ギルド調停係は賢者の死を語らない~賢者が遺した最後の物語~

サンキュー@よろしく

第一話:賢者は死んだ

冒険者ギルドの談話室に漂うのは、エールと汗、そして安っぽい嘘の匂いだった。


「だから! この傷は、俺がゴブリンシャーマンの呪詛を身を挺して防いだ証なんだ! 報酬は俺が七割もらうのが当然だろうが!」


金髪を逆立てた剣士が、胸を張って叫ぶ。

その腕には真新しい包帯が巻かれ、確かに血が滲んでいた。

彼のパーティメンバーである斥候と魔術師の少女は、不満そうな顔で俯いている。

これは冒険者ギルドの職員である俺、サイラスが所属する調停係の日常だった。俺の仕事は、こうした冒険者間のトラブルを解決することだ。


俺はテーブルの上の依頼書に目を落としたまま、気怠く口を開いた。


「その傷、見せてみろ」


「な、なんだよ!」


「いいから見せろ」


有無を言わせぬ低い声に、剣士は渋々といった様子で腕を差し出した。

俺は彼の腕を取り、悲鳴を上げるのを無視して包帯を乱暴に解いた。

現れたのは、浅く、綺麗な一本線の切り傷だった。


俺はそこで言葉を切り、ゆっくりと顔を上げた。

面倒くさそうに細められた黒い瞳が、剣士の顔を射抜く。


「ゴブリンシャーマンの呪詛は精神汚染系が主だ。物理的な裂傷にはならない。その傷は、どう見てもゴブリンが持つ錆びたナイフで切りつけられたものだ。……いや、違うな」


俺は剣士の左腕の傷を、指でなぞった。


「傷の角度が内側から外側へ、ほぼ水平。これは、自分でつけた傷だ。利き腕である右手で、反対の腕を切りつけたんだろう。見栄えを良くするために、少し深めにな」


談話室がしんと静まり返る。

剣士の顔は真っ赤になったり、真っ青になったり忙しない。

斥候と魔術師の少女が、侮蔑の視線を彼に突き刺していた。


「報酬は均等割り。異論は認めん。それと、お前はギルドへの虚偽報告で罰金だ。ギルドマスターに話は通しておく」


俺がそう言い放つと、剣士は何も言えずに崩れ落ちた。

一件落着。実にくだらない。

俺は右手の黒い革手袋をくい、と引き上げると、溜息と共にその場を後にした。



「サイラスさん、お見事です。でも、もう少し優しくしてあげても……」


カウンターで受付嬢のリナが苦笑しながら、お茶を差し出してきた。

彼女の気遣いはありがたいが、生憎と俺はそういう性分じゃない。


「優しさが奴のためになるか? ああいう輩は、一度痛い目を見ないと治らん」


「それもそうですけど。昔は、もっと情熱的だったって聞いてますよ? Sランク冒-冒険者“黒曜の剣”って」


その名前に、右手の古傷がズキリと疼いた気がした。

魔王軍の将軍から受けた呪い、『魔力過敏性逆流症』。魔力を使おうものなら、自らの力が牙を剥き、内側から全身を引き裂くような激痛が走る。

この呪いが、俺を冒険者の道から引きずり下ろし、ギルドの事務職員という今の椅子に座らせた。


「昔話はよせ。それより、ギルドマスターは執務室か?」


「はい。ですが、今日は朝から少しご機嫌が……」


調停を終え、俺はギルドの一角にある自室に戻った。ランプに火を灯すと、壁に掛けられた古びた黒い剣が鈍い光を放つ。かつての俺の相棒だ。

俺は右手の黒い革手袋をゆっくりと外し、呪いの痣が刻まれた腕を露わにした。疼く古傷を眺めるたびに、あの最後の戦いが蘇る。引き出しから薬草の軟膏を取り出し、痛みをこらえるように黙々と塗り込んだ。この痛みだけが、俺がまだここにいることを教えてくれる。


