雨の残像と歩く
くぬぎなお春
雨の残像と歩く
東京の名門大学の法学部に入ったのは、多くの法学生と同様、法律への情熱に駆られていたわけでも、正義に燃えていたわけでも、決してない。僕の場合、単純に”地元から逃げ出したかった”からだ。
弁護士である父は正論という石礫で殴るような人で、僕はいつも言い返せないまま反発をくすぶらせていた。ただ、「法学部に進んだらどうだ」という半ば強制的な助言は、渡りに船的な逃走のチケットとして、父の意図とは違う意味で利用した。
これといった地場産業もなく、駅前の小さな商店街はシャッターが錆びて固まり、先が見通せない町を、そのようにして出た。もうここに住むことはないだろうとなんとなく予感していた。
東京に出てきて最初に印象的だったのは空の狭さだった。ビルの間に切り取られた空は、自分が持つ可能性の幅を測る定規のように細かった。
大学の講義は拷問レベルの退屈さだった。教授は睡眠導入実験のように民法を読み上げ、学生たちはそれをノートへと写経する。中には教室の後ろの方で漫画雑誌を広げる猛者もいたけれども、彼らの方が人間味があった。
僕はといえば、ノートの端に小さなサボテンを描いたりしていた。砂漠に生き、雨が降らなくても平気な顔をしているのが羨ましい。
ゼミの空気も重苦しい。皆、将来のキャリアの話を真剣にしている。”検察官志望が”とか”国際弁護士が”とか、将来の青写真を自慢げに広げ合っている。僕はそれらしい顔をして「まあ、まだ考え中」なんて言うけれど、本当は何も考えていなかった。
そんなある日、ゼミが終わった廊下で「崎山くん」と話しかけてくる女の子がいた。
「このあいだ休んだから、ノートを貸して欲しい」
セルフレームの眼鏡にボブカット。深津みゆきはいつもゼミでは先生の隣に陣取り、その時間ずっと集中していて、時に鋭い発言をするなど、顔立ちのかわいさを差し引いてもゼミ内で注目されている存在だった。たぶん、彼女と話した覚えはなかった。
「もっと熱心なやつから借りた方がいいよ。僕のはいい加減だし」
「いいの。あなたの”いい加減さ”の度合いから知りたいかな」
僕らは自然と並んで歩きだした。校舎の階段を下り、美しく手入れされた中庭の芝生を横切るあいだも一緒にいるものだから、さすがに立ち止まって僕は尋ねた。
「どこに行くの?」
「あなたはどこに行くの? お昼でしょ。いっしょに食べようと思って」
強引だが、彼女の人懐こい笑顔はそれを不思議と許してしまう力を持っていた。まるで僕とは違う時間軸で生きているようなひとのテンションだった。彼女と並んで歩くのは、いい感じだった。
僕は毎週、この退屈なこのゼミのあと、駅近くのダイニングバーでランチを食べることがルーティーンだった。とくべつ美味しいわけでも、店員の愛想がいいわけでもないが、習慣とはそう言うものだ。
「そのお店、行ったことない。気にはなってたの。天井に傘がいっぱい吊ってあるんでしょ」
そう言う彼女に引っ張られるように同行する。そんなに気になってるなら、とっくに行けばよかったのに、と思った。
二階の店に続く細い階段をのぼり、店の扉を開けると、
「おっしゃれ~」
彼女は目を輝かせた。
レンガの壁に広がる店内に、天井のランプそれぞれに淡い色の小さな傘が逆向きに吊られてランプシェード代わりになっている。掃除が大変そうだが、いつも傘の底には埃一つ溜まっていない。傘の装飾は通りからは見えないので、彼女は誰か友達から店の話を聞いたことがあるのだろう。
通りを見下ろせる窓際のテーブルで、僕はエビのクリームパスタを、彼女はラザニアを頼み、コブサラダをシェアした。
料理を待つあいだ、「出身どこ」「友達いないの」「兄弟は」「どこら辺に住んでる」と、みゆきの質問が続いた。「なにかの勧誘だったら当てはずれだよ」と言うと、「崎山くんって、おもしろいね」と、天井の傘の淡いオレンジ色に染まった彼女が屈託なく笑う。
「深津さんもなかなか”おもしれー女”だよね。いつもいっしょにご飯してる友達は、今日はどうしたの」
