離婚された過労妻、タイムリープして楽しむスローライフ【1400pv感謝!】
ふゆ
1.突然の朝
「離婚してくれ。リディア」
朝陽が差し込む台所で、夫は静かにそう言った。
危うく包丁を足に落としそうになる。
左手で鍋をかき回し、右手で果物を刻んでいた時のことだ。
「……え?」
夫に手を引かれ、抗う間もなく馬車に押し込まれる。
黙りこくったまま対面に座る夫。
隣には執事のノイン。
このまま路頭に放り出されるのだと、私はようやく気がついた。
「説明してください!」
「自分の胸に聞け」
夫――ヴァルディスは、ダークグレーの髪をかきあげ、断ち切るように視線を外した。
自分の胸にって……。
働き詰めて五年間。
離婚される理由なんて全く思い浮かばない。
一つあげるとすれば、村中の噂になっている彼の浮気疑惑だ。
彼女と一緒になるつもりなのだとしたら……。
「……!」
心臓が激しく鼓動を打った。
怒鳴ってしまいそうな自分を抑えて、深く息を吸う。
落ち着いて私。22歳の小娘とも言い難く、お局にもなれない微妙な年頃だけれども、これでもグレイモア家の女主人、村の顔役でしょう?
「あ、もう皆畑に出てる! 今すぐ引き返して。村の働き手二十人分のお昼の用意始めなきゃ!」
「話を聞いてらっしゃいましたか? 奥様」
笑いながら迫ってくるノイン。
口角は上がっているが、その目は笑っていない。
「あなたはもう、グレイモア家に関わる権利はないんですよ」
目つきの鋭い旦那と、微笑む執事。
二人とも長身で、箱型の馬車の中で圧迫感が凄い。
「落ち着つくのはあなた達の方よ」
それでも気圧されてる場合じゃないわ。
「畑の管理はどうするの? お義母さんのお世話だって……あ、こんな時間! ああもう、朝食作ってる時に、離婚なんて話するから」
「リディア!」
ヴァルディスの大声に思わず背筋が伸びる。
「君が気にすることじゃない!」
言ってから、深くため息をつき、
「お前がうちのことを喋るのは……もうたくさんだ。聞きたくない」
馬の蹄の音、木組みの車体が軋む音。
私だって、家のこと心配してる場合じゃないのは分かってるわよ。
でも、何か言わないと、押し潰されそうで。
「着いたぞ……」
馬車を下ろされ、彼は茶色の革袋を差し出した。押し付けてくるので仕方なく受け取る。
「好きに暮らせ」
「待って! あなた、本気で私を置いていく気――」
「おれはもう、お前の旦那じゃない」
ヴァルディスの昏い瞳に息をのむ。どうしてか、苦しそうで。
何かを言いたそうに口を開き、断ち切るようにぎゅっと唇を引き結んだ。
強く、扉が閉められる。
馬が石畳を蹴る音が小さくなっていく。
足元には、ご丁寧に荷造りされた革張りのトランクが一つ。
噴水のすぐ近く。二匹の小鳥が戯れるように遊んでいた。
よろよろと私が座るとけたたましく飛んでいく。
革袋を開くと、喉が鳴った。
「なに、このお金」
現金だけで100万ランドはある。
小切手も入っていた。財産分与に近い額だ。
「へぇ……本当に本気なんだ」
袋を持つ手が震えていた。
最後に突きつけられたのは、愛でも現金でもなく、現金だった。
夫婦仲はそれなりに良いと思っていたのに。
この間だって、一晩かけてあの人の作業着を縫ったのに……
何も言われずに捨てられるようなこと、私絶対にしていない!
どれくらいそうしていたのか覚えていない。
青い空、太陽が真上に昇り、落ちていく。
石畳の旧市街広場、行き交う人々は忙しそうで、私を振り返ることもない。
たまに盗み見るように、くすっと笑う女はいたけれど。
こんな褪せた色のワンピースで呆然と佇む女がいたら、それは見てしまうかもね。
あははは!
……何してるんだろ、私。
「帰ろう」
立ち上がる。
旦那が何を考えていようと、村の仕事は私がいなければ回らない。お隣の退役軍人のお爺さんへの食事の用意だって誰もしない。
一日なら多分大丈夫。
でも、村の顔役が二日もあけたら大変なことになるんだから。
トランクを持つと、ぐらりと眩暈がした。
あれ?
