



---


 朝。


 俺たちは、一晩を守り切った。

 誰も精神崩壊しなかった。前田はすでに姿を消していたが、宿舎の壁には、ひとつの痕跡が残されていた。


 それは、シャルルの足跡だった。

 小さな、肉球の跡。宿舎の玄関から、外へと続いていた。まるで――俺たちに別れを告げるように。


 まだ終わってはいない。

 だが、ひとつだけ分かったことがある。あのネコたちは、ただの兵器ではない。奴らは、なにかを“訴えて”いるのだ。

 それが何かは、まだ分からない。


 でもきっと――俺たちの心の奥に、もう住み着いてしまっている。

--

朝が来ても、霧が晴れることはなかった。空気は湿っていて重く、まるで昨日の戦いの残り香が漂っているようだった。


 俺は宿舎の裏手にある水道で顔を洗った。だが、うなじのあたりにずっと視線を感じていた。振り返っても誰もいない――そう、誰“では”なかった。


 屋根の上だ。そこにいた。


 丸く、いや、楕円に膨らんだ灰色の塊。ぶよぶよと揺れる腹、ふてぶてしい顔つき、耳に傷、片方の目は白濁している。だが、その目は俺を射抜くように見下ろしていた。


 「……ドン」


 誰かがそう呟いた。そう呼ばれていると知っているのか、ドンは身じろぎもせず、ただ重々しく尻をこちらに向けた。  その瞬間、屋根から何かが“ポトリ”と落ちた。


 前田なら即座に言うだろう。「これは警告だ」と。


 ドン――猫たちの“頭”。  我々が“踏まされる”前に、あのネコは全体を“見て”いた。奴は宰相のように動き、何もせず、ただ判断し、命じる。戦場における“王”のように。