「さあ。いっしょにご飯食べたいひとはわたしが選ぶから。なに? わたしのこと見てたの?」
「見てたっていうか……視界にいた、みたいな?」
「ふうん。あのゼミ、他にもかわいい子多いのに、わたしに目をつけるなんて、見込みがある」
「ええと、話をちゃんと聞いて。君はじゃあ、どうして僕に声をかけたの」
「ゼミの最初のほうに、居酒屋で懇親会があったでしょ」
僕はあまり覚えていないが、そこで周りの喧騒をよそに僕は、とろほっけの塩焼きをとても綺麗に骨を残して黙々と食べ続けていたらしい。その姿が印象的で、いつも僕の顔を見ると思い出していたのだという。”おもしれー男”だなって、と彼女は付け加えた。
料理が運ばれ、彼女は綺麗に食べ終えると、これからどうするの、と当然のように聞いてきた。
「帰って寝るかな」
「寝るんかい。だったら映画に付き合ってくれない? 観たいのがあって」
「何が”だったら”なのか分からないけど。映画か。僕、すぐに眠くなるんだよ。映画館の暗闇ってどうもね」
「じゃあ、隣で寝てていい」
「それ、いっしょに行く意味ある」
「映画は誰かといっしょに行くものでしょう」
「ふうん。いいよ。どうせ暇だしね」
映画は一人で行ってもいいと思う。もっとも、上映中に九割がた寝てしまう僕が言うことでもない。
彼女が選んだのはアメリカのアクションSF映画で、エージェントが寝ている他人の夢に潜り込み、精神を操作するという筋書き。初公開は少し前だが、再上映らしい。インパクトのある映像がふんだんにあり、退屈しなかった。
映画館から出ると、彼女が、
「寝なかったんじゃない?」
「そうだね。僕史上、快挙だ」
「わたしの勝ちで」
「勝敗の基準が分からないんだけど」
「まず一勝」
「まず、ってどういうこと」
そのあと、映画館の入ったビルのカフェでお茶をしたあと、また映画付き合ってよ、と彼女は言い残し、夕方からのバイトへと去っていった。満足そうだったので、まぁ、よかったんだろう。僕も、知らず知らず日々に堆積する澱みたいなものがほんの少し洗い流された気がする。
同じビルの書店でしばらく本を物色したのち、家への帰り道、にわかに空が暗くなり、大粒の雨が降り出した。傘は持っていなかった。家までもつかと思ったが、雨足は勢いを増して僕のスニーカーを中までびしょ濡れにし、次の交差点が霞むぐらいになってきた。
みるみるあちこちに浮き上がる水たまりを避けつつ駆けていたら、レンタルDVDショップの前を通りがかった。チェーンの大型店ではなく、個人経営の小さなショップらしかった。近所なのにこんな店があったことを知らなかった。
冷やかしというわけじゃないが、雨宿りぐらい許されたっていいだろう。と思ったら、ガラスドアに”CLOSED”の札がかかっている。しかし店内は明かりがついていた。試しにドアを押すと、きい、と秘密の箱を開けるような小さな軋み音とともに、あっけなく開いた。
足を踏み入れた店内は、両手を真横に伸ばした二人がかろうじて並べる程度の幅で、奥行きは割とある。天井までのスチール棚がひしめき合うDVDのパッケージを抱えて奥まで向かってずらりと並び、棚の間は人とすれ違うのもやっとなぐらいだ。そのおかげで、天井には蛍光灯が灯っているが、店内は薄暗い。
棚の間から見える店の奥のカウンターに、店名入りのエプロンを着けた女がいた。広げた雑誌に目を落としていたが、こちらを一瞥すると、すぐにまた雑誌に戻った。見た目で、というよりぱっと見の佇まいで、僕よりいくらか年上に感じた。
「あの、やってますか」
店の奥まで届くよう少し張った声で尋ねると、彼女は再び顔を上げ、
「いらっしゃいませ。どうぞ」
抑揚が乏しく静かな声なのに、すっと耳に届く、不思議な存在感のある声だった。
僕はその声に甘えるように、雨が止むまでここに身を置くことにした。
僕のほかに客の姿はなかった。外では滝のような雨が降っているはずなのに、店の中ではそれが遠い別世界の出来事のように感じられた。代わりに耳に届くのは、古い冷蔵庫の低いうなりのような空調の音だけだった。
