ヴァリエル——バベルの塔 2050

青月 日日

第1章「油と鉄の匂い」

 郊外の工業地帯は、いつも油と鉄の匂いがした。ニトプが働く町工場も例外ではなく、旋盤が金属を削る甲高い音と、ボール盤が低く唸る振動が、建物の隅々にまで染み付いている。彼はここで、若手ながらもその手先の器用さと、病的なまでの几帳面さで知られていた。


「おいニトプ、またやってるのか。その部品、お祓いでもしてんのかよ」

 昼休み、同僚が呆れたように声をかけた。ニトプは、今しがた組み上げたばかりのギアボックスの前に屈み込み、指先でその表面をなぞりながら、わずかな歪みや引っ掛かりがないかを確認しているところだった。彼の作業は常に、指定された公差よりもさらに内側を狙う。仲間内ではそれが「細かすぎる」と冗談の種になっていたが、彼が手掛けた機械は、決まって長持ちした。


 彼のこだわりは、道具にも表れていた。昼休みや終業後、ニトプは決まって自分のロッカーから、年季の入った木製の工具箱を取り出す。そして、一枚の油布を手に、中に入った工具を一本一本丁寧に磨き上げるのだ。祖父の形見であるその工具たちは、使い込まれて角は丸みを帯びているが、手入れの行き届いた鋼の表面は鈍い光沢を失っていない。会社から支給される最新の電動工具には目もくれず、彼はいつもこのアナログな手道具で仕事を片付けた。彼にとって「手を抜かない」とは、意識して行う目標ではなく、呼吸をするのと同じくらい自然な習慣だった。


「先輩、ここの締め付け、どうも感覚が掴めなくて……」

 作業に戻った後輩が、調整に手こずっていた。ニトプは隣に立つと、その手からスパナを受け取り、自分の工具箱から取り出した一本を代わりに手渡した。

「工具の重みを感じてみろ。力がまっすぐ伝わる角度がある」

 後輩の手に自分の手を重ね、ナットが静かに、しかし確実に締まっていく感触を教え込む。そして、最後のひと締めを終えた瞬間、彼はいつものように呟いた。

「仕事ってのは、手を抜かないことだ」

 その言葉が亡き祖父の口癖だったことなど、ニトプ自身はとうに忘れていた。それはもう、彼の身体の一部になっていた。


 彼の職人気質は、しばしば予言者のように振る舞った。ある日の午後、工場中に響き渡るプレス機の音のリズムに、ニトプはふと眉をひそめた。他の誰もが気づかない、コンマ数秒の「揺らぎ」。彼はすぐに機械を止めさせると、油にまみれながら駆動部を点検し、やがて内部ベアリングに刻まれた微細な亀裂を発見した。あと数時間稼働していれば、重大な事故に繋がっていただろう。


 そんな日常が、ある日、宇宙へと繋がった。


 食堂の壁にかけられたモニターが、完成したばかりの軌道エレベーターステーション「ヴァリエル」の壮麗な姿を映し出していた。

「すげえよな。一般人も抽選で先行体験に招待されるんだってさ」

 同僚の一人が、興奮気味に言った。その言葉に、ニトプはふと思い出す。そういえば、自分も「どうせ当たるわけがない」と、軽い気持ちでその抽選に応募していた。

 彼は何気なく作業着のポケットからスマートフォンを取り出し、溜まっていたメールを開いた。そして、その指が、ある一件のメールの件名の上で固まった。


『軌道エレベーターステーション「ヴァリエル」先行体験ご当選のお知らせ』

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