---


 午後。造船所の食堂に異変が起きた。


 若い女がひとり、食堂の奥で泣いていた。名前は覚えていない。食器洗いをしていた少女だ。


 管理者が何かを見せていた。防犯映像。そこには、彼女がコッソリと袋から何かを出している姿。――煮干しだった。猫用の、乾燥したやつ。


 「……毎晩、ひとりで……あいつらにエサをやっていたのか?」


 彼女は泣きながら、ただ首を振った。


 「シャルルだけだったの……あの子、最初は怪我してて、ほっとけなくて……」


 その映像の最後、遠くの影からこちらをじっと見つめている、巨大な塊――そう、ドンが映っていた。


 会議は一瞬で終わった。


 彼女は、食堂からも、造船所からも、姿を消した。



---


 その晩、ネコたちの“攻撃”は一変した。


 最初に倒れたのは塗装班の古参、斉田だった。ドアの開閉に連動して仕込まれていた「隙間地雷」に足を滑らせ、臭気で嘔吐、その後錯乱状態に。


 続いて、階段。薄暗い鉄の螺旋階段の隅。踏み出した瞬間、見えないウンコ地雷が起動し、まるで“焼きたて”のような温もりが靴底を包み込む。


 「うわあああああ!!」という絶叫と共に、山岡が階段を転げ落ちた。骨折。泣きながら「柔らかかった」と繰り返していた。



---


 だが最大の事件は、潜水艦の修理中に起きた。


 機関部に入り込んでいた俺たちは、這って移動しながら配線と溶接を行っていた。後方スペースは狭く、前に進むしかない。ところが――作業完了後、戻ろうとした瞬間。


 「やめろ!!戻るなッ!!」と叫んだのは前田だった。


 だが遅かった。江藤の膝が、ホカホカと湯気を立てる“塊”に触れた。


 その瞬間、彼の眼が裏返り、失禁。顔を引きつらせたまま昏倒した。


 「戻るルートに仕掛けてやがる……あのネコども、思考を読んでるのか?」



---


 全員の疲労が限界に達したその夜、再び、ドンが現れた。


 工場のクレーンの先端。闇夜に浮かぶその巨大な輪郭。猫とは思えぬ質量と存在感。


 ドンのまなざしの先には、シャルルの影があった。


 鉄骨の上、身を縮めるようにして座る白いシャルル。その身体が、どこか怯えているように見えた。


 ドンは何も言わず、ただじっと見ていた。まるで――裁きを下す者のように。


 そして、静かに向きを変え、闇に消えた。



---


 翌朝。


 またひとつ、足跡が増えていた。


 だがそれは、ドンのものだった。大きな、沈み込んだ肉球の痕。それが工場の中心――司令室の扉前まで続いていた。


 「侵入……?」


 いや、侵入ではない。これは“進出”だ。あの猫は、ついに――


 「中枢を奪いに来た」


 誰かが呟いたその言葉が、静かに造船所を支配し始めた。



---


 まだ戦いは終わっていない。  むしろ、これからが本番なのだ。ネコはもう、ただの脅威ではない。


 ――我々の記憶に入り込み、習性を読み取り、戦術を編み出し、主導権を握る者。


 「ドン」という存在が、それを象徴していた。


 そしてシャルル……彼女はいったい、何のために現れ、なぜ姿を消したのか。


 あのとき、クレーンの上で見た眼差しは、まるで――助けを求めていたようだった。


 ネコは我々に問いかけている。


 だがその問いは、未だ誰にも、解けていない。

--


 階段を下りるときは、足元を見ずに壁を睨む。