並んでいるパッケージの中には、映画に詳しくない僕でも知っているヒット作もちらほらあったが、多くは知らないものだった。何気にパッケージを一つ手に取ると、三十年ほど前の北欧の映画で、湿地の真ん中で炎をあげる家の写真が使われていた。裏面にスタッフ、キャストの名が並ぶが、誰一人知らない。この場で目にしなければ、たぶん一生目にしなかった名前だ。
ふと気づいたのは、他のレンタル店のように並びがジャンル別、国別などではないことだった。ばらばらに並んでいるが、何か規則性があるのだろうか。
しばらく棚の間を歩く。視界一面のDVDの背表紙の並びが迫ってきて、視線が泳ぎはじめ、少し酔った気分になった。そのときだった。
「何かお探しです?」
いつの間にかカウンターから出てきた店員の女性から声をかけられた。
端正な顔立ちに、肩ぐらいまでの黒髪を外に跳ねさせている、ショートウルフカットというのか。みゆきよりも少し華奢で、大人に見える。
「ああ、いえ、なんとなく見ているだけで」
「そうですか。また気軽に声かけてください」
「この並びの順って、もしかして適当なんですか」
「適当です。たまたま手に取ったものと出会うのも、おもしろいでしょ」
「はあ…なるほど…」
それはそれで分かる気もするが、借りるほうにとっては不便じゃないかな。そう思いつつ、僕は軽く頭を下げる。そしてカウンターに戻りかけた女性に、あの、と声をかけた。
「きょう観た映画と同じ監督の作品があれば、と思って」
映画の題名を伝えると、彼女は迷いなく棚の奥へと消え、波間から目当ての貝殻を拾うみたいに一本を取り出してくると、「おすすめはこれかな」と僕に差し出してきた。「わたしの好みだけど」
すぐに記憶を失う男が主人公のサスペンスで、物語は時間を遡るように語られていくという。人の意識のあり方に興味のある監督なのかもしれない。
「ややこしそうですね……伏線とかすぐに見落としそう」
「適当に見ればいいです。分かるぶんだけ分かれば十分。そもそも人間の記憶なんていい加減なものだし」
「そういうものですか」
「うん。それに、いい映画ってお話があまり分からなくても、ちゃんと面白い」
なるほど、見てみたくなってきた。
「じゃあ、会員証を……」
「うち、そういうのないから。入会金とかもいらないし」
そんなことってあるかな。だったら貸出料金が高いのかと思ったら、一週間で二百五十円だという。
「みんな、借りても返却しないんじゃ……」
「別に、それならそれで」
要領を得ない顔をしていると、彼女は事情を話してくれた。
もとは親戚がやっていた店だったが、ある日突然彼らがいなくなり、とりあえず自分が店長兼従業員をしている。店を畳みたいが、まだしばらく色々な整理で時間がかかるようで、ちょうど自分は映画好きだし、暇だったし、レンタルで少しでも小銭が入るかもしれないし、返却されなかったら処分の手間がほんの少し省けるから、と。ちなみに今日の”closed”の札は単にひっくり返し忘れていただけだそうだ。
納得できるような、できないような話だった。親戚が急に、とか気味が悪い。けれど、この店にはこの店の事情とルールがあるのだろう。まだ世の中のほとんどのことを僕は知らないのだし。
結局僕はすすめられたDVDを借り、二百五十円を支払った。
「どうも。気が向いたらまた返しにきてください」
そう言って、彼女は店の名前がプリントされたビニール袋に入れて渡してくれた。
「一週間以内に返しにきます」
そんなことを言われたのは初めてだ、とでもいうように目を瞬かせ、彼女は曖昧な笑みを浮かべて、
「そう。じゃあ、お待ちしてます」
ガラスドア越しに外の様子を伺うと、雨は上がっているようだった。
どのぐらいここにいたのだろう。壁の丸い時計に目をやると、長針も短針もなかった。こういうインテリアなのだろう、きっと。
*
僕がその店を再び訪れたのは三日後のことだ。大学の帰りの夕方で、バックパックの中には借りたDVDと、天気予報が当たった時に備えて折り畳み傘も忍ばせていた。
「おもしろかったです」
カウンターにDVDを入れた袋を置き、あの女性店員に言った。
