第3話


「わしには嫁がいた、小柄だが元気な娘でのう、いつもわしが尻にしかれよった。

わしより二つ下の幼馴染じゃったが、しっかり者で目かくりっとして、いつもにこにこと働き者でな、気が強いところもわしには可愛らしくて、

申し分ない嫁をもろうて、わしは幸せ者じゃと神様に毎日お礼を言ってたぐらいじゃ。


毎日こんなに楽しいかと思うぐらい楽しかった。

嫁がいつもわろとるんよ。

木が売れんときも、山の獣を仕留められんかったときも、いっつもわろうて


『じゃあまた明日。

明日があるけえ気にしなさんな』


と笑うんよ。

その顔をみると、不思議と腹が立っていてもどうでも良くなって、また明日頑張るかと思うんじゃ。


ほんにいい嫁じゃった。

あんたもまた嫁をもらうときがあったら、よう笑う嫁をもろうたらええ。

毎日は積み重ねやもんで、どうせなら明るくて優しい嫁子をもらいなされ。


そうして毎日仕事を頑張りよったら、嫁にやや子ができた。

男の子でのう、大きな子やったもんで小柄な嫁は大変な思いをして産んでくれた。

わしにまた一つ宝物ができたんじゃ。


仕事から毎日帰るのが楽しみでのう。

疲れて帰るのに、自然と早足になるんよ。

帰ってきて、嫁とやや子の顔をみたら元気になるんよ。

人間の身体には幸せが一番の薬なんじゃてよく思うたもんや。


その日じゃ。

ああ、その日も嫁と子の顔を見るのを楽しみに帰ってきたら、嫌な、なんとも言えん妙な気持ちになってのう。


家ん中には誰もおらんし、恐ろしゅうなって家の周りを周ったら、裏の畑におったんじゃ。


かかあはまだちょっとばかし温かかったのう。

息子はもう冷たくなっとった。

、、熊にやられてしもうた。



この辺りはのう、熊を見かけることはほとんど無い。

ずっと暮らしているわしでも、うちの近くで見かけたのは一度だけ、毎年より早くに寒うなった年があって、そのときにだいぶと遠くに見かけただけじゃった。


この先の道が二手に分かれておっての、集落にいく反対の道を進むと熊がいた話は聞くけんど、それはもっと奥まで行った場所の話で、この辺で熊なんぞ聞いたことはありゃあせん。

こんな家の近くまできたことなんぞ、きた跡も知らんし、話にも聞いたことがなかった。

それやのになぁ、ほんでまたわしのおらんときにのう、、


、、時期は冬眠前の気が立っとる時期じゃから、、でも、、、なんでうちん嫁と子がっ、、、」



吉蔵は泣いた。

声を出して、泣けるだけ泣いた。

清三郎は、そばで黙って吉蔵がぐっと握っている拳の上から更に強く握った。


清三郎は悔しかった。

なんでこんなええ人の嫁子さんと子供を、熊は食うたんじゃ。

熊の食べるものなんぞ、その時期なら山には沢山あったろうに。

清三郎は、どうにもならない思いに涙が出そうになったが、吉蔵が辛い事を思い出して泣いてる横では泣けんと、我慢した。


どのくらい時間が経っただろう。

暗澹とした沈黙を打ち破るように、吉蔵が口を開いた。


「大の男がこんなに泣いてしもうて、ほんにすまなんだ。

嫁らがおらんようになって、初めて泣いてしもうた。

ずっと、腹ん中はこんなに苦しいのに、なんで泣けんのかと不思議じゃった。

なんで、あんたの前では泣けたんじゃろうのう」


「泣きたいのに泣けたなら、わしはかまいませんで、思うただけ泣いてくだせえ。

わしは、そん話を聞いて、今熊が憎うてたまりませぬ。

昨日、おやじ様が、もろてきてくれた熊肉も自分が食べんのにもろてきてくれて、、おやじ様がどれだけ優しいんかと思うて、、」


「わしは、熊の肉が食えんようになった。

うちの嫁子らを食うた熊は見つからんかったもんで、その熊が子供を産んだり作ったりしておれば、うちの嫁と子の血肉が、その熊の子にも流れとるんよ。

わしはそんな熊をよう食わん。


始めは熊が憎うて仕方がなかった。

大事な嫁と子をめちゃくちゃにした。

わしの幸せをぶち壊した熊に腹が立ってのう。

どうしたら熊に嫁らと同じ思いをさせてやれるかと、そればかり考えとった。


でも今は熊に憎しみもありゃせん。

熊もイノシシも、わしは何頭も仕留めてきた。

美味い美味いと腹一杯食うた。


わしが腹一杯食うたせいで嫁子や旦那に逢えんようになってしもうた熊やイノシシもおるじゃろうて。

わしはその熊に、自分がしてきたことをされたまでのことじゃ。


わしらは大事な命を頂いとるんじゃ。

このウサギも、わしらが生きるために命を頂いて生かせてもろうとる。

あんたも、それだけは忘れずに大事にいただきなされ」


清三郎はなにも言えなかった。

そんな事を考えて、肉を食べたことがなかった。

大事な食料ではあっても、その命に思いを向けたことはなかった。


「さあ、明日も早いで、わしは寝るわい。

あんたも早よ寝なされ。

寝るのはええ薬じゃて」


清三郎は、山のふもとで一人、静かに暮らしている吉蔵と言う男に、出会えて良かったと思った。


自分はもう大人になって、あとは仕事を覚えてくればもう一人前だと思っていたが、そういうことではない。

吉蔵のような男にも、かなわないものがあるのだと、自分なぞ、まだまだ何も知らない子供だと清三郎は思った。



更に三日経った朝、清三郎の足を見てみると、傷も塞がり、傷口も乾いてきていた。


「これならもう大丈夫じゃ。

傷口が開くこともあるまいて。

歩いていくにはまだ少し痛むじゃろうが、今日は戸根川に荷を運ぶ者がおるけえ、一緒に行きなされ。

あんたの荷物ば運んでもらえるけえ、大分と楽じゃし、ええ人だもんで一人より寂しくなかろうて。

あとは着いてから休ませてもらいなされ。

あまりに長くここにいると親戚衆も心配されるけえな」


「へえ、もう足はなんとか。

ここでおやじ様に逢えて良かった。

このご恩は忘れやしません。

それから一つお願いしたいと思うとることがあるんじゃけど」


「ほう、なんじゃろうの。

わしにできることならかまわんが」


「わしはおやじ様みたいな男になりたいと思うとります。

親戚のところには2、3年いることになっちょりますが、お盆と正月は帰ります。

そのときまたここに寄らせてもろてもいいじゃろうか。

わしはこれからもおやじ様に会いにきとうてたまらんのです」


「ああ、そんなことか!

あんたがまた顔を見せてくれるなら、そんな嬉しいことはありゃせんわ。

わしがいなかったら家の中で寝てりゃあそのうち帰ってくるで、また前を通ったときはうちに寄っていきなされ」



吉蔵は嬉しそうに笑った。

清三郎も吉蔵の笑顔を見て笑った。



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