 ドアを開けるときは、鼻で空気を確かめ、耳を澄ます。

 手すりに手を置く前に、必ず軍手の指先で表面をなぞる。


 そんな慎重な生活が、今では「普通」になっていた。

 ……いや、普通なんてものはもう存在しないのかもしれない。


 今日もまた、一人死んだ。

 第三倉庫でスパナを拾おうと腰をかがめた拍子に、下に仕込まれていた糞を直視したらしい。

 発見されたときには、目を見開き、天井のネコの絵を見ながら笑っていたという。

 そんな絵は、元々なかった。



---


「お前、最近一人で動きすぎだぞ」


 そう言ってきたのは、柳井兄の方だ。目つきが常に怒っていて、口も悪い。

 隣には、まるで鏡のようにそっくりな弟が立っている。

 双子ではないが、動きも声も呼吸すら揃っていて気味が悪い。だが、頼れる。


「ここまで来ると、もう作業員がウンコで死ぬだけじゃすまない。ネコは動線を把握してる。誰がいつどこを通るか、読まれてる」

「つまり、どこかに"見張り"がいるってわけだ」


 柳井弟が補足するように言う。

 俺は少し間を置いて、問い返した。


「……"どこから入ってきているか"、気になっている」


「俺たちもだ」

「一緒に、動くか?」


 一瞬だけ、三人の間に沈黙が流れた。

 警戒と疲労と、疑いと信頼と、そして死臭。


 俺は頷いた。



---


 翌日から、俺たちは監視対象区域を選んで交代で張り込みを開始した。

 作業はしない。命令にも従わない。報告も上げない。ただ、ネコを追う。


 まずは風呂場からだった。才羽さんが死んだ、あの浴場。

 ここに入り込めるなら、もはやどこにでもネコは入れる。


 夜の二十三時。

 湯気はもう消えて久しい。排水溝の金網が開けられていた。

 柳井兄が小声で言う。


「……ここ、昨日までは閉まってたぞ」


「気づいたか?」


 奥に、濡れて乾いたばかりの猫の足跡があった。五歩分。途中で消えている。

 それは足跡ではなかった。


「……ウンコの跡だ」


 柳井弟がぽつりと呟いた。


 俺たちは、そこから空調ダクトを通じてネコが出入りしている可能性に気付く。

 ダクト内に設置されていたのは、小さな糞のかけら――いや、幻影注入型の標識ウンコだった。人間の目に「普通の空間」と思わせ、見過ごさせる仕組み。


「やりやがる……」

「これは、個体じゃない。軍だ」


 このとき、俺たちは確信した。

 ネコたちは偶然そこにいるのではない。戦術に従って動いている。司令部がある。



---


 その夜、帰り道の薄暗い廊下で、俺は見た。


 照明が壊れかけてちらつく通路。

 ドアの隙間から、ふと覗く光彩。

 目だ。ネコの目が、ドン、と音を立てずに光っていた。


 だが――その横に、もうひとつ、別の目があった。

 ……人間の目だった。



------


 足音がしない。だが、誰かがいる。

 そう確信するには、十分すぎる気配だった。


 俺は目を凝らす。

 だが、それは罠だった。目が光っていたのではない。光らされていたのだ。


「伏せろ!!」

 柳井兄の怒声が響くと同時に、通路の奥で何かが爆ぜた。

 風圧とともに吹き出す――乾いた糞の粉。


 咄嗟に顔を覆ったが、視界の片隅にしま模様の猫の背中が滑り込むのが見えた。



---


🐾「突撃兵・シマ」登場


 それは、攻撃を目的とした個体だった。

