Fall into the Springfield

既知のツンドラ

 背の高い雑草の生い茂る空き地の前で、秋斗はどこかから運ばれてきた桜の花びらが宙を舞っているのを眺めていた。花びらが秋斗の足元に近づいたとき、雑草の群れの中から突然小さい毛むくじゃらの手が飛び出してきて、それを捕らえてしまった。

 毛むくじゃらの手の持ち主――サバトラ柄の猫は、黒い路面に落とした花びらをちょんちょんとつつきはじめた。首輪はないが去勢済みを示すカットがされた『さくら耳』をしている。地域猫だった。秋斗は猫の前でしゃがみこんでみせる。

「おいで」

 秋斗はその猫に何度か出くわしたことがあるし、触ったこともある。このあたりは他にも猫がいるが、一番人懐っこい子だった。猫は秋斗に近づいてきて、彼の前で寝転がった。彼が横腹を撫でているあいだ、当の猫は自分の前足をピンクの舌で舐め上げていた。

「何してるの?」

 後ろから声がしたので、彼はびっくりして振り返った。イライジャだった。仕事の帰りなのだろうか。

「え、あ、えーと、」

 イライジャは身体を傾けて、秋斗の前にいる猫を見た。

 見つかっちゃったな、と秋斗は思う。というのも、秋斗と彼の出会いは、秋斗が烏の死体に不用意に触れようとしたのをイライジャが制止するというものだったからだ。彼は眉をひそめるに違いない。

「ネコを触ってたんだね」

 ところがイライジャはほんの少し声音を高くして言った。

「最近ここがネコのたまり場になってることに気づいたんだけど、君も知ってたの?」

「えっと、まあ……」

 彼が言うように、ここは以前から野良猫のたまり場になっていた。さすがに中に入ることはしないが、敷地の外側から猫の姿が見えることがあるので、気が向いたときに見に来るのが彼のちょっとした楽しみだった。イライジャも同じことに気がついたようだ。

「え、どうしたの。邪魔しちゃったかな」

「いや怒られるかなって……」

「うん……?」

 ああ、とイライジャは言いながら、秋斗のそばにしゃがみこんだ。

「僕があのとき触るなって言ったのは、あのカラスが死んでいて、血を流していたからだ。このネコは死んでないし血を流してもいないね」

 イライジャは猫をじっと見つめながら言う。当の猫は興味なさげに自分の前足を舐め続ける。

「ネコに噛まれたりひっかかれたりしたことが原因でヒトが人獣共通感染症にかかり死亡する事例はあるけど、レアケースだ。だいたいの場合はすぐ病院に行けば問題ないだろう。そもそも、ひっかかれるとは限らないし。僕は自分では触らないけど、君が野良ネコを触るかどうかは正直どうでもいいよ」

「そ、そっか……」

 秋斗は猫を撫で続ける。イライジャはそれをじっと見ている。――触る気がないならどうして見つめてくるんだろう……。気まずい。ちょっと帰りたいかもしれない。でも今立ちあがったら気まずいと思ってることがばれそうで嫌だ。

「やっぱり触っていいかな……?」

「え?」

 秋斗は思わず顔をあげた。イライジャはバッグの中から出したウェットティッシュで手を拭いていた。あ、俺も拭いといたら良かったかも、と彼は思う。猫から人に感染する病気があるなら、人から猫に伝染る場合もあるんだろうし。

「君に聞いてるんじゃないよ!」

 彼は小声のまま語気を強めて言いつつ、猫の視界に入るようにゆっくり手を差し出してみせる。猫はそれを見ても動く様子を見せなかったので、イライジャは猫の背中にそっと手をのせる。

「わ〜、ふわふわ……。でも手を洗わないと……。かわいいね……」

 言っていることがちぐはぐなイライジャは、やわらかく笑っている。

「君も動物好きなのか?」

 秋斗はイライジャが猫を撫でる手を目で追いながら聞いた。おそるおそる、ゆったり撫でる様子は少しぎこちないが、猫は撫でてくれるなら誰でもいいらしい。機嫌良さそうに喉を鳴らしている。

「好きだよ! じゃなかったら今の仕事に就いてないよ」

 イライジャは猫に夢中で、秋斗に見つめられていることには気がつかない。その姿は、自分と一つしか年が変わらない普通の男の子らしく見えた。秋斗はしばらくの間、猫とイライジャを眺め続けた。

 撫でられるのに飽きたらしい猫は、おもむろに体を起こし、二人のもとから離れていった。猫が曲がり角の向こうに消えていくのを見送って、彼らは立ちあがった。

「よし、じゃあ手を洗いにいこう!」

 上機嫌なイライジャは片手をあげてそう宣言した。

「はい……」

 なんだか振り回されっぱなしな気がする秋斗はちいさく溜息をついて、彼と共に洗い場のある公園に向かって歩きはじめた。

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