花天月地【第83話 あの雪の日のこと】

七海ポルカ

第1話




 徐庶じょしょは雪の積もる山道を馬で走っていた。


 何でもない斜面だったのだが不意にがくん、と落ちるような感覚があり、馬が雪に足を取られて転倒した。馬上から投げ出された徐庶だったが雪の上に落ちたのであまり痛みはなかった。


 すぐに身を起こし馬を振り返ると、体をうねらせるようにして立ち上がっている。

 

 落ち着けと首筋を撫でて宥める。

 足が折れたかと思ったが、ジッとしている。

 疲労で足を取られただけだろう。


「歩けるか?」


 ゆっくりと引いてみれば、足は引きずってなかった。

 安堵して、徐庶は小さくため息をつく。


「無理をさせて、悪かったな……」


 今はあれ以上は走れないだろう。

 徐庶は馬を下りて歩き出す。

 涼州騎馬隊は南に去った。

 

 元より可能性は小さかったのだ。


 徐庶は比較的、一度訪れた場所ならば位置関係は把握出来る方なのだが、この暗闇に木や道を覆い尽くす雪で風景も一変し、かなり方向感覚が怪しい。


 しかし一刻も早く黄巌こうがんの庵に辿り着かねばならなかった。


 天水てんすい砦を昨夜の夜中に出て、まず、そこへ向かった。

 

 馬超ばちょうがいないかと僅かな望みを託したのだが、

 当然いなかった。


 しかし彼は従弟いとこのことを心配していたので、もしかしたらその安否を気にして戻って来るのではと思ったのだ。

 だが姿や気配が無かったので、徐庶は南下し山中を駆け回った。


 徐庶はある程度の範囲の人間の気配を探れた。


 焼き払われた村のせいか、雪に覆われたせいか。

 不思議なほど涼州の山は静まり返っていて、平地を見通せる場所に行くとただ祁山きざん方面だけに、魏軍の築城している駐留部隊の灯が見えた。


 それが唯一の明かりと言ってもいい。


 恐らく無事な村はあるはずなのに襲撃された知らせが行っているのか、全く涼州の山は暗闇に覆い尽くされて人の気配すらなかった。


 余計に、動く人間がいるならば広範囲にそれを感じ取れるはずだったが、かなり走り回ったのに全く人の気配がしなかった。


烏桓六道うがんりくどう】が涼州に来ているが、彼らの正体を捉えられていない時はもっと別の気配がした。

 不気味な静けさを感じたが――何かの気配はしたのだ。

 あれは彼らが動き回っている気配だったのだろう。


 徐庶じょしょは感じ取っていた。

 だが、今は本当に静寂しか感じない。

 

 砦を抜け出して来た。

 謹慎を命じられた身で許されないことなので、いつまでも探し回ってはいられない。


 一日が過ぎた。


 普通に考えれば陸議りくぎ司馬孚しばふが、悪意ではなく心配する事実として、徐庶がいないことを司馬懿しばい賈詡かくに報告しているはずである。


 馬が雪で駄目になってだとか、

 ふらふら歩いていたら迷ってしまってだとか、

 白々しい嘘がつけるのもこれが限界だ。


 徐庶は庵に戻って万が一従弟を慮り、自分と同じように考えた馬超ばちょうがそこに現れた時、黄巖こうがん天水てんすい砦にいるということを書き残しておこうと思った。

 今は深手を負って当分動けないが、必ず無事に臨羌りんきょうに戻すということを。


 徐庶は、それは心に決めていた。


 今回の涼州遠征が落ち着き、もし長安ちょうあんに戻って軍籍を抜いてもいいという許可をもらったら、新野しんやに去るつもりだった。

水鏡荘すいきょうそう】に行き、そこで学び、出来ることをする。

 国や街などではない。もっと個人の、小さなことの為で構わなかった。

 

(国や軍にはもう関わらないで生きて行く)


 それは決めたが、

 ここまで友情を示してくれた黄巌こうがんが、馬超の従弟という事実を郭嘉かくかが知ったことで、また涼州騎馬隊や魏軍の事情に巻き込まれて、利用されたり囚われたりすることだけは避けなければならない。

 

 それだけは自分に課せられた使命だと、徐庶は思っていた。


 何故郭嘉が黄巌こうがんの正体に気付いたのかは分からないが、そもそも彼は逆に黄巌の正体を探っていたので涼州側に密偵を放っていた可能性はある。

 そこから情報を得たのだ。

 魏軍にも涼州出身者はいる。

 そういう人間が【馬岱ばたい】を知っていた可能性はある。


 馬岱は今はともかく、かつては涼州騎馬隊の一員だったし馬超の近くにいたはずだ。

 それならば涼州騎馬隊の長の一族として顔は知られている可能性があった。

 