 通称「シマ」。灰色に黒の縞模様。眼光が鋭く、瞬間の動きだけで人の死角を突く。

 今回の任務は、幻影粉塵型糞を使った奇襲。


 人間の見張りが始まったのを受けて、ネコたちも「囮」と「打撃」の段階的作戦に移っていた。

 シマはダクトからすべり出し、粉塵型糞を叩きつけ、逃げる――

 まさにネコ版の煙幕突撃兵。



---


「……アイツ、尻尾にワイヤー巻いてた」

 柳井弟が呟く。

「人間が巻くんじゃない。あのネコ自身が……準備してる」


 何かが、根本から変わっている。

 ネコたちはもう野生ではない。訓練され、作戦を理解している。



---


🐾「副官・クロベェ」の作戦調整


 シマの突撃が成功したその裏では、クロベェが暗がりの足場から全体の動きを見ていた。

 元・山路さんの飼いネコ。人間の生活動線を熟知している。


 クロベェは「捨てられた者」としての冷徹な思考を持ち、部隊の編成や行動指針をシャルルと共に整えている。


 この夜の作戦は、「通路の封鎖と逃走路の誘導」。

 シマの奇襲後に、あえてネコの影を人間に見せることで「追跡させ」、幻影型糞地帯へ誘導する構造。



---


🐾「情報撹乱班:ミケル&ミケリーヌ」


 その幻影地帯の布置には、あの双子が関わっていた。

 三毛猫のミケルとミケリーヌ。どちらも完全に左右対称の模様を持ち、別々の方向から出現する。


 二匹は、「あそこにいたはずなのに、こっちにいた」という感覚を人間に与えることで、地形や方向感覚の錯覚を起こさせる。


 今回も、柳井兄が見た目の光彩は――実はネコの目ではなかった。

 ミケルが反射素材を抱え、廊下奥に“置いた”糞の光を増幅させたのだ。


「奴ら、目の高さ、床の高さ、人間の心理を逆手に取ってる……」

 そう気付いたときには、もう遅かった。



---


🐾「指揮官・シャルル」


 全体を指揮するのは、シャルル。

 幻影注入型の能力を持ち、決して表には出ない。

 直接的な戦闘には加わらず、他のネコたちを遠隔的に動かす「視界共有」能力を持つとされる。


 この夜、シャルルはただひとつの命令を下していた。


> 「人間の“安全”という感覚を消しなさい」





---


 俺たちは一命を取り留めたが、柳井弟が幻影区域に一歩入りかけ、意識を失って倒れた。

 抱き起こした彼の目は――うっすらと、涙を流していた。


「……ウチの、妹の声がした」

 そう言ったきり、しばらく口をきかなくなった。



---


 次は、どこだ。

 ネコたちはもう、ただの侵入者じゃない。

 正規軍だ。



------


 夜勤明けの構内に、蝉の鳴き声はなかった。

 だが、俺の耳の奥には何かが響いていた。声だ。人の――いや、ネコの――。


 柳井弟はまだ目を覚まさない。あの幻影地帯で聞いた「妹の声」のあとから、ほとんど眠ったように横たわっている。

 彼の額には冷や汗。眉間には微かな皺。夢を見ているのだろう。悪い夢を。


 俺は、あの声が何だったのかを知りたかった。



---


 第三格納庫。前線作業エリアの裏手。

 ここは今、ネコたちの出入りが確認されている新たなホットスポットだった。


 糞は見えない。匂いもしない。だが、**靴底がわずかに“滑る”**のだ。

 何かが塗られている。透明な膜状のもの――滑性幻覚誘導型糞。


 この手口は、ミケルやミケリーヌではない。

