後編 永遠
十五回目の朝、美香の表情は完全に変わっていた。愛情の欠片もない、氷のように冷たい目で僕を見つめている。
「おはよう。お誕生日おめでとう」
その言葉には、もはや祝福ではなく呪詛が込められていた。
朝食の席で、美香は突然口を開いた。今までのループとは違う言葉だ。
「あなた、先月の出張、本当に大阪だったの?」
僕の心臓が止まりそうになった。先月の「出張」は、実は元同僚の女性と会うための口実だった。何も起きなかったとはいえ、妻に嘘をついたことに変わりはない。
「何を言っているんだ?もちろん大阪だよ」
「そう。でも、あなたが泊まったホテル、大阪にはないのよ。東京のホテルなの」
美香は淡々と言った。まるで事実を述べるように。
僕の手が震えた。なぜ彼女がそんなことを知っているのか。まさか、調べたのか?
「それから、去年借りた五十万円。ギャンブルに使ったのよね」
今度は血の気が引いた。その借金は、同僚から内緒で借りたものだ。美香には、起業資金の一部だと嘘をついていた。
「なぜ...なぜ知っている?」
「全部知ってるの。三年前の麻雀で作った借金も、二年前の不倫未遂も、去年の株の失敗も。全部」
美香の声は恐ろしく冷静だった。まるで長い間準備してきたセリフを読み上げているかのように。
僕は否定しようとしたが、言葉が出なかった。彼女の言うことは、全て事実だったからだ。
夜、時計を渡す美香は、もはや僕の知っている妻ではなかった。
「プレゼントよ。開けてみて」
僕は震える手で包みを受け取った。中から現れる腕時計は、何度見ても同じものだった。しかし、今夜はその文字盤が、月光の下で妖しく光っているように見えた。
「この時計...一体何なんだ?」
「あなたへの贈り物よ。私からの、特別な」
美香は時計を僕の手首に巻きながら、ゆっくりと話し始めた。
「私はね、あなたの誕生日を祝うたびに、裏切られた過去を思い出していたの。毎年毎年、笑顔を作って、愛してるふりをして。でも心の中では、あなたへの憎しみが積もっていった」
僕は言葉を失った。美香の告白は続く。
「だからね、今年は違う誕生日プレゼントを用意したの。この時計を贈った日から、あなたには"最悪の一日"を繰り返してもらうことにしたの」
「そんな...馬鹿な話があるか!」
「馬鹿な話?でも現実に起きてるじゃない。あなたは今、十五回も同じ日を繰り返してる。そして、その度に私に嘘を暴かれてる」
美香の言葉に、僕は戦慄した。確かに、現実離れした話だ。しかし、この異常なループが続いているのも事実だった。
「時計を外せばいいんだろう?」
僕は必死に時計のベルトを外そうとしたが、どうしても外れなかった。まるで肌に溶け込んでしまったかのように。
「無駄よ。その時計は、私の怒りと憎しみで作られた呪いなの。あなたが真実を受け入れるまで、永遠に外れることはない」
次の夜も、美香は相変わらず冷たい笑顔で時計を差し出す。
「プレゼントよ。開けてみて」
「もうやめてくれ!何をすれば許してくれるんだ?」
「許す?」
美香は声を上げて笑った。
「十五年間、私が受けた屈辱を、あなたは一日で償えると思ってるの?」
二十回目のループで、僕は川に時計を投げ捨てた。しかし、次の日の夜には美香が時計をプレゼントしてくる。
三十回目のループで、僕は家を出て、遠く離れた町まで逃げた。しかし、朝になると自宅のベッドに横たわり、美香が話しかけてくる。
五十回目のループで、僕は完全に絶望していた。どこに逃げても、何をしても、必ず同じ結末が待っている。美香の冷笑と、時計のプレゼント。そして、翌朝の同じ目覚め。
「なぜこんなことを...」
僕は美香に懇願した。しかし、彼女の答えは変わらない。
「あなたが私にしたことを、思い出してもらうためよ。一日一回ずつ、永遠に」
百回目のループ。
僕はもはや抵抗する気力もなく、ただベッドに横たわっていた。美香が部屋に入ってくる足音が聞こえる。いつもと同じ、軽やかな足取り。
「プレゼントよ。開けてみて」
包みを受け取る僕の手は、もう震えることもなかった。中から現れる腕時計も、見慣れたものだった。しかし、今夜は文字盤の針が、妙にはっきりと見えた。秒針が、まるで僕の心臓の鼓動のように動いている。
「お願いだ...もうやめてくれ!何でもする。君の言う通りにする。だから、この地獄から解放してくれ!」
僕は最後の力を振り絞って叫んだ。しかし、美香は無表情で時計を僕の手首に巻いた。
「お誕生日、おめでとう」
その声には、もはや感情のかけらもなかった。まるで機械のように、同じ言葉を繰り返すだけ。
時計の針は、正確に時を刻み続けている。止まることなく、永遠に。
僕は目を閉じた。また明日も、同じ朝が来る。同じ陽光、同じ時刻、同じ美香の笑顔。そして同じ絶望。
時計の秒針だけが、この永遠の牢獄で唯一動き続けるものだった。カチ、カチ、カチと、僕の残された時間を刻みながら。
しかし、その時間は決して進むことがない。永遠に同じ一日を繰り返すだけの、呪われた時間なのだから。
暗闇の中で、時計の針だけが光っていた。まるで僕を見下ろしているかのように。
そして翌朝、僕はまた目を覚ます。
寝室のカーテンから差し込む秋の陽光が、枕元の目覚まし時計を照らしている。七時きっかり。
「おはよう。お誕生日おめでとう」
美香の声が、永遠に響き続ける。
終
Re:Birth 君山洋太朗 @mnrva
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