リナの言葉を遮るように、重い足音が廊下から響いてきた。

尋常ではない、焦燥と動揺がないまぜになった足音。

次の瞬間、ギルドマスター室の扉が乱暴に開かれ、熊のような巨躯を持つバロウス・グラムが血相を変えて飛び出してきた。


「サイラス! いるか!」


その顔は蒼白で、普段の豪放磊落な態度は微塵もなかった。

ギルドの静寂を切り裂くような、切迫した声だった。


「……何の騒ぎだ、マスター」


「いいから来い! リュシアンが……賢者が、死んだ!」


その一言が、俺の退屈な日常を、音を立てて終わらせた。



貴族街の外れに向かう馬車の中は、重い沈黙に支配されていた。

窓の外を流れる王都アストルムの景色は、やけに色褪せて見える。


「昨夜、執事から緊急の魔法通信があってな。ワシが駆けつけた時には、もう冷たくなっていた……」


バロウスが、絞り出すように言った。

彼の顔には、友を失った深い悲しみと、それだけではない何か、割り切れない感情が浮かんでいた。


「騎士団がすぐに嗅ぎつけ、イザール辺境伯がしゃしゃり出てきおった。奴は冒険者を目の敵にしている。賢者の死を、ギルドの権威を貶めるために利用しかねん」


リュシアン・フォシル。賢者の異名を持つ、ギルドの最高顧問。

だが、その本質はただの元冒険者ではない。噂によれば、500年近い時を生きる半エルフ。アストリア王国の建国すら見てきたという、生ける伝説そのものだ。

そんな彼が、俺が冒険者として戦えなくなった時、この調停係という部署を用意するようバロウスに進言してくれた恩人でもあった。

その知識は海より深く、その人格は太陽のように温かかった。


最後に会ったのは、一月前。ギルドの地下書庫で、彼は俺の呪われた右手を見て、静かに言った。


「サイラス君、その呪いを憎んでいるかね? だが、終わりがあるからこそ、我々は今この瞬間を愛おしめるのかもしれないよ」


まるで、遠い未来を知っているかのような、穏やかで、少し寂しそうな瞳だった。


屋敷は、王都騎士団によって物々しく封鎖されていた。

通された書斎には、息が詰まるような静寂と、インクと古い紙の匂いが満ちていた。

リュシアンは、愛用の安楽椅子に深く腰掛け、まるで心地よい読書の途中で眠ってしまったかのような、安らかな顔をしていた。

あまりにも、平和な死に顔だった。


「……ギルドの職員が何の用だ」


冷たく響いた声に振り返ると、そこには騎士団長イザール辺境伯が立っていた。

磨き上げられた鎧のように、彼の表情には一分の隙もない。


「これは、賢者のご遺族と王国騎士団の問題だ。貴様らが首を突っ込むことではない。検死官の見立ては、老衰による心不全。事件性は認められん。偉大なる賢者の最期を、野蛮人の勘ぐりで汚すことは許さん」


イザールの言葉は、有無を言わせぬ響きを持っていた。

自然死。それが、騎士団の、そしておそらくは王国の公式見解になるのだろう。

誰もが納得する、波風の立たない結末だ。


俺は何も言わず、バロウスと共にその場を辞した。

イザールは、侮蔑の視線で俺たちを見送っていた。



騎士団が引き上げ、静まり返った屋敷の応接室。

暖炉の火だけが、ぱちぱちと音を立てていた。


「どう思う、サイラス」


バロウスが、低い声で尋ねた。


「あんたが信じたい話をすればいい。賢者は安らかに大往生を遂げた。それで万事丸く収まる」


俺の皮肉な言葉に、バロウスはギリ、と奥歯を噛み締めた。

彼は立ち上がると、俺の肩を鷲掴みにした。その巨体から、抑えきれない怒りと悲しみが伝わってくる。


「ふざけるな! あいつが! あのリュシアンが、ただの寿命で、あんなにあっさり死ぬものか! あれは殺されたんだ。ワシにはわかる」


その瞳は、血走っていた。


「騎士団には任せられん。イザールは真実よりも秩序を優先する男だ。これはギルドマスターとしての命令だ。だが、それ以前に……あいつの最後の友人としての、ワシ個人の頼みでもある」


バロウスは一度言葉を切り、ゴクリと唾を飲んだ。


「リュシアンの死の真相を突き止めてくれ。これはギルドの公式な任務じゃない。だから、報酬はワシのポケットマネーからたんまりと弾む。特別ボーナスを楽しみにしておくんだな」


恩人の不可解な死。

そして、俺の退屈な日常を壊してくれそうな、久しぶりに歯ごたえのある謎。

断る理由は、なかった。


「……いいでしょう。その厄介事、引き受けます」


俺は静かに頷いた。



ギルドの自室に戻り、俺はランプの光の下で思考を整理する。


「老衰による心不全…か」


俺は本棚から『長命種の生態に関する一考察』という古書を抜き出した。半エルフは確かに人間より遥かに長く生きるが、不死ではない。だが、あのリュシアンほど博識で慎重な男が、自身の体調の変調に気づかないはずがない。ましてや、あんなに穏やかな死に顔で、だ。


羊皮紙を広げ、俺は三つの名前を書き出した。「リュシアン」「イザール」「バロウス」。

騎士団の早計な判断。冒険者を敵視するイザールの態度。そして、友の死に冷静さを失っているバロウス。


ピースが、どうにも歪だ。まるで、誰かが意図的にそう見せかけているように。

俺はペンを置き、指でこめかみを揉んだ。

これは、ただの自然死じゃない。そして、単純な殺人事件でもない。もっと深い何かが、賢者の死の裏には隠されている。

俺の直感が、そう告げていた。

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