「そう。よかった」
「話が全部は分からなくても面白い、という意味、わかりました」
「うん」
「映画、詳しいんですね」
「まあまあ、かな」
「じゃあ、なにかおすすめありますか? お姉さんの目利きを信頼して」
「黒川です。黒川麻子」
「え?」
「わたしの名前」
「ああ、じゃあ黒川…麻子さん。僕は崎山司といいます。会員証ないと名前も分からないですよね」
「そうね。じゃあ崎山さん、今後も当店をご贔屓にお願いします。ああ、ええと、おすすめ映画だっけ。おすすめ映画って、映画好きにとって厳しい質問なんだよね。一本選ぶということは、他のすべてを選ばないということだから」
「なんか、大きな話ですね」
「そういうこと。人生と同じ。選ぶことは、同時に選ばないことでもある。逆に選ばないのもまた、選ぶことでもあるし」
当たり前と言えば当たり前のことだが、そんなふうに改めて言われると、人生における大きな秘密のように思えてくる。麻子さんは、そういう秘密をひっそりと知っていそうな不思議な雰囲気をまとっている。
「あ、それで、おすすめはね、崎山さんがどんな感じの映画を見たいかを教えてくれたら、いいものをすすめられると思う」
「診察と処方みたいですね」
「そうだね。じゃあ次の方どうぞー」
麻子さんは、カウンターの向こうで診察室のドアを開けて次の患者を呼び込むふりをする。僕も話を合わせ、神妙な患者の顔で会釈して話しだす。
「お願いします。それじゃあ、ええと、将来に対する展望や夢がなくて、毎日が退屈な男子大学生に効く映画が見たいです」
「まるで自分のことみたいに具体的だね」
「そうですね。まるで僕のことみたいに」
麻子さんは店の入り口近くの棚から一本取り出し、持ってきてくれた。
「タイトル聞いたことないかな。イギリスの映画でね、結構はやったんだけど」
単館系としては大ヒットした映画だそうだ。もちろん僕は題名すら知らなかった。
料金を払ってDVDを手に店を出ると、雨が降っていた。僕は迎え打つような気持ちで傘を差し、家路についた。
借りた映画はあまり好みではなかった。ドラッグに溺れている若者が更生しようとする物語で、映像が凝っていたが、トイレのシーンの汚さがつらかった。それに何より、登場人物たちの行動に度々いらいらした。
後日、DVDを返しに行ってそんな感想を伝えると、確かにあのトイレはきつい、と麻子さんは薄く笑った。彼女の笑顔を見たのは初めてだったかもしれない。深い色をたたえた水面に花びらが一枚ふわりと落ちてかすかな波紋を描くような、静かな笑顔だった。
「でも、いらいらしつつも最後まで見ちゃったんでしょ。それなりに刺さったってことじゃないの」
「そういうことなんですかね」
「どんな人生にも、落ちていく人生にも、輝きはある、みたいな」
「うーん」
僕は首を傾げる。輝きか。
*
夏休みに入ると、僕は近所のコンビニでバイトちょくちょくバイトをしながら、たまにそのレンタルDVDショップを覗いた。
その夏は妙な天気が続いた。しとしと降り続けるかと思えば、急に土砂降りになるなどして、テレビのニュースでは農作物への影響を伝えていた。僕がDVDショップに行くときも、たいてい雨だった。まるで店までの道筋だけが雨雲にマーキングされているみたいに。
不思議なことに店ではいつも僕以外に客の姿はなかった。僕以外には店が見えていないんじゃないかと疑いたくなるほどに。だから、カウンターで暇を持て余している麻子さんと、僕は気兼ねなく会話ができた。他の人を雇うと思い切り赤字だし、自分が外出したり食事の時には店を閉めればいいから、ということだった。結局、店で出会った人間は彼女一人きりだった。
店にDVDを返却するのと、麻子さんにおすすめ映画を訊いて借りるのは、いつもセットだった。思い返すと、映画を借りるのと同じぐらいかそれ以上に、麻子さんと話す時間が欲しかったのだと思う。
「自分に気がある女の子がいて、自分がその子にどう接したらいいのか分からなくて…という友人がいるんですけど、そんな彼にすすめられる映画ってありますか」