 ミミ――もう一人の突撃兵の仕事だ。



---


🐾 突撃兵・ミミ登場


 シマが「突撃と即退避」を繰り返す物理アタッカーだとすれば、ミミは幻惑と距離の操作に特化したスナイパー型。


 茶トラに白の混じる長毛、鈴のついた首輪。だがその鈴は音がしない。


 ミミは主に、「幻聴」を用いて標的を動かし、指定ポイントに誘導する能力を持つ。


 あのとき柳井弟が聞いた「妹の声」も――

 現実ではなく、ミミの誘導音声だった。


> 「お兄ちゃん、もう帰ってきて……」




 その言葉に込められたのは、幼少期の記憶。

 ミミはどこかから、彼の記憶の一部を読み取ったのだ。どうやって? わからない。

 だが、奴らはやってのけた。



---


 俺が気づいたのは、微かに壁に映った影だった。

 まるで人間の子どもがしゃがみ込んでいるような影――しかし、その隣に、四本足の影が寄り添っていた。


 ミミはそこにいた。



---


「ミケルか?」

 そう思いかけたが、違う。影の形が違う。

 あの長い尻尾、ゆっくりと揺れる癖……ミミだ。


 俺は物陰から目を離さず、低く呼びかけた。


「……柳井」


 すると、その瞬間だった。

 **“カラン”**と音がして、柳井弟が自分の荷物を床に落とした。


 ……立っていた。目を開けたまま。無言で。


「帰る……もう、帰る……」


 幻覚はまだ続いていた。

 それだけじゃない――ミミは今、彼の行動を操っている。



---


「柳井! 止まれ!!」


 だがその声は、届かない。

 彼の足元、次に踏み出す場所には――見えない糞の塗布痕。さっき俺が滑った場所だ。


 走る。

 掴む。

 転ぶ。


 滑る床で、俺は柳井弟の肩を強引に押し倒した。

 彼の体は床に転がり、俺の顔に何かが当たった。


 ……ネコだ。ミミだ。



---


 瞬間、目が合った。

 ミミの両目は、まったく光を持たず、ただ深い鏡のようだった。

 そこに映っていたのは、俺の母親の顔だった。


「……あんた……まだ、ここにいたの……」


 耳元でそう囁かれた気がした。



---


 目を開けると、俺は床に倒れていた。

 ミミはいない。声も、母の顔も消えていた。


 だが、柳井弟は俺の腕を掴んでいた。震えながら。


「……見えた。お前も、見えたんだろ……あいつの目の中に」

「……ああ」



---


 ミミの能力は、ただの幻聴じゃない。

 「記憶の再生」だ。しかも、それを通して“操作”する。


 それを可能にしたのは、やはりシャルルの指揮があってこそだろう。

 ミミ単体でここまでの精度は無理だ。情報収集とリンク……シャルルが“記憶ネットワーク”を構築している可能性がある。



---


 その夜。

 柳井弟は短くこう言った。


「……俺、妹なんかいなかった」



---夜。月も星もない闇が、天井のクレーンをのみこんでいた。

 鉄板の鳴る音も、火花の匂いもない。今夜は全班、作業停止が命じられている。理由は明かされなかったが、皆、口を閉ざしていた。気づいているのだ。あの気配が、また這い寄ってきていることを。


 俺は宿直当番だった。構内図面を片手に、夜勤装備の点検リストを確認していた。旧格納庫の第4ブロック――そこでは、イージス艦の新造と、並行して空母への艦載機甲板の拡張改修が行われていた。


