中年と般若心経と除霊師
鴎
***
───受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相
お経の音が響き渡っていた。
般若心経だった。葬式とかでよく聞くあれだ。
それが風呂場に響き渡っていたのである。
「な、なんだなんだ。怖い怖い怖い!」
俺は風呂に入っており、全裸でこの異常な状況に震えていた。
風呂に入ってゆっくりしていたら突然お経が響き出したのだ。
完全に心霊現象だった。
俺はお湯に浸かりながらガタガタ震えている。
「で、出よう!!」
とにかくこの恐怖空間から脱出しなくてはならない。
─── 無色 無受想行識 無限耳鼻舌身意
お経が響き続ける。
俺は風呂場のドアに手をかける。
しかし、
「あ、開かない!!!!」
風呂場のドアはビクともしなかった。全然開かない。
つまり脱出不可能だった。
「し、死ぬのか俺は!!!」
こんな心霊現象、いつまで耐えられるか分からない。
そもそもこれ以上何か展開したらもう手に負えない。
どう考えてもこの状況はヤバい。
─── 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪
お経は響き続ける。
「だ、誰か! 誰か助けてくれ!!!」
俺は叫ぶ。
「大丈夫ですか」
と、風呂場のドアの向こうから声がした。
女の声だった。
知らない声だ。何者なのか。
「だ、誰!?」
「通りかかった除霊師です。ヤバめの妖気を感じたので立ち寄ったらやはりヤバいことになっていました」
「た、助けてくれるのか!!」
助かった。まったくよく分からないがこの心霊現象をどうにか出来る人材が偶然通りかかったらしい。奇跡としか言いようがない。
「ええ、助けます。助けますが、あなた全裸ですよね」
「え!? まぁ」
「私中年男性の下っ腹が死ぬほど嫌いなんです。まさかあなた下腹出てないですよね」
「ええ!?」
女はなんだかよく分からないことを言った。
残念ながら中年男性である俺の下腹はでっぷり出ていた。隠し切れないだらしなさだ。
女の機嫌を損ねかねない見苦しさだった。
「出てる、出てるよ。だったらどうするんだ。帰るのか?」
「帰ります」
そう言って曇りガラスの向こうに見えた人影がにわかに離れていく。
「待って! どうすれば良い! どうすれば受け入れてくれる」
また人影が戻ってくる。
「なんとか見苦しさを抑えてください」
「抑えるって...」
どうやってもこのポンポコリンのお腹を抑える手なんかこの風呂場にはない。
ちょっとお腹を引っ込めてみるが無駄だ。贅肉は隠し切れない。
「無理だ。無理だよ。見苦しさは消せない。なんとかしてくれ!」
「じゃあ、そういうことで」
人影は去っていった。
─── 即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
異常なお経は止むことを知らない。
「待ってくれ! なんとかするから!」
もうなんとかするしかなかった。
俺はなんとかなんとか策を練って実行する。
「良し! 良いぞ!」
「腹にタオル巻いただけじゃないでしょうね」
「なんで分かる!」
「じゃあ」
また人影が遠のいていく。
俺の腹からボディウォッシュのタオルがハラリと落ちていく。
「ま、待ってくれ! なんとかしてくれ! ええい、これでどうだ! これしかない!」
俺はなんとか策を講じる。
「本当に大丈夫でしょうね」
「ああ! これなら見えないはずだ!」
「ダメだったら20万もらいますからね」
「に、20万。結構だな。まぁ良い。この異常空間に居るよりマシだ」
「じゃあ行きますよ」
女がドアに手をかざすのが見える。
「喝!!!」
女が叫ぶ。するとギイ、とドアが開いた。
そして女が入ってくる。別段特殊な服装もしていない普通の女だった。
女は響き渡る般若心経の中天井を睨む。
「面倒な怪異ですね。喝!!!!」
そして天井に手をかざし叫んだ。
途端、お経は止んだのだった。
「よ、良かった。ありがとう」
俺は言った。
女はチラリと俺を見た。
「汚い尻ですね。まぁ、腹よりマシですが」
お風呂にうつ伏せで浮く俺に女は言う。
腹は隠れたが尻は丸出しであり、これで良いのかと言った感じだったが除霊してくれたところを見ると大丈夫らしかった。
「お、お礼を。何かお礼を」
「良いですよ。これ以上おっさんの汚い裸体に関わりたくありません。それじゃ」
そう言って女は去っていった。
後には俺だけが残された。
「なんで怖い思いと惨めな思い一緒にしないとならないんだ」
散々な夜だった。
中年と般若心経と除霊師 鴎 @kamome008
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