あるとき、そんな僕のリクエストに麻子さんが差し出したのは、ヨーロッパの列車で偶然出会った若い男女がある街で降り、一晩じゅう散歩し、結ばれ、そして別れる、というロマンティックな映画だった。淡々としているのに、最後まで目が離せなかった。
「ずっと二人だけの会話が続くなんて、こんな映画もあるんですね。とても雰囲気があってよかったです」
「でも大事なのは沈黙のシーンだったりするのよね。沈黙で二人を結びつくか、そうならないかが分かる」
映画のなかで思い当たるシーンがあった。最初のほうにある、とくに見入ってしまったシーンだ。
「そのモテモテの彼にもそんなことを意識してみたら、って伝えておいて」
麻子さんは口元にわずかに悪戯っぽさを浮かべて言った。
みゆきとは何度か誘われてデートしていた。ショッピングに付き合ったりもするけど、そういえばみゆきとはほぼ四六時中会話を続けている気がする。もっぱら話題を振るのはみゆきだし、彼女がそもそも話好きというのもあるけれど。まるで泳ぐのを止めると死んでしまう魚のように。
「今日は何か借りる?」
「そうですね。じゃあ……父親に将来の期待を寄せられて、ありがた迷惑なんですけど……っていう友人がいるんですけど、そういう彼にすすめられる映画って何かありますか」
麻子さんは細い顎に手をそえて少し考え、ふと、まっすぐに僕の顔を見て、
「長いのと普通ぐらいの、どっちがいい?」
「普通ぐらいのほうで」
ほんの短い間でも見つめられて、どきりとした。何かを見透かされているような、でも、いっそ自分の浅い底まですっかり見透かして欲しいような、そんな視線だった。
麻子さんはくるりと背を向け、棚の間をなめらかに泳ぐように歩いていき、下段の棚から取り出した一本を僕に差し出した。
「これはどうかな」
青空を背に、両手を広げて天を仰ぐ男の姿が写っていた。濃いドラマを予感させた。
「じゃあ、これにします」
「はい。二百五十円」
財布に小銭がなく、千円札を差し出す。麻子さんは受け取ってレジを開け、釣り銭を数える。例によってレシートも貸出票もない。釣り銭とソフトが入った袋を受け取ると、僕は尋ねた。
「お店を畳む話、進んでいるんですか」
「さあ。まだ話は聞いてないけど、急にそうなったりするかも。ある日店がなくなってたら、もう返さなくていいから」
「いきなりそうなると、なんだか寂しいです」
「そうなったら、見たい映画は自分で探すしかないよね」
すると麻子さんはどこへ行くんですか、とほんとうは訊きたかった。しかし、踏み込むのはためらわれた。そんなことを聞けるほどの間柄ではないと思ったし、聞いてはいけないような気が、なぜかした。
「雨、強くなってきたけど、大丈夫?」
ガラスドアの向こうの見ながら麻子さんが尋ねた。
予報では降水確率は低かったが、店に入る寸前に小雨が降り出し、いまは雨の糸が太く揺れている。僕は手ぶらだった。
「うち、この近所なので」
「傘、貸すよ」
貸してもらったのは、落ち着いた紫色の傘だった。自分では選ばない色だが、持ってみるとしっくりきた。次はソフトと傘を返しにきます、と言って店を出た。
その日借りた映画は、ピアニストになるべく英才教育を受けた男がやがて精神を病んでいくという物語だった。いくぶん身につまされる内容だった。
相変わらず法律家になることに興味は湧かないが、それは父親への単なる反発なのかもしれないと、すこし思うこともあった。いつか受け入れて、身を入れるような時が来るのだろうか。父親と正面から向き合う時が来るのだろうか。実家のダイニングで黙って新聞を広げ、無表情でビールを飲む父親の姿を思い出す。その威厳がどうしても僕は苦手だった。父からあまり話しかけられることはなく、僕からもそうだった。
*
みゆきとは恋人なのか、ただの友人なのか、あるいはそのあいだを行き来しているのか、はっきりしない関係が続いていた。
彼女といると上質な綿のシーツに包まれているみたいに心地よかった。とても柔らかいけれど、時に湿気を吸って少し重たく、息苦しさが気になる種類のものだった。
