第8章「ニトプ救助」

 ヴァリエルの展望デッキは、もはや観光のための窓ではなかった。

 そこから見えるのは、遠ざかっていく月面の輝きと、そのさらに向こう、青い地球が小さくなっていく光景だった。


 ニトプは額をガラスに近づけ、静かに呼吸を整えた。

 人類の故郷が遠ざかっていく。

 それは、自分が望んで選んだ結果のはずだった。サバコカを救うため、ヴァリエルを月面から逸らし、深宇宙へ投げ出すしかなかったのだから。


 だが、その「正しい選択」の先に待っていたのは、終わりの見えぬ孤独だった。

 窓越しに見えるのは、無限に広がる黒の海と、無数の星々。人間の尺度を無力化する、冷たい無限の広がり。


 ——やった。自分は確かに救った。

 ——だが、自分はもう戻れない。


 達成と絶望。その二つが胸の中で重なり合い、互いに拮抗していた。

 足元には祖父の工具箱がある。手に馴染んだスパナやレンチを見つめながら、ニトプは自嘲気味に息を漏らした。


「仕事ってのは、手を抜かないことだ……か」


 その言葉を守った結果が、この孤独。彼は笑おうとしたが、うまくいかなかった。


 同じ頃、月面の地下深くに広がるサバコカの管制室は、緊張とざわめきに包まれていた。

 スクリーンには、月衝突を回避して漂流へと進路を変えたヴァリエルの姿が映っている。


「彼は、我らを救うために自らを犠牲にした」

 若い技術者が声を震わせて言った。

「これは、ただの偶然や錯覚ではない。彼の行動は明確に、我々を守るための意志だ」


 代表は長い沈黙ののち、低く言葉を発した。

「……人類という集合は、愚かだ。だが、彼という個は、我々が求めるものを体現している」


 会議卓を囲む者たちが頷いた。

「救助すべきだ。彼は、対話に値する」


 その一言で決定は下された。小型救助艇が発進準備に入る。

 月面の発射口から、細身の船体が黒い虚空へと滑り出ていった。


 ニトプは、ふと窓の外に微かな光を見た。

 点のように小さな輝きが、じわじわと近づいてくる。最初は流星か残骸かと思ったが、やがてその動きが規則的であることに気づいた。


「……救助船?」


 胸が高鳴る。だが同時に、疑念が浮かぶ。地球政府の罠かもしれない。彼らにとって自分は、もう不要な駒に過ぎないはずだ。

 しかし、その機体の外殻に刻まれた徽章を見たとき、彼は息を呑んだ。

 それは、月面の人影——見たことのない紋章だった。


 救助艇は静かにヴァリエルへと接近し、ラッチが噛み合う乾いた音が響いた。

 重いハッチが開き、人工光が差し込む。ニトプは一歩、二歩と足を進めた。


「……本当に、助けに?」


 誰にともなく呟いたその言葉は、誰の耳にも届かなかった。だが差し出された手が、それに答えていた。


 救助作戦と並行して、サバコカ代表は地球政府へ通信を送っていた。

 その声は冷静でありながら、確かな怒りと警告を帯びていた。


「聞け、地球の指導者たちよ。

 ニトプは、我々を救うために己を犠牲にした。彼は敵ではない。彼は英雄だ。

 我々は彼を救助した。これは、彼の行動への敬意である。


 だが忘れるな。サバコカの破壊は、月のエネルギー炉の連鎖崩壊を招き、やがて地球をも破滅へ導く。

 ゆえに、我々は高エネルギービームの照射を延期する。

 その猶予を、無駄にするな」


 通信はそこで途切れた。


 地球政府の会議室に残されたのは、沈黙と、動揺を隠しきれない人々の視線だった。


 救助艇の中で、ニトプは深い安堵に包まれていた。

 張り詰めていた心と体が、急速に解けていく。

 視界が揺れ、瞼が重くなる。


 ——自分は、本当に救われたのだろうか。


 その答えを確かめる前に、彼の意識は静かに闇へ沈んでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る