一章03話 日本国は、何年より始まるか?

[newpage]#01 皇紀の始まりは、紀元前660年

 日本建国が、神話伝承の中で、紀元前660年神武帝即位である。しかしながら、この時は、邪馬台ヤマト国が建国されていて、日本国という名称ではなかったのです。


 日本国の始まりは、「日出づる処の天子、書を、日没する処の天子へ致す。つつがなきや」と隋帝国への親書607年より始まるとされる。つまり、隋帝国と対等に、天子と称することで、対等国という宣言が行われています。


 法治国家の体制としては、701年の大宝律令で、「日本国」が明記されて、国家体制が確立することになる。


 日本国は、607年より701年の間に、日ノ本を知ら示す主上おかみの下で、統治体制が確立していった。日ノ本六十余州は、北は陸奥より、南は薩摩、西が百済、東が常陸となる。


 日本国の表記については、千年紀以降、百年くらいの期間があり、浸透していったこととなる。天皇家即位儀礼の一環として、実施された難波の「八十島」祭祀は、生國魂神社、住吉大社といった、難波宮を起点とした祭祀であった。


 倭国ヤマトが、出雲より国譲りを受け、エツ筑紫ヤマト畿内ヤマトといった国々が、緩やかな連合王国による統治体制であった時代が終わり。崇神帝より始まる、倭国ヤマトを頂点とした、日本征覇が開始されて、倭国大乱となって、神功帝の御代に中央集権体制が確立する。「古事記」「日本書紀」の記述からすれば、神功帝が伊都卑弥呼の後継者となる。卑弥呼は、崇神帝より神功帝まで、斎宮の地位にあった姫皇族となる。


 祭祀国家の体制は、神社のフランチャイズ化を含めて、神功帝の御代には確立していた。


[newpage]#02 後漢書東夷伝に始まる、外国文献

参考文献 倭国伝-中国正史に描かれた日本-

 日本の記述が、後漢書東夷伝、漢の武帝が、朝鮮を滅ぼした漢に対して、伝わる者があって、邪馬台ヤマト国と称す。世界史に刻まれた、日本国の記述では、三十余国の国々が合って、オオキミがそれぞれを治めている。

 当時の日本は、稲、麻、蚕、織績を知っていて、布を造る。

 真珠や翡翠を算出し、水銀を産出する。

 兵は、矛、盾、弓を、石や骨で鏃を造る。

 民は、鯨面文身ハジチを刻みし、一夫多妻なれど、争い少なし。


 縄文期の日本は、平穏な時代であり、後漢の頃に朝鮮が滅び、楽浪郡が興されたことで、日本が知られるようになった。


 弥生期の戦乱は、倭国ヤマト崇神帝による、日本征覇によって、大乱が発生し、戦略物資となる、米の生産を、大規模土木治水事業によって、全国に押し進めて、支配体制を確立していった。

(この頃の日本が、魏志倭人伝に、記述されている)


[newpage]#03 日本国の統治、記憶から記録へ

 縄文から続く、記憶文明から記録文明への遷移は、「古事記」の編纂から始まります。和銅5年712年に、万葉仮名を用いた、稗田阿礼の記憶していた伝承を、太安万侶によって、記録書籍「古事記」に編纂されたことに始まります。


 地方の風俗や地誌を纏めた、「風土記」が、和銅6年713年に提出開始。

 帝紀等を纏めた、歴史書「日本書紀」が、養老4年720年に編纂。


 遣隋使から遣唐使といった、海外との交流記録を含めて、国家の活動として、701年の大宝律令から、日本国の記述が始まっていく流れとなる。


 天平13年741年に、国分寺・国分尼寺の建立が実施され、《754年》に鑑真上人によって、戒壇が確立されたことで、万葉仮名を含め「漢字」を記録に用いる文字とするための、教育体制が全国に確立します。


 教育による統治国家、日本国の始まりです。

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