第3話


ピンポン、とインターホンを押した。

千代子の家は高層マンションの12階にある。


「はい」と声がして、程なくして千代子と雰囲気の似た長身の男性が出てきた。

40代くらいだろうか。黒髪黒目、理知的で柔和な顔立ちの男である。


しかし何と表すべきか、糸をギリギリまでピンと張ったような…鋭くて嫌ァな雰囲気をしている。

あ、真っ黒に濁っている目なんて千代子とそっくりだ。


男は微笑んだまま、グッと片目に皺を寄せた。

「…千鶴、おかえり。その男は誰だい?」

「……」

「すみません。紛らわしいですけど私、女です」

「……千代田綾ちゃん。お友達よ」

「ああ、女性だったか。間違えてすまない」


「ここで話すのも何だし、入っておくれ」と言われる。

中に入るつもりは無かった。しかしどうにも逆らってはいけないような気がして、綾は帽子を脱いで肩を縮めながら恐る恐る入った。


…家出したのに態度が普通すぎない?千鶴って誰?どうして千代子を千鶴って呼んでるの?

私って家の中に入っていいの?


疑問が次々に浮かぶが、綾は生きて帰りたいどれ一つとして口に出そうとはしなかった。

一言も間違えてはいけないような緊張感があった。


「綾さん。紅茶は嫌いじゃないかい?」

「はい」

「千鶴、紅茶を淹れてくれないか」

「ええ」

「ありがとう。私と千鶴も紅茶好きなんだよ…と言ってもティーバッグしかないが」

「…?そうでしたか。紅茶って沢山種類があっていいですよね」


あれ、千代子って紅茶が嫌いじゃなかったっけ。昨日泊まった時は「ほうじ茶が好き」と言ってたはず。


「最近の若い子はコーヒーの方が好きな人も多いね。君はどうだい?」

「お恥ずかしながら苦いのはダメで。甘党なんです」

「おや、気が合うね。僕もだよ」

「へえそうなんですか。てっきり好んでそうなものだと」

「いやあ、人は第一印象で決めつけるものじゃないね。ははは」


思っていたよりもずっと話しやすい…と綾は内心ホッとした。

話のテンポがいい。落ち着きもあって、何より上品だ。

千代子のことを「千鶴」と呼ぶ以外おかしな点は見当たらず、家出されるような父親には思えない。

何がどうして千代子があそこまで憔悴しきった様子になるのか……。


談笑しつつ訝しんでいると、千代子が人数分の紅茶をテーブルに置いた。

「はい」

「ありがとう。そういえば昨日は千鶴が世話になったね。お泊まり会をしたんだろう?」

「あっ、はい。とんでもない」

「綾ちゃん、カレーを作ってくれたのよ」

「おや、料理上手なのか。顔も綺麗で賢くて料理上手。周りが放っておかないだろうね」


いえいえ、と苦笑いで一通り謙遜してから、ぐるっと室内を見渡した。

「何か?」

「いえ、写真が少し気になって…」

パッと目についたものを適当に口に出した。

写真とは飾り棚に置かれているもので、女性と千代子らしき幼い女の子が写っているものである。

一目で母娘だと分かるそっくり具合で、女性は今の千代子に本当によく似ていた。


「写真?ああ、旅行先での妻と娘だよ」

「へえ。親子でそっくりですね」


「うん。…千代子は5年前に事故で亡くなってしまったけれど」

「……え?」

「残ったのは私と妻の千鶴だけ。今でもずっと寂しいよ」

彼は辛そうに眉を下げた。


おかしい。

キーン、と耳鳴りがした。

周りの音が一瞬、全て消えたような錯覚。



(……5年前、千代子が死んだ?)


いや、千代子は生きている。現にここに居るじゃないか。

話からするに千鶴は千代子の母親の名前だろう。事故死した母親だ。

ではこの男はどうして千代子を「千鶴」と呼んでいる?


冷えた手汗が握りこぶしの中で滲む。肺が圧縮されたみたいだった。

数秒の間で、脳だけが冷静にチクタク動いていた。


(千代子が偽名…は無い。けれど彼女は千鶴という名前を許容している。何故?妻の名前で娘を呼ぶのはどうして?

あ…もしも。もしも娘を妻と重ねてしまったら、どうなる?父親の中で事実のねじ曲げが起こったとしたら?

急に喪った妻にそっくりの娘が居れば…どうなる?)


綾は表情を見せないように俯く。

そして悟った。

彼女は、奇妙な違和感の正体を当ててしまったのだ。


「すまないね。暗い話をしてしまった」

「…すみ、ません。お手洗いをお借りしても?」

「勿論。廊下に出て突き当たりを右だよ」

「行ってらっしゃい」

その時千代子がどんな顔をしていたのか、見る余裕は無かった。


限界だった。

おぼつかない足取りで歩いて、何とかトイレにたどり着いた。

入った瞬間、ドッと崩れるように壁に寄りかかってしゃがみこむ。

千代子、千鶴、5年前の事故、好きなお茶の種類、家出の原因、父親の違和感……。


欠けていたピースが埋められていく。

そして最後の1枚が頭の中でカチ、とはまる音がした。


そうだ。あの父親、何かがおかしいと思えば。千代子を全く子供扱いしていない。

まるで…まるで、妻に接するようなのだ。


もしも。もしも先程の推測が当たっているなら。

それでは千代子は、あの異常な家、あの異常な父親と5年もの間、夫婦ごっこをさせられていたのか?