なんだか視界がぼやけている。
頭を振ってもう一度前を見た。
どん、と腰に何かがぶつかる音がした。
肩越しに振り向くと、掌からふっと重みが消える。
「えっ」
革袋がなくなってる!
ボロを着た少年の背中が、あっという間に人混みに紛れていく。
「待って!」
追いかけようとしたら、誰かに背中を押された。
石畳に激しく額を打つ。鈍い音が頭中に響いて、呻きながら顔を上げた。
トランクが、なくなっている。
「あ、うそ!」
首を回す。別の少年が、私のトランクを持って走り去る後ろ姿。
「……」
溢れてくる涙を、目を見開いてとどめた。
泣いてはだめ。
私が不幸がどうかは私が決める。
貴族の身分を捨てて駆け落ちをして、職人の旦那を支えて。働き詰めて。
挙句、浮気されて放りだされて、無一文になったのだとしても。
私の人生は――
「……うぅっ……くっ」
勝手に喉から声が漏れた。
「きょっ……今日を迎えるために! 私、頑張ってきたんじゃないんだけど!?」
叫んだ瞬間、ぎゅっと心臓が縮んだ。
「あれ……?」
怖くなるほど鼓動が早い。視界がしぼむように狭くなっていく。
そして。
世界は真っ暗になり、次に目を開いて見たのは、いつものベッドの上の天井だった。
* * *
「え……?」
鳥の声がする。
夫がリディと名付けた、瑠璃色の可愛らしい野鳥。
窓から届く木の枝に、いつも彼が餌を仕込んでいるのを覚えているのだ。
全身が汗でじっとりと濡れている。
ああ、そっか。
全部夢だったんだ。
「恐ろしいほど、リアルな夢だったわ……」
起き上がって、琥珀色の髪を束ねる。
朝食の準備。いつも通りの私の忙しい朝。いつも通りの。
背後でドアの開く音がする。
「おはよう。ヴァルディス」
「離婚してくれ。リディア」
*
「どういうことなの一体!?」
相変わらず喋ろうとしない旦那に――ではなく、馬車の窓に向かって私は叫んだ。
……もしかして、あれは予知夢だったの?
「自分の胸に聞け」
あなたには言っていませんが!?
なんでそんな台詞、二度も聞かなければいけないの。
「お弟子さんのステファニーとは、どういう関係なの」
ヴァルディスの目がわずかに見開く。
言ってやった。少しすっきりしたわ!
「師弟関係」
「……ふ、ふぅん。この間、あの子に『おばさま』って呼ばれましたけど? 本当にただのお弟子さんなんですか?」
「……」
「あなたが私のベッドに来なくなって久しくなりますしね?」
ヴァルディスは大きくその目を見開いた。
良かった。
『浮気してるからじゃない?』とまでは言わなくても十分伝わっているみたい。
それにしても、目の大きさで会話できると思わないでほしいわね。どうして喋らないのかしら。
「それより村のことですけど、私は食事の準備をしなきゃいけなくて――」
ヴァルディスはおもむろに天井から下がっている紐を引っぱった。
次の瞬間、天井に取り付けられたパイプから蒸気が吹き出し、狭い車内の空間を満たした。
彼の顔が曇りガラスを通したようにぼやけていく。
「えっ……ちょっと!」
声が反響して自分の耳にすら届かない。
精霊家具の技士であるヴァルディスだったら、馬車に仕掛けを作るのは簡単でしょうけど、まさかこんな時に使うとは思わなかったわ。
またしても市庁舎前広場で下ろされて、昼に至る。
「…………………………ほ」
握った拳が震える。
「ほんとにもう! 都合が悪くなるとすぐ黙るんだから!」
別れる時くらい。ちゃんと目を見て話してほしかった。
「……っ」
ごしごしと手の甲で目を拭く。
泣いてはだめ。
はっとなって辺りを見回す。
そう言えば、予知夢ではここで暴漢に襲われたのだ。
今のところ、あの夢通りに進んでいるから、もしかしたらこの後も……。
すぐにこの場を離れなければ。
「あれ?」
そう思っていたのに、足が動かない。カタカタと震えたまま。
ボロを纏った少年が通行人を物色している姿が見えて、心臓が鷲掴みにされる。
嘘でしょう。どうしよう。
もし、見つかったりしたら――
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