 切り加工班の手で、入力されたプラズマ加工機に  よって切り出された。鉄板を

 取り付け班がそれを仮止めし、

 溶接班がそれを本付けして、

 熱変形を歪み屋が直す。


 それを何百、何千と繰り返して、ようやく一隻の艦が形になる。

 まるで生き物を骨から組み上げるような作業だった。


 だが、今夜はその巨大な骨のなかに、別の“生き物”が、潜んでいる。


 俺が点検ルートのひとつ、甲板を横切ろうとしたときだった。足元で、「カタン」と軽い音がした。踏んだのは、スパナ……いや、違う。あれは、ネコの骨だった。


 乾ききっている。何週間も前に死んだもののはず。

 だが次の瞬間、砲塔の影から“それ”は現れた。


 全身がすすけたように黒い、片目のネコ。

 声は出さず、影のように動き、こちらを見つめていた。

 「ヨミ」だ。誰かがそう呼んでいたのを思い出した。


 ヨミは一歩も動かずに、ただ俺のほうを見ていた。

 すると、どこからか“音”が流れ込んでくる。構内放送ではない。人の声でもない。

 ――耳の奥で響く、低い「フシュー…」という音だ。


 気づけば、砲塔の下、足場の裏、梁の上、パイプの中……十数匹の黒猫が配置についていた。

 点火済みのアーク棒がいくつも、勝手に光り出している。溶接機が誰もいないのに動いていた。


「うそ……だろ……?」


 俺の声が震えた。

 目の前の黒猫の一匹が、こちらに向かって「するり」と滑り落ちた。まるで重力が逆転したかのように。

 そいつの背中には、歪み計の値が刻まれた紙切れがくくりつけられていた。


「最終溶接歪み:12.4ミリ。補正不能」


 作業帳にそんな記録はない。幻覚か? そう思いたかった。

 だが、足元から熱風が吹き上がった。さっきまで閉じられていた砲塔のハッチが、音もなく開いている。


 誰かが中にいる。

 いや、違う。


 すでに何かが“出て”きた。


 ネコたちは一斉に跳ねた。工具箱から、配電盤の裏から、空調ダクトの奥から。

 静かに、無音のまま。


 そして、ひとつ、ふたつ――ウンコが落ちた。


 一発目は、砲塔の通気口の上。熱で蒸発し、幻覚作用のガスが拡散する。

 二発目は、クレーンの制御盤の上。誰も触れていないのに警報ランプが点滅した。

 三発目は……俺の足元だった。


 「踏んだら、終わる」


 頭ではわかっていたのに、体が、動かなかった。

 ヨミの片目が、俺を見つめる。その視線の中に、俺はなぜか――かつての才羽さんの姿を見た。


 才羽さんは、口元を動かしていた。何か言おうとしている。


> 「お前も、来るのか?」




 その言葉を聞いた瞬間、何かが切れた。俺は走った。ネコを蹴散らすことはできなかったが、逃げることだけはできた。気づけば、加工班の資材庫にたどり着いていた。鋼板の影に身をひそめ、手のひらのウンコをこすり落としながら、俺は震えた。


 奴らは、もう待っていない。

 自ら動き、狩りを始めている。


 これはただの夜襲ではない。

 **「黒猫部隊による制圧作戦」**が始まったのだ。



---鉄の匂いがする。

 焦げた塗装、剥き出しのケーブル、隔壁の隙間から漏れる白い煙──これは溶接の煙じゃない。奴らの侵入を知らせる、兆候だ。


 俺は応援に呼ばれていた。例の護衛艦──空母へと改修されているあの艦の中だ。


 ここ数日、改修作業が極端に遅れていた。理由は明らかにされていなかったが、作業記録を見れば一目瞭然だ。精神崩壊者:9名、行方不明:3名、ネコ関連事故:20件超。


「お前、あっちの現場で持ちこたえたってな……だったら来てもらうしかない。三笠班長が呼んでる」


 俺は工具バッグを手に、昇降口を上がった。足元には、誰かが貼ったメモが落ちている。

 “ネコ注意。隔壁裏。絶対に手を入れるな。”



