一章 日ノ本、侍の始まり

Ittoh

一章01話 侍とは・・・田園風景の守り人

[newpage]#01 侍は、さぶろうを語源とする

 侍は、さぶろうという言葉から生まれたとされ、仕えるモノという意味合いを持つ、武士の源流となる者達である。


 白村江の敗戦によって、国軍すべてに、訓練や武装を整える、予算が無い日ノ本では、延暦11年792年より、「健児兵こうでいへい」という形で、少数精鋭化を図ることになる。国司の配下として、九州・佐渡・陸奥を除く国々に、20名から200名を創設、弓馬に長けた兵士団を編成した。九州・佐渡・陸奥は、国軍編成に予算を集中することで、軍事力強化を図った。


 侍の始まりは、敗戦に始まる、軍事力強化策であった。


 世界でも珍しい、騎乗重装長弓兵が誕生するのは、船戦を含む陸上戦で活躍可能な、長弓を主戦兵器として、陸上での移動手段として騎馬の活用が求められたことにある。元々、日本の上流階級は、貴族は皇族および地方豪族の集合体であり、嗜みとして相撲を含めた武力を保有していた。800年頃から1000年頃は、新羅や刀伊による襲来が、日本の沿岸で頻発していて、国防体制の強化は、重要事項になっていた。


[newpage]#02 公地公民の確立と中央と地方

 中央政府は、日本各地の安定統治を図るため、国司を中央から派遣し、国々を統治する体制を築いていた。国分寺・国分尼寺の建立で「漢字」の教育体制を確立し、各地に「漢字」による知識人を形成し、「風土記」によって地方誌を編纂し、

中央に提出することで、地方の状況を把握、統治体制の強化を図っていた。


 律令制は公地公民であり、日本国土全ては国家の保有する知ら示す大地であり、祀ろう民はすべて、一天万乗の大君が下に大御宝となった。租庸調を納めるのは、国から農地を与えられた農民であり、納税する公民となる。


 国家による所有権の確立について、北は陸奥、東を常陸、西を対馬、南が薩摩として、六十余州に対して、律令体制によって浸透していった。


[newpage]#03 水稲栽培と田園風景の確立

 中世の始まりは古墳期の終焉であり、何時からと明確に定義することは難しい、おおよそ仁徳帝の即位からが、中世の始まりとした。日本征覇後の統治体制確立期の始まりであり、巨大な墳墓を形成する仁徳帝が、大規模土木治水事業の最盛期であり、水稲栽培の普及徹底による、統治体制の確立期となる。


 大道建設は日本統治の中央集権化であり、皇命を一天万乗の大君を祀る民として、日本国が確立する時期となる。


 縄文期より伝承される、桃栗三年柿八年は、果樹による栽培体制確立であった。水稲による稲作は、救荒作物であり米の大量生産、保管体制の確立にあった。崇神帝の征覇事業は、神社の系列化による統治体制の確立と、水稲による稲作を救荒作物として、徹底的に量産体制と保管体制を整えることになった。餓死者を減らし、疫病を減らす、救荒作物の量産、神社の清め祓い、水の確保と清掃清潔の確立が達成された。氏神氏子の相互扶助体制の確立は、祭祀の義務化であり、動員体制確立でもあった。


 日本の田園風景が、日本の故郷という形になるのは、日本征覇事業の結果である。大規模土木治水事業は、水路を確保し、水稲栽培を確立、米という救荒作物の生産体制を確立することである。





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