彼女はよく喋った。バイト先の先輩の癖の強さや、最近読んだ小説の登場人物がいかに優柔不断か、とか。僕は彼女の話を聞くのが嫌いじゃなかった。たまには司くんの話も聞かせてよ、と言われたが、特に話すようなことを思いつかなかった。だからと言って、つまらなそうにはせず、彼女はまた自分の話を続けた。麻子さんのDVDショップの話をしようか一瞬迷うことがあったが、口にしなかった。取るに足らない話だと思ったし、何かしら後ろめたさがあったのかもしれなかった。
数日後、みゆきと街を歩いているとき、彼女が今度僕の部屋に来たいと言った。いいよ。僕は答えた。よく晴れた、いかにもな夏の日だった。巨大な綿菓子のような入道雲がビルのあいだの遠い青空に膨らんでいた。
近くの公園から聞こえてくるヒグラシの鳴き声を聴きながら、約束の時間よりも早めに最寄りの地下鉄の駅まで迎えに行くと、すでに彼女は地下への通路の前で日傘を差して立っていた。片手には高級スーパーの袋。買い物をしていくと言っていたが、思ったより早く終わったらしい。
「お邪魔します」
僕が住むワンルームに入ると、「ずいぶんすっきりした部屋だね」と彼女は感心したように言った。「男の子の部屋って、もっとがさがさとしてるものだと思うけど」
読んだ本はすぐに処分するし、勉強関係の本は最低限、物が増えるのが嫌な僕の部屋にはテレビとDVDデッキ、すのこに敷いたマットレス、ローテーブルぐらいしかなかった。
みゆきはキッチンに立ち、タコライスを作ってくれた。食欲をそそるスパイスの香りが部屋に広がった。
おいしかった。「タコは入ってないの?」と訊くと、爆笑された。てっきりタコの炊き込みご飯の類だと思っていた。
僕が先に食べ終わり、合掌して、
「ごちそうさまでした。料理、うまいんだね」
「おそまつ様でした」
みゆきが芝居がかった調子で深々と頭を下げたあと、「玄関にあった傘」と、スプーンを手にしたまま彼女が言った。セルフレームの眼鏡の奥の瞳がわずかに揺れていた。
「うん?」
「司くん、あんな色の傘選ぶんだ?と思って。黒じゃないほう」
「知り合いのなんだ。返しそびれてて」
それ以上、彼女は聞いてこなかった。嘘は言っていない。ただ、心のどこかで嘘よりも重い沈黙を抱え込んだ気がした。
食べたあと、二人で並んでマットレスに座り、テレビを見ていた。ニュースでは南米の鉱山で落盤事故が起き、作業員たちが閉じ込められていることを報じていた。無事であってほしい、と、まるで親戚が事故に巻き込まれているような祈りの表情で彼女は言った。
そのあとバラエティ番組に切り替わり、こっちのテンションを置き去りにして芸人たちが騒ぐ様子に興味を失っていたら、彼女も同様なのか、部屋には沈黙が降りてきた。
沈黙を埋めるように、彼女の手が僕の膝に触れた。柔らかく、湿り気を帯びた体温が伝わる。求められるままにキスをし、そのままセックスに流れた。
積極的な彼女のやり方に、途中からテレビが発する喧騒は遠のいていた。
みゆきは着痩せするタイプのようだった。抱きしめたり、抱きしめられたりするだけで、朝の凪のように静かな安らぎが心に広がった。
体はそれなりに馴染み合った。彼女はじきに僕を気持ちよくするこつを得て、僕も彼女が弱いところを探り当てたときの反応を見抜いた、と思う。
終わったあと、僕は夜の天井を見つめていた。静寂のなか、胸に頬を寄せたみゆきのゆったりした息遣いだけが聞こえる。時折前の通りを車が通ると、窓の形に切り取られた明るさが天井を滑った。
いつしか、耳のなかで雨の音が蘇っていた。つられるように、雨で霞んだなかにレンタルDVDショップがぼんやりと浮かんでくる。雨音は激しくなってくる。周囲は薄墨をぶちまけたように暗く、もはや店の輪郭は頼りない。あの店に麻子さんはいるのだろうか。矢のような雨がさらに激しさを増す。僕以外の風景が塗りつぶされていく。おびただしい雨の線に囲まれ、豪雨が続いているのか、雨の粒の中をものすごい速度で僕が上昇しているのか分からなくなる、めまいのような感覚。
「司くん」
声に、一気に引き戻された。
