【Episode18】足りない言葉
応接室。昼の光が柔らかく差し込み、磨かれたテーブルの上で茶器の湯気がゆらめいていた。外のざわめきは届かず、静謐さが空気に張りつめている。
瑠見は指先を揃えてカップを置き、ふわりと笑みを深めた。
「今日もこうして来てくださるなんて……まるで、わたしに会いたくて仕方なかったみたいですわね」
挑発めいた声音。だが、瞳の奥には小さな期待がにじんでいる。
柊は目を細め、軽く首を傾けた。
「君はいつも自信満々だね。そう思いたいなら、好きにすればいい」
「ええ、そうさせていただきます」
瑠見は声を落として囁くように続ける。
「だって、わたしの願いが現実になったのなら……こんなに嬉しいことはありませんもの」
短い沈黙。
茶器の湯気が揺れるなか、瑠見は視線を真っすぐに合わせた。
「……あなたとなら、きっと先の未来も退屈しないのでしょうね」
返事はなかった。
柊はただ、手元のカップの縁を指でなぞり、静かに沈黙を置く。
数拍、長すぎるほどの沈黙が続いた。
焦れたように、瑠見はソファから身を寄せる。
袖口へそっと指先を触れ、わずかに笑みを深めた。
「本当に、少しも動じてくださらないのね」
その声を受けてようやく、柊は視線を上げる。
表情は変わらず、淡々とした調子で言った。
「君が勝手に遊んでるだけだろう」
「……やはり意地悪ですわ」
瑠見は笑みを崩さずに返したが、睫毛の揺れは確かに動揺を示していた。
瑠見は笑みを保ったまま、ふと視線を落とした。
沈黙の間に、吐息のような声がこぼれる。
「……そんなに拒まれるのは、わたしに魅力がないからかしら」
言い終えてから自分でも気づいたように、かすかに肩が震える。
普段の堂々とした響きとは違う、頼りなさを帯びた声音だった。
柊はすぐには答えず、数拍の間を置いて指先でカップの縁を軽く叩いた。
「違うよ」
短い言葉に、瑠見は顔を上げる。
問いかけるような瞳に、柊は淡々と告げた。
「君は十分、魅力的だ」
声音には抑揚がなく、ただ事実を並べるように。
だが、その無感情さがかえって真実味を帯びていた。
瑠見の睫毛が小さく揺れ、息を吸うように言葉が洩れた。
「……それも、いつもの軽口かしら」
問いかける声はかすかに震えを帯びている。
柊は肩を竦め、淡々と返した。
「どうだろうね」
応接室に再び沈黙が落ちた。
光は変わらず穏やかに差し込み、茶器の湯気だけが二人の間を満たしていた。
***
夜の自宅。廊下を渡ろうとした柊を、落ち着いた声が呼び止めた。
「兄さん、少し時間をいただけますか」
振り返れば、壁際に立つ妹、里理がいた。その眼差しは揺らぐことなく兄を射抜いている。
「家のことを、どうするつもりですか」
声は静かだが、冷たさを帯びていた。
「父が望んでいることは明白です。周囲も、兄さんが継ぐのが当然だと思っている」
柊は歩みを止め、目を細めた。
「みんながそう思っていることは知っているよ」
その淡白な返答に、里理の声音がわずかに尖る。
「遊んでいる時間はないはずです。好き勝手に進路を選び、家のことは棚上げにしたまま。兄さんがその間に何をしているか、私には逃げているようにしか見えません」
静かな廊下に、言葉は鋭い音を立てて突き刺さる。
柊の表情は変わらない。
「そうかもね」
あまりに揺るがぬ応えに、里理の瞳が一瞬だけ揺れ、嫌悪の影が差す。だが彼女はすぐに感情を抑え込み、冷ややかに言い放った。
「貴方の気まぐれに、人を巻き込まないで」
その一言は刃のように鋭く、廊下の冷えをさらに強める。
柊はわずかに視線を落とし、数秒の沈黙を置いてから答えた。
「君の言うことが正しいよ。迷惑かけるね」
声音に冗談はなく、ただ乾いた響きだけが残った。
廊下の空気は冷え、二人の間に落ちる沈黙だけが長く伸びていった。
やがて里理は小さく息を吐き、これ以上は無駄だとでも言うように踵を返した。足音が乾いた廊下に響く。その先の曲がり角で、伶と鉢合わせる。
里理は「あっ」と目を見開いたが、すぐに気まずそうに視線を逸らし、伶の横を通り抜けていった。背筋を伸ばしたまま、足早に去っていく。
伶はその背中を一瞬目で追い、それからゆっくりと柊の方へ視線を戻した。
「……すみません。聞くつもりはなかったのですが」
声には抑揚がなく、感情を感じさせない。だが、その無表情がかえって真剣さを際立たせていた。
柊は肩を竦め、軽く首を振った。
「気にしなくていいよ。…むしろ変なところを見せて、ごめんね」
伶は短く「いえ」とだけ答え、ふと先ほど里理が歩いていった方へ視線をやった。そのまま一拍の間を置き、再び柊に向き直る。
「……自分が言える立場ではありませんけれど」
小さな声が、静かに廊下に落ちた。
「柊さんは、少し…言葉が足りないように思います」
柊は目を瞬き、それからわずかに口元を緩めた。
「……そうかもしれないね」
苦笑は短く、けれどどこか温度を帯びていた。
廊下には再び静寂が戻り、灯りに照らされた影だけが二人の間に伸びていた。
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