 だが郭嘉がどうやって情報を得たかはもはや大きな問題ではない。


 龐徳ほうとくを説得し張遼ちょうりょう軍を率いらせて、巡回行軍を任せたことを考えると、黄巖も同じように利用する可能性はあった。

 そうしないまでも長安ちょうあんに連れ帰って捕虜にするかもしれないし、

 涼州騎馬隊の仔細を知る者として情報を聞き出す尋問に掛けるかもしれない。


 郭奉孝かくほうこうの思惑は読めない。


 彼が馬岱ばたいの正体を知っていると言うことは、司馬懿や賈詡もすでに知っているのだろうか。

 あの二人はもっと徐庶に対しての不信を抱いているため、徐庶が「黄巌は助けて自由にやってくれ」などと進言した方が、逆に彼らの逆鱗に触れて黄巌の立場を悪くする可能性があった。

 その点、郭嘉は司馬懿や賈詡の、徐庶に対する不信を見抜いていた。

 だからといって郭嘉は恐らく、徐庶の味方というわけではない。


 昨日の、話している時の抜き身の刃のような気配。

 不信や憎しみでは無い。


(怒りだ)


 自分の中の何かが郭嘉を怒らせている。

 それは分かった。

 それが何なのかも、朧気ながら捉えられている。


 郭嘉が怒っていることは分かるが、その怒りはまだ吹き出してはいない。

 曹操そうそうと話した時も同じ気配を感じた。

 劉備の許には行かないが、彼に刃を向けることも望まないと言った時、

 曹操は「お前は余程豪胆な男だ。己の全ての望みを叶えようとしているのだからな」と大笑いをした。しかし徐庶はその笑いの下に、はっきりと強い怒りを感じた。


 郭嘉もそうだ。

 例え微笑んでいても、その薄い皮の下に燃え滾るような怒りを含んでいることがあり、

 それが吹き出す時、彼らは言葉ではなく本当の刃で斬り付けてくる種類の人間だった。


 司馬懿や賈詡はそこまで直接的ではない。


 つまり、不信を一度抱かせると厄介なのは司馬懿や賈詡だが、

 本当の逆鱗に触れると、命まで一瞬で失うのが曹操や郭嘉だ。


 だが郭嘉の怒りを感じても、今回はもう一度だけ彼と話さなければならない。


 司馬懿や賈詡に黄巌の嘆願をすれば、弱味につけ込まれ策を弄される。


 郭嘉は黄巌に関しては策は労さないはずだ。

 何故なら、彼はそこまで徐庶に利用価値を見出してないからである。


 そもそも郭嘉が黄風雅こうふうがに興味を示したのは、彼を【馬岱ばたい】と疑ってのことではなく自分を狙う暗殺者の一味ではないかと見たからであり、

 そうではないと分かったことと、自分の手で【烏桓六道うがんりくどう】を葬ったことで、郭嘉の宿願は果たされたはずだった。

 

 そうすることが肝心だと思ったから、徐庶は郭嘉が彼らを本陣に――自分の許に呼び寄せている意図を知った時、本陣に素早く戻り郭嘉の命だけ救うことを避けた。

 彼が自分の命を囮にして投げ出しても敵を殺したがっていたのが分かったから、徐庶は涼州騎馬隊に共闘を呼びかけ本陣をまず救わせた。


 本陣の戦火さえ最小限に済ませれば。

 郭嘉がもし生き残ったのなら、黄巌こうがんを探れと徐庶に持ちかけた以上自分をまず救わなかったことより、本陣を先に救出しようとしたことを評価し、徐庶が魏軍に貢献したと見るだろうと思ったからだ。

 

 それは即ち、郭嘉の意志を重んじたことになる。

 

 郭嘉が暗殺者と遭遇する前に救いに走っても、彼の怒りを買うだけだった。


 願いを叶えた郭嘉は徐庶にもはや何も望んでいないので、そういう点ではどう出て来るか全く見立てが付かない。

 しかし司馬懿しばい賈詡かくは魏軍の動きを阻害するようなことをせず、忠義を尽くすことを徐庶に望んでいるため、徐庶の私情を見せるのは非常に危険だった。徐庶の欲を見せれば彼らはそこに付け込んで来る。つまり、徐庶ではなく黄巖に火の粉が降りかかる恐れがあるのだ。


 洛陽らくように行った時、郭嘉に忠告された。


 お前は未来を変えられる人間なのかと。


 例え郭嘉の怒りに晒されても、今回は「馬岱ばたいを自由にしてほしい」という徐庶の私情を持ちかける相手は彼の方がいい。


 郭嘉は何を仕掛けて来るかは分からなかったが、

 必ず仕掛けて来ると分かりきっている司馬懿や賈詡はやはり何よりも避けるべきだった。



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