---


 艦内は、音が少なすぎた。

 普通なら、工具の音、作業者の怒号、ネジを回すインパクトの振動が響いているはずだ。だが今は、音を立てることを皆が恐れていた。“気づかれる”から。


 上甲板では、プラズマ加工機が休止状態のまま放置されていた。

 本来なら、PC入力で次々に装甲用鋼板を切り出している時間帯だ。

 端末の画面には、誰かが残した途中の入力が残っていた。


> 【切断パターン:艦載機昇降リフト基部鋼材】

【警告:未承認ログイン試行有】




 何者かが、操作していた。


 そのとき、視界の端をなにか黒いものが滑るように横切った。

 見えなかった。だが確かに“いた”。



---


 中甲板に入ると、ようやく人の姿が見えた。

 三笠班長だ。筋骨隆々で、額に深い傷痕がある。顔を見れば、造船20年超えの猛者とすぐにわかる。


「来たか。手短に言う。今、お前の仕事は3つだ。1つ、作業の応援。2つ、ネコの排除。3つ、生きて帰れ」


「ネコは……何匹いる?」


「わからん。わかってることは、“ここを制圧しにきてる”ってことだ」


 三笠が指さした。艦内配管を通して、艦尾機関室までのパイプシャフトが奴らの通路になっている。

 塗装班が一度中でやられ、精神混濁を起こして塗料タンクに飛び込んだらしい。



---


 塗装班は、スプレーガンを構えながら作業を進めていた。

 視界を確保するために塗装灯を焚いていたが、逆に光に集まるネコを呼び寄せてしまっていた。


「動くなよ……視界の左。電線の上に……いた」


 スプレーガン担当がささやいた瞬間、天井裏から黒い影が落ちてきた。

 “カタマリ”のようだった。ただのネコではない。構造物に擬態している。

 目だけが光った。「シュルリ」という音と共に、ウンコの雨が降ってきた。


 塗装班の一人が、白目を剥いて倒れた。耐性のない新人だ。



---


 ネコ対策班が突入してきた。

 構内用ゴーグル、防臭マスク、超音波追撃器。隊長は呟いた。


「第六区画、ウンコ除去完了。だがガスが残ってる。拡散防止のため、通気弁封鎖する」


「こっちには、“キリカブ”がいた。確認済みだ」


 キリカブ。新型ネコの通称。自らの尻尾を金属管に見せかけ、パイプの間で待ち伏せる。近づくと尻尾から麻痺性の匂いを放ち、精神を奪う。


 そのネコは、艦内ボイラーの背後で発見された。

 作業員が一人、工具を持ったまま笑っていた。目は開いていたが、意識は戻らなかった。



---


 俺は、溶接班の作業補助にまわった。

 作業場所は、艦載機リフトの昇降口。既に仮止めまでは済んでいたが、ヨミ部隊の残党がまだ周囲に残っていた。


 アークが光るたび、天井裏から視線を感じる。

 誰かが言った。「今、溶接の光に合わせて鳴き声が……したよな?」


 瞬間、パネル裏から影が飛んだ。火花が跳ね、誰かが叫ぶ。


「遮光マスク取れ! 目を焼かれるぞ!!」


 ネコが、光に擬態していたのだ。

 遮光フィルターに映るネコの輪郭が、熱で歪むように動いている。



---


 俺はとっさにスパナを投げた。命中しなかったが、ネコの気が逸れた。

 三笠班長が突っ込んできて、スコップでネコをぶん殴った。ネコは壁に激突して消えた。


「ここはもうダメだ! 撤退だ!!」



---


 退避通路を走る。

 甲板では、ネコたちの“群れ”が集まっていた。5匹、いや10匹以上。

 艦船の構造を把握しているように、構造柱の影に隠れ、作業員を狙っている。


 彼らは「任務を妨害するために設計された」ネコ部隊だった。

 自然発生ではない。明らかに“意図的に放たれた存在”だ。



---


 避難後、通気ダクトの中から最後のネコが逃げ出すのを見た。

 だが、まだ終わっていない。ヨミの名を持つ指揮官ネコは姿を見せていない。


 あれがまだ艦内にいるなら――この艦は、空母ではなく、“棺”になる。



---俺は今、護衛艦“あまぎり”の格納庫フロアにいる。

 本来はミサイル艦だが、現在は艦載機対応の軽空母型への改修工事中。

 支柱を削り、甲板を延ばし、電装を組み直す。

 レーザー加工機が唸り、溶接アームが火を吹き、断熱材が敷き詰められる。


 だが、それ以上の速度で、“あいつら”が作業を壊していく。

 “ネコ”だ。



---


 最初はただの異常行動だった。

 ある夜、溶接工が3人連続で退職届を出した。「見られていた」とだけ書き残して。


 次に、加工班の大型レーザーの出力が勝手に狂った。パソコンにはログが残らず、制御データの横に**「ミャ」と一文字**が表示された。


 三笠班長が現場に来て、開口一番、言い放った。


> 「いいか、これはただの野良ネコじゃない。他国から送り込まれた“工作兵器”だ。戦争が見えない形で、始まってる」





---


「敵はネコですか?」と誰かが冗談めかして言った。


だが三笠は真顔のまま、紙を一枚掲げた。

各品種ごとに分類された“ネコ兵一覧”――そこには明確に、品種=国籍が書かれていた。



---


◼️確認されたネコ工作員(軍別)


アメリカンショートヘア(アメリカ)

 工作特徴:電子制御干渉、加工ライン制御、レーザー出力撹乱

 攻撃方法:PC誤作動、加工機内部で“寝る”、フミフミによる出力改ざん


ロシアンブルー(ロシア)

 工作特徴:潜入・偵察型。気配なし。長時間監視に特化

 攻撃方法:作業員の精神を削る。自殺者の直前に必ず目撃される


ブリティッシュショートヘア(イギリス)

 工作特徴:集団行動型、他国猫を扇動する知能あり

 攻撃方法:物資盗難、作業報告書の改ざん(ウンコによる)、照明電源の断絶


スコティッシュフォールド(NATO特殊種)

