アザが世界の中心だった。
分倍河原はじめ
アザが世界の中心だった。
アザが世界の中心だった。
生まれた頃は、顔に何にもなかった。在るのは、目、鼻、口、耳。健康な身体で生まれてきた。それが物心ついた頃には口元にはっきりとアザがついていた。
最初は小さくポツンと、薄っすらシミのようなものがボールペンでつついたサイズで姿を現した。そのシミは僕を蝕むかのように徐々に広がってゆき、色も茶色くなった。肥大化していくそいつは、4才の頃には直径2.5センチの黒アザへと変貌を遂げた。
変貌を遂げたのはそいつ、アザだけではなかった。僕を取り巻く世界も変貌を遂げた。真っ白だった世界が、アザと同じ真っ黒な世界に変わりつつあるのを僕は4才のときに実感していた。
道を歩くだけで、驚いた様子で僕を凝視する見知らぬ人たち。僕を拒絶する保育園の見知った人たち。そうした人たちと対峙する中で、僕の心情や思考はアザに飲み込まれていった。アザが世界の中心となった。
人と話をするとき、その人の目の動きを注視する癖がついた。僕自身を視て話しているのか、僕のアザを視て話しているのか。恐怖心に駆られながら、峻別してその人を良い人か悪い人か、判断していた。敵か味方か、敵意があるのかないのか。そればかり気にしていた。
なぜ僕だけにこんなアザがあるのだろうか。アザがなければ。そう何度思ったことだろう。小学3年生のときだったか、心配した母がある日、僕を皮膚科の病院に連れて行ってくれた。アザの検査終えたあと、医者は僕たちに告げる。
「このくらいのアザなら問題ありません。手術してアザを切除することもできますが、今の医学のレベルだと傷跡が残ります。」
そんなふうに言われたことをよく覚えている。
「傷跡もアザも、目立つことに変わりないじゃないか!僕はただ普通で在りたいのに!」
世界は残酷だと思った。何より、この境遇が一生続くのかと思うと恐怖でいっぱいになった。道行く人たちの視線と、見知った人たちの拒絶が脳裏をよぎった。この世界を生き抜く覚悟ではなく、この世界に絶望して、何もかも諦めてしまった。不思議と涙は出なかった。
そんな自分を鼓舞するかのように、僕はいつも人一倍笑っていた。それがいつしか、相手にアザのことで緊張感を与えないための処世術となっていった。とにかく笑え!自分を欺くように、世界を欺くように。次第に感性が衰え、感情を殺していった。気がつかない内に、ただ笑う機械となっていった。その笑う機械は世界が回る歯車と、ぎこちなく嚙み合っていった。
死んだように時が過ぎていった。高校を卒業して、なんだかんだ言い訳をして浪人していた頃は、心がズタボロとなっていた。そんなある日、中学の同級生の女性と久しぶりに会うことになった。待ち合わせは彼女の家の近くのすき家だった。
店内に入って会話しようとしたけど口が回らない。声が出ない。ずっと人と関わらず、家に引き籠っていたから、声が出なくなっていたのだ。声が出ないことにそのときようやく気がついた。それでも力を振り絞り、一言ずつ言葉をぎこちなく発していった。
牛丼が運ばれてきた。食欲がなく、食事ものどを通らない。食べ終えたのは3時間も経ったときだった。彼女は何事もないかのように僕の言葉と食事をゆっくりじっと待ってくれた。それでも僕は言葉を発し続けていた。
これまで我慢して溜め込んできた気持ちを発露しているようだった。彼女と会話しているようで、実は自分と対峙していた。それは世界の歯車から、僕自身を一度引き離す作業だった。彼女の目すらほとんど見ていないと気がついても、その作業をやめられなかった。
話もひと段落して、夜も遅いからその日はそこで解散となった。
「いつでも話相手になるから!」
この日から彼女と定期的に会っては話をするようになった。場所はお決まりのすき家。会話の中で、自然と笑みがこぼせるようになって、僕の尊厳が回復していくのが目に見えて明らかだった。それでも食事の速度は相変わらずであった。
そんな日を何度も重ねた。するとある日唐突に、
「もしかしたら精神疾患かもしれないよ。うつ病とか。私、詳しくないからわからないけど。」
僕はキョトンとしていた。実感が全くなかったからだ。でも彼女がそう言うのだから何かあるのかもしれない。半信半疑ながらも紹介してもらった精神科のある大学病院に行くことにした。
結論から言えば、統合失調症とパニック障害と診断された。診断名がつくのに3か月を要した。その間、投薬治療も行い少しずつ体調が良くなっていった。診断名がついたからかわからないけど、この頃から疾患を対象化できたように、アザを対象化することができるようになった。アザに振り回されることはあっても、アザに飲み込まれることはなくなっていった。
アザに支配されることなく、アザと共に生きていこう。そう思えるようになったのだ。
アザが世界の中心だった。
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