プロローグ 第二話【椿】

1.

わたしが家の夜の張りつめた空気に、薄々気づいて、一ヶ月が経った頃、父は蒸発した。

父が消えた日の、じっとりとした空気は、1年がたった今も、わたしの肌にまとわりついている。最後に感じた父の殺気だった空気も、忘れることが出来ない────。



※※※



夜が帳を下ろすと、家の中の空気は重さを増すように感じられる。

昼間の喧騒が嘘のように、音は深く沈黙し、代わりに肌を撫でるような、目に見えない何かの圧力が部屋を満たしてゆく。

それは、梅雨の晴れ間の湿りのように、じっとりとまとわりつき、逃れることを許さない。


台所の蛍光灯の白い光だけが、所在なさげに床を照らしている。その光の輪郭のすぐ外は、濃い影が曖昧な形を作り、まるでそこで何かが息を潜めているようだ。



母は、夕食の片付けをしながら、小さな声で何かを呟いている。その声を聞いた途端、無性に泣きたい衝動にかられた。もうわたしも限界だ。逃げ出したいが、逃げ出したらさらに悪い状況になる。


「どうして、あんなことをしたんだろうね」

「許さない。」

「身勝手だ」

「呪う」

そんな言葉が、まるで空気の粒子の振動のように、わたしの耳に届く。母の表情は醜くゆがめられ、顔が赤く化け物のようだ。

「ねぇ、椿」と、母が振り返って言う。

この瞬間がいつも嫌いだ。


「私が辛い時もあいつは遊びほおけて。何回言ったらわかるの!バカ!私に時間も与えない!何も与えない。何自分1人忙しいとおもってんだよ!反省もしないで『前のことほじくって』って今も続いてんだよ!」


わたしは、母の言葉に小さく頷く。それは父に向けられていると頭では理解していても自分に言われているように感じ心がえぐられる。

それでも無視したら逆上するため、共感するように努めて、できるだけ優しい笑顔を向けた。もし、そこで少しでも違う反応をすれば、母の顔が曇ることを知っている。そして、一度曇った顔は、なかなか晴れないことも。


夜の時間は、昼間よりも長く、嫌に濃密に感じられる。壁の時計の秒針の音だけが、規則正しく時を刻み、そのたびに、張りつめた空気の層が少しずつ厚みを増してゆくようだ。

それは母の文句からだろう。だが、わたしが懇願しても終わらない。


「わたしももう限界!耐えられないよ」

リビングに、わたしの声が響く。だが、言い切ることも許されず、母は口を開いた。


「私だって限界だよ。素直に聞け。聞けよ!」

大声を出され、殴られたような絶望が襲う。わたしは逃げられないのだと、一瞬で、こころのそこから悟った。


────笑顔で、笑顔で、嫌でも聞かないと。


わたしに、逃げ場はない。

わたしが壊れるまで、何も感じなくなるまで。

壊れた笑顔で、笑っていられれば良いのに。


「わたしのこと……嫌いじゃないよね……?」


聞いたらより深い絶望に落とされるとわかっていても、わたしは問うてしまった。


「うるさいんだよ!そんなこと今関係ないでしょ?!もう限界……発狂してるもん!頭おかしくなるよ!一人だけ逃げて。あんたに言ったたって無駄だよね。他人に言った方がマシ。聞いてないでしょ。別にさ、『大変だね』なんて言って欲しいわけじゃないんだよ。一人でいいから理解してくれる人が欲しい」

わたしのプライドも、残っていた希望も、ずたずたに打ち砕かれた。答えを得るどころか、母の怒りを増幅させた。

だが、もう問えない。

再び怒りに火をつけるのが嫌なのではない。

「きらい」という答えを聞きたくなかった。

消え入りそうな声で「うん、そうだね」と繰り返す。普段より長い苦境が終わった時には、真夜中になっていた。

母にわたしが好きかを聞けないまま、それからの記憶は残っていない。だが、それは救いでも喜びでもない。


何を言われたかを覚えることが出来ないほどわたしは狂ってしまっていた。


痛みだけが残る。


記憶の残滓すらない中、

わたしに残されたのは痛みだけ。


もう、夜になりたくない。

もう、母の声を聞けない。


廊下の奥から、微かな衣擦れの音が聞こえる。母が寝室へ移動する音だ。その音が遠ざかると、家の中は、まるで時間が止まったかのように静まり返る。

もう、この一時の安堵すら、感じ無くなっていた。

窓の外では、雨が降っているわけでもないのに、湿った夜の匂いが漂ってくる。それは、どこかふるい井戸の底のような、ひんやりとした匂いで、わたしの胸の奥を静かに締め付ける。

寝室のドアの向こうから、時折、小さなため息のような音が聞こえてくる。

それがわたしを責め立てるようで、先程の強い感情が襲ってくる。


母は、まだ眠れないのだろうか。それとも、何かを考えているのだろうか。


わたしには、知る由もない。

ただ、夜の闇が深まるにつれて、家全体が、微かに震えているような感覚に襲われる。それは、地震のような激しい揺れではなく、もっと微妙に、僅かに存在する震えだ。まるで、家そのものが、何か重い感情を内側に抱え込み、耐えているかのようだ。わたしも、その家の一部だ。


わたしは、自分の部屋のベッドに横たわり、天井を見つめる。天井の隅にできた小さなシミが、闇の中でぼんやりと浮かび上がっている。そのシミが、まるで遠い星のように見えて、わたしは一人、世界の片隅に取り残されたような気持ちになる。

父が最後に残した空気は、まだこの家に漂っている。いや、母がそれを消さないようにしている。父の残した何かが、間接的にわたしをくるしめる。それは、言葉にできないほどのおもさを持ち、呼吸が浅くなった。


あの時、父の心の中には何があったのだろう。母が変わったのは、いつだったのだろう。

分からない。気づけば、優しかった母はわたしを苦しめる存在に変わっていた。


夜の静けさの中で、わたしの思考は深く沈んでゆく。



この家を包む見えない圧力の全ては、ばらばらのようでいて、どこかで繋がっているような気がする。

しかし、その繋がりが何なのか、わたしにはわからない。知るのも恐ろしい。そんな勇気は、わたしにない。

明日が来るのが怖い。これからも生きているのが怖い。死にたい訳では無い。生きるのが、怖い。

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