山塊
山犬 柘ろ
第1話
吉蔵は考えていた
あの石の向こうにイノシシがいる。
ここからなら、あのイノシシを仕留めることができる。
でも、あのイノシシには子供がいる。
やはり辞めるとするか。
嫁も子もいなくなると寂しいもんだ。
捌いた肉は売ればなかなかいい収入になるが、子供のいるイノシシを吉蔵は撃たなかった。
吉蔵は木こりをして暮らしている。
普段はナタで自分の山の木を切って、それを売って暮らしているが、山奥で仕事をしているといろんな動物に出くわす。
そのため、火縄銃も持ってきているのだが自分が危険な時以外はあまり撃たなくなっていた。
そろそろ薄暗くなってきたので、家に帰る支度をする。
木材を荷車に乗せ、家までの道をただゆっくりと踏み締めるように歩く。
やっと家路に着き、荷車から木材を下ろそうとしていると、珍しく人が歩いてくる。
日が落ちかかっていて、オレンジの光に薄いグレーの膜が張ったような光景で、目を凝らしてみると片方の足を引きずって歩いているようだった。
「あんた、足を怪我してなさるな。
どこに行かれるか知らんが、この辺はもうちょっと奥に入るとたまに熊もいるし、熊は夕方はよく動くから早うあの先の集落まで行かんと」
吉蔵は歩いているその男に聞こえるように、大きな声で話しかけた。
吉蔵の家は道から少し入り組んでいる。
自分の山のふもとに家があるので、集落からは少しばかりの距離がある。
道を歩いていた男は人がいることに気付いて立ち止まり、こちらに近づいてきた。
男はまだ若く、身体は大きいが子供のような屈託の無い顔で吉蔵の顔を見ている。
よく見ると怪我は少し深そうだ。
「こりゃあ、あんた、、どうなされた」
「はい、さっき道の端を歩いていたら岩の出っ張ったところに気付かんで、足を切ってしまって」
「ああ、あそこは危ないんで何度か岩を砕こうと思ったが、びっくりするほど堅い石でな、うんともすんとも言わんのよ。
その怪我じゃ、集落までもしんどかろう?
ちょっとうちに入りなされ。
手当だけてもしとかんとえらい血が出ておるでのう。
怪我の様子だと集落まで向かうのもだいぶと骨が折れるんじゃなかろうか?」
と吉蔵は男を家に入るよう促した。
男は不安そうな顔をして
「集落まではどのくらいかかるんじゃろうか。
あんまり遠かったら野宿するつもりでおります。
昨日も一昨日も野宿したもんで、もう慣れとりますんで」
家に入り、怪我を見てみると思っていたよりも傷は深かった。
「あんた、これ、、ようあそこまで歩いて来たのう。
もう少し軽いと思っていたが、こりゃあ一日やそこらでどうなるもんでもあるまい。
つかぬことを聞くが、あんたは急ぎの用事でもあるんかの?」
「わしは山を二つほど越えた薮内という集落から参りました。
名は清三郎と申す者でございます。
うちの親戚がこの先の戸根川村というところにありまして、いい米を作るから色々と習ってこいと母に言われて、向かうところでのあの災難で。
急ぎではないのですが、あんまり遅いと向こうのおやじさんが心配しなさるかと」
「薮内か、行ったことはないが、あの手前の山は男の足でも3日はかかるんじゃなかろうか?
あんたはいつ出て来なさった?」
「家を出てからはもう4日目です。
今日とあと一日くらい歩けば、戸根川に着くと思っていたんですが」
「この足で行くのはやめた方がええかもしれんなぁ。
この先の道で勾配のきついところもあるし、その様子じゃ、怪我をかばって、もう片方の足もえらい事になったらかなわん。
あんたさんはこの近くには知り合いはおらんのかの」
「、、この近くといえば戸根川の親戚で、、わしは村から出るのも初めてでこんなことになってしもうて、、」
「それはお気の毒なことや。
傷がうまいこと塞がるまでこんな汚いところでも良かったら、うちでゆっくりするかい?
あんたは若いし、3日もすりゃあ大分に良くなると思うんだが」
「それはありがたいことですが、ご迷惑じゃなかでしょうか?
銭もないし、食べるものももう、干し柿ぐらいしか持っておりませんで。
寝るところもゴザがありますんで、その辺の隅は邪魔になりませんか?」
「怪我人さんが何を言うとるんね。
その上のええ所で寝んさい。
わしが寝る場所も十分あるし、怪我人を地べたに寝かしたりしてはバチが当たるわ。
元気になったらまだ戸根川まで行かんといけんから干し柿もしまいなされ。
こんな汚い家でも、意外に食べるもんはあるで、気にしなさんな」
と、吉蔵は笑った。
「ああ、ありがとうございます!
わしに何かできることがあれば、なんでも言いつけてくだせぇ。
ありがたい、恩にきます」
と、清三郎は喜んだ。
体だけ大きく、まだ幼さの残るその顔は笑顔になると余計と幼く見えた。
「ああ、早いうちに言づてだけ頼んでくるけぇ、あんたはゆっくりしていなされ」
そういうと、清三郎に細かい内容だけ聞いて吉蔵は出掛けて行った。
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