(…どこまで?)と彼女は口元を震える手で覆った。

妻と認識されているのなら……千代子は、父親に「夫婦」としてどこまでされている?


「っう゛」

そこまで考えた綾は咄嗟にえずいた。

胃を握られるような吐き気と共に、ストレスによる生理的な涙がドロッと目から流れる。

吐きはしなかったものの、ぬるい涙はボタボタ便座の水中に落ちた。


こんなことが起こるのはフィクション…画面や紙の中だけだと思っていた。

それが今、生々しい温度を持って自分に迫っている。


家出をするわけだ。いや、むしろ今まで誰にも頼れず何年も溜め込んできた分、タチが悪い。

あの聡明そうな父親のことだ。バレないように細心の注意を払って、ジワジワと千代子を囲っていたのだろう。

それでも父親を騙して家出をしたなら、まだ完全に洗脳されていないのかもしれない。


ハ、ハ、ハと細かく息をついて震える手を押さえる。

(……そろそろ戻らなきゃ)

あまりに長いと不審がられてしまう。

あの男に勘づいたことがバレたら何をされるか分からない。

一刻も早く逃げ出したい気持ちを抑え、フラフラと立ち上がる。




トイレから出ると、扉の横に千代子が立っていた。

彼女は「あーあ。バレちゃった」といつもと変わらぬ表情に、あっけらかんとした子供っぽい声で言った。


「着いてきて。私の部屋で話しましょ」

「……」

ややバラバラなタイミングで、2人分の軽い足音が廊下に鳴る。

「いつもは外の人が来た時、千鶴なんて呼ばないんだけど。昨日と今日はダメな日だったみたい」

「あのさ…あの父親は、どこまで?」

「どこまでも」

「……。なんで言わなかったの」

千代子は感情の読めない笑みを作った。


「あなたにだけは知ってほしくなかった」


千代子がドアを開ける。

綾は「え」と短く息を漏らして、戦慄した。

千代子の部屋は、一見女の子らしくて可愛い部屋だった。…壁を除けば。


本来は白いはずの壁。

そこには細かくて赤い文字がビッシリと刻まれていた。

『①千鶴は穏やかに優しく話す』

『②千鶴は芍薬の香りがする』『←千鶴と同じ香水をいつも付けること』

『③千鶴は紅茶が好き』

『④千鶴の口調は───』


とこのように1000個以上「千鶴」になるために必要なことが全ての壁に書かれている。

ヒステリックな大量の文字で埋められている壁は、真っ赤に見えた。

千代子の字ではないので、父親が書いたのだろう。

なんておぞましい家だ。虐待の次元を超えている。

あの男はバケモノだ。笑顔の皮の下には肉の代わりに黒くて腐った汁がビチャビチャ詰まっているみたいに醜悪で、救いようが無い。


「あ、っうえ゛」

あまりの気持ち悪さに綾は嘔吐した。2回目は耐えられなかった。

つい10数分前に食べたチョコミントアイスが液状で出てきて、綾は涙でぼやけた視界の中

「ご、ごめん。ほんとごめん、よごした」と胃液が絡まった声で謝りつつ(あ、もったいない)と反射的に思った。


千代子は嫌な顔ひとつせずに綾の脂肪の薄い背中をさすってやり、コップに水を入れて渡した。

そして雑巾を持ってきて綺麗に掃除をした。


まるでいつも通りの千代子に綾は目をパチパチさせて。

そうか。この景色は彼女の日常なのか、とどこか腑に落ちるような気分になった。


この部屋も父親も、千代子にとっては日常に過ぎない。

死臭を嗅ぎ続ければ鼻が鈍って慣れてしまうように、異常さに感覚が麻痺してしまっている。


数分経って、千代子が切り出す。

「あのね、1つお願いがあるの」

「……何?」

疲弊しきった綾はできるだけ視界に壁を入れないようにして、千代子の顔をずっと見ていた。

この中で唯一の正常である千代子に縋っているのである。


「あのね」

「うん」

もしも彼女が「助けて」と言えば何としてでも助けるつもりだった。「逃げたい」と言えば一緒に逃げるつもりだった。

しかし千代子が細い声で言ったのは。


「今日のことは忘れて。…誰にも言わないで」

…と。それだけだった。


それを聞いた綾は、今にも泣きそうな顔をする。

(せめて『助けて』って言ってくれれば良かったのに)

胸ぐらを掴んでそう言ってやりたかったが、グッと堪えた。

その代わり。

「じゃあ私から1つ、ワガママ」


綾はわずかに震える手で、孔雀の羽のイヤリングを片方外した。

千代子の右耳に髪をかけ、1個だけのイヤリングを付ける。チャリ、と金属が触れ合う音がした。


「これ。千代子が私のこと嫌いになったら返すか捨てるかして。…それまで私、友達やめるつもりないから」

彼女はそう言ってニコ、と力の抜けた下手くそな、しかし太陽のように眩しい笑顔を作った。

せめて寄り添ってあげたかったから。

助けられなくても、傍で手を取るくらいはしたかったのだ。


千代子は「あっ」と咄嗟に声を出す。

神様みたい、と思った。

この赤い部屋で、千代子にとっては綾の笑顔だけが鮮やかで、非日常的で、綺麗だった。


そして浅ましいことに。

この綺麗な、自分にとっての非日常を失いたくない、と強く願ってしまった。


だから「それじゃ、一生返せないわね」といつもの何倍も不器用に、今までで1番人間らしく笑ったのだ。

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