 工作特徴:狭所爆発(ウンコ)工作。艦内ダクトに爆薬状のウンコを設置

 攻撃方法:爆発性ガスと混合される特殊フン




---


「ふざけてるように見えるが、これが現実だ。奴らは全部、“国旗”を持たない。だが品種を見れば出処がわかる」


 溶接班の先輩が、手元の作業台を見ながら震えていた。


「……じゃあ、あの……最初に見た“三毛猫”は……どこの?」


 その瞬間、空気が凍った。

 三笠はゆっくりと顔を上げた。


「三毛猫は、どこの国にも登録がない。“最初からここにいる”としか言いようがない存在だ」



---


 俺の頭に、ひとつの光景が浮かんだ。

 艦の中で、火花の中を歩く一匹の三毛猫。煙をすり抜け、加工ラインの真上を渡っていく。


 まるで、全てを見下ろしているかのように。



---


 その日の午後、艦の第3甲板で作業をしていた塗装班が襲われた。

 見つかったのは……ロシアンブルー2匹、アメリカン1匹、そして三毛猫。


 三毛猫だけが、何もしなかった。ただ、戦っているネコたちを“見ていた”。


「まるで……指揮官じゃないか」



---


 作業と戦闘は、同時に続いていた。

 加工班はPCを覗きながら鉄板を切り出す。取り付け班が艦内に運び、俺たち溶接班が点付け・本付けを進める。


 だが、奴らは“本付けのタイミング”を狙ってくる。

 熱変形の隙間に潜り込み、歪み屋の道具を盗み、ガスボンベを倒し、配管のフレア加工中に飛びかかる。



---


 ネコ対策班のひとりが叫んだ。


「3番区画! ブリティッシュが2匹、ブリーフィング室に侵入! ウンコを翻訳機に置いていった!」


 ウンコに貼られていた紙には、肉球が6個押してある。


「三毛猫?の足跡?」



---


俺の声は誰にも届かないほど、小さかった。


 三笠班長だけが、その声を拾った。


「三毛はただのネコじゃない。……“観察者”だ。どこの国にも属さず、この戦争がどう終わるかを“見届けに来ている”」



---


 俺は思った。

 この船の中は、もうただの作業現場じゃない。

 ここは、戦争の最前線だ。

 鋼板を繋ぎ、電線を引き、艦を組むこの手が、世界の軍事バランスの一部になっている。


 そして、三毛猫は――すでに次の“契約”に向かって、歩き始めているのかもしれない。



---警報灯が赤く点滅していた。

 俺は潜水艦ブロックのアクセスシャフトを降りながら、汗ばんだ手のひらをタオルでぬぐった。


 艦は、静かだった。……だが、“猫の気配”がした。



---


 この艦――SS-405型、**「くろしお」**は、今月中に最終艤装を終えて試験航海に出る予定だった。

 だが艤装室に「異臭」が出たとの報告が入り、ネコ対策班と俺たち溶接応援班が送り込まれた。


 三笠班長の声が、狭い通路に響いた。


> 「確認されているのは2匹。ブリティッシュショートヘア。例の“臭気撹乱型”だ。警戒しろ。ウンコの位置を把握しろ」





---


 艦内は本来無菌環境に近い。

 だが、あいつらは“そこ”を汚すことに全力を尽くしてくる。


 配線ダクトの中、発電機の上、魚雷発射管の空きスペース。

 “あえて人間が嫌がる場所”に排泄する。



---


 通路の先、バラストタンク側の電装室で、最初の“それ”を見つけた。


「……これは……!」


 俺は思わず息を止めた。そこには、異常な粘度と悪臭を持つ排泄物。

 ただの猫の糞ではなかった。中にセンサータグが埋まっていた。


 ……つまり、ここは罠だった。


> 「全員退避! 臭気撹乱が始まるぞ!」





---


 だが遅かった。

 室内に残った若い電装工が、その“ウンコ”を踏んでしまった。

 ……彼は、数時間後に自傷行為を始めた。


 「頭の中に“何か”が入ってくる」と言いながら、艦底のボルトを全て外そうとしていた。


 三笠班長は、低くつぶやいた。


> 「……やはり“ブリティッシュ”は精神攻撃系だ。感染力はないが、“残り香”が脳を焼く」





---


 深部に入ると、猫除けの超音波も届かない。

 そこで我々は“本体”と出会った。


 2匹のブリティッシュショートヘアが、静かに艦の操舵室を歩いていた。

 一匹は通信室のイスに座り、もう一匹は艦長席の下で寝そべっている。


 「こいつら……指揮系統の中心に“匂い”を残す気か」



---


 我々はすぐにネットを構えたが、奴らは逃げなかった。

 逃げず、逃げられる前に――


 引っ掻いた。


 整備員の腕に深く爪が入り、同時に艦内の空調がうなりを上げた。


「血が止まらねえ……!」


> 「落ち着け! 破傷風ワクチンは打ってるはずだ! バイ菌は想定済みだ!」





---


 そう――奴らの“兵器”としての力は、ウンコと爪だけ。

 ただ、それが“密閉された艦内”では、致命的だった。


 脱臭も難しい。感染症も広がりやすい。作業員のメンタルは日々すり減っていた。



---


 三笠班長は、捕獲用トラップの設置を決断した。

 缶詰と温床をエサに、通路の死角に仕掛ける。


 ブリティッシュは警戒心が薄い。すぐに引き寄せられた。


 捕獲直前、一匹の猫がこちらを振り返った。


 その目は、まるで……人間を軽蔑するような光を宿していた。



---


「まるで、“自分が勝ってる”と思ってる目だな……」


 誰かがそう呟いた。

 ブリティッシュは、捕獲されたあとも鳴かない。ただ、こちらを睨みつけていた。



---


 任務完了報告を終えた帰り道。俺はふと、艦の出入口で“三毛猫”の影を見た気がした。


 手すりの上に、静かに座り――こちらを、見ていた。



---つづく

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