「大丈夫?」
「うん…?」
みゆきが体を起こし、僕の顔を覗き込んでいた。
どこかに吸い込まれそうになるのを間一髪で引き上げられたような、めまいのような一瞬だった。
「なんかぼーっとしてたから。考えごと?」
「考えてたわけじゃなくて……」
急に頭の中に浮かんだビジョンをどう説明したものか。僕は答えを考えるのが億劫になり、代わりにみゆきを抱き寄せた。
「もっかいする?」
悪戯っぽい笑みを浮かべるみゆきの誘いに僕は乗った。というより、乗り気じゃなかった体も心も、みゆきがすぐにその気にさせてくれた。それでも頭のなかでしばらく雨の音は響いていた。
夏休みが終わっても、僕は麻子さんの店にときどき通っていた。部屋にはいつも麻子さんの店で借りてきたDVDがあった。NYの型破りな刑事がフランスの麻薬組織を追い詰める映画。未来の超監視社会で役人の男がちょっとした人違いから大事件に巻き込まれる映画。内容を話すと、司くん、こういう映画好みなの意外、とみゆきは言った。僕も、自分がこんなに映画好きだとは知らなかった。
*
「いらっしゃい」
「こんにちは」
「こんにちは。きょうは湿気てて蒸し暑いわね」
訪れたある日、珍しく麻子さんは髪を後ろで束ねて前髪を上げていた。ふだん隠れている額があらわになり、しっかりした眉のラインと瞳の強さが際立って見えた。けれど、不思議と僕に向ける表情は以前よりはいくらか柔らかくなっているようにも思えた。
「こんな、同じ日をコピペしたような毎日に意味なんてあるのかな、って悩む男子大学生におすすめの映画ってありますか」
最近はもう、店に来る道すがらに、どんな質問をすれば、映画ソムリエの麻子さんがどんな映画を選んでくれるか、そればかり考えるようになっていた。
麻子さんは「それなら」と顔を上げたあと、「ああでも」と、ふっと俯いた。
「これは、って思いついたやつ、ちょうど貸し出し中なのよね。すごくお気に入りなんだけど」
「どんな映画なんですか」
「嫌な感じのお天気キャスターの男が同じ一日を延々と繰り返す話。でも、だんだん彼の心のありようが変わってくるの」
「へええ」
「貸せないのが残念だな。もし返却されたら電話するから、番号を教えて。期待せずに待っていてよ」
そうだった。会員証がないのだから、僕の名前以外の個人情報を麻子さんは何一つ知らないのだ。
僕はカウンターに差し出されたメモパッドに、ボールペンで自分の名前と携帯の番号を丁寧に記した。
それから電話はかかってこなかった。麻子さんが言っていた映画が返却されるかどうかも分からないし、そもそも僕以外の客が店を訪れている様子も想像できない。それでも、麻子さんが僕の電話番号を知っているという事実だけで心が躍った。
そうこうしているうちに夏休みは終わり、大学の試験期間に入った。DVDショップに足を向けることはしばらくなかったけれども、麻子さんのことはしばしば頭をかすめた。カウンターの向こうで頬杖をつき、僕と他愛無い話をする彼女。気だるそうな口調なのに、歩く姿勢がやけにしゃんとしている彼女。
みゆきのことは好きだ。彼女にはひとを惹きつける陽性の魅力がある。僕のことを気にかけてくれるし、一緒に夜を過ごすのも心地いい。正直、僕にはもったいないぐらいの恋人だ。
ただ、麻子さんには別種の磁力があった。彼女の瞳に射抜かれると、すべてがどうでもよくなる瞬間がある。日々の色々なくびきが持つ面倒臭さをひととき忘れられる、気がする。関わることで、まだ形になっていない自分のなかの何かが動き出すような予感があった。それは恋愛なのかどうか、僕にはまだ答えは分からなかった。
*
手応えはまあまあだった試験の期間が終わり、久しぶりにあのレンタルショップを訪れると、店の前に黒塗りのセダンが一台、ぬめっとした存在感を放ちながら停まっていた。嫌な予感というのは、なぜか天気予報よりもよく当たる。僕はすぐに歩みを緩めると、電柱の影に身を押し込む。様子を伺ってみる。
ややあって店のドアが開く。
まず現れたのは、黒いスーツに身を包んだ大柄な中年男。手には、何が入っているのか、ずしりと重そうな茶色のボストンバッグが。続いて、Tシャツに金髪、両腕には豪快なタトゥーを這い回らせた若い男が出てきた。最後に、いつものエプロン姿の麻子さんが店から姿を見せ、男たちが車に乗り込むのを腕組みして見ている。無表情だが、いつもの乏しい表情とは違い、冷ややかさが漂っていた。
助手席の黒スーツと麻子さんが短い言葉を交わした。声は聞こえない。やがてセダンは低い唸りを残して走り去った。麻子さんは周囲をちらと見回し、再び店のなかへ消えていった。
いま目の当たりにした光景の意味は分からない。麻子さんの態度からは少なくとも男二人とは友好的には見えず、遠目からも緊張感が感じられた。
ただ一つ分かるのは、僕は麻子さんについてほんとうに何も知らないということだ。彼女の背後には、僕が知らない、もしかしたら一生足を踏み入れることのない世界が広がっているのではないか。そんなことを考えていたら、僕は家に帰る道を歩いていた。
麻子さんから電話をあったのは、翌日の夜だった。着信とともに”非通知設定”と携帯の画面に浮かび、僕はすぐにぴんと来た。僕の勘もたまには正しい。
「匿って欲しいの」
それが最初の言葉だった。店での落ち着いた口調ではなく、張り詰めてかすかに震えた声だった。
「突然のことでごめんなさい。崎山さんには関係のないことだし、断ってくれてもいい。ただ、こんなことを言うのはずるいけど、それでも言うけど、つまりそれだけ困っているっていうことで、ほかに頼れるひとがいないの」
”匿う”という言葉から、僕はすぐに先日の黒塗りのセダン、男たちの姿を連想した。彼らが何らかの形で関わるトラブルなのではないか。
ひとを匿う。しかも麻子さんを。
足がすくむ。
でも同時に、”ほかに頼れるひとがいない”という言葉に心のどこかが跳ねた。若さとはそういう、どうしようもない単純さだ。初めて店を訪れ、目が合ったときの麻子さんの気だるそうな表情が頭に浮かんだ。いまの彼女はまったく違う、不安で張り裂けそうな面持ちなのではないか。
ひと呼吸置いて、自分の鼓動を感じながら住所を伝える。
「ありがとう。本当に助かります。ありがとう」
「迎えに行きますよ」
麻子さんは「いいの。行くから」と言って、電話がぷつりと切れた。
彼女は一時間後に部屋にやってきた。息を切らせ、そして驚いたことに全身びしょ濡れだった。髪は頬や額に貼り付き、濡れたTシャツ越しにブラジャーのラインまで浮き出ている。そして、手には茶色のボストンバッグが提げられていた。先日、黒スーツの男が持っていたものと同じものだろうか。
部屋に入れると、彼女の周りに小さな水溜まりを作った。
待ってください、と言ってバスルームからバスタオルを取ってきた。受け取った麻子さんは無言で髪を拭き、足を拭き、それからバッグを拭いた。まるで水難事故のあとみたいに。
「ほんとにごめんなさい。急に」
「いえ、大丈夫です。何か困ってるんですよね」
「ええ……まあ。あなたには迷惑をかけない」
「風邪ひいちゃいますよ。服を貸すので、シャワー使ってください」
麻子さんはじっと僕を見つめて、「ありがとう」と言い、バッグを提げたままユニットバスに入っていった。
しばらくしてシャワーの音が聞こえてくると、部屋の湿度が濃くなった。僕はユニットバスの扉の隙間からそっと服を差し入れ、そそくさと部屋に戻った。
しばらくしてシャワーの音がやむ。そこで、レースカーテンを引いた窓越しの外の雨音に気づいた。いつの間にか降り出していたらしい。
ドライヤーの音が聞こえてきて、しばらくして止む。
やがて部屋に姿を見せた麻子さんは、僕のTシャツとジャージの下をだぼっと着ていた。華奢な麻子さんだとシャツの肩は落ち、ジャージの裾は余っている。ただ、これはこれで麻子さんに似合っている気もする。
テーブルに用意していたコーヒーをすすめると、麻子さんはテーブルのそばまで歩いてくると、力が抜けたように座り込んだ。そして「ありがとう」とだけ言って、カップを両手で包み込んだ。その表情は、部屋の前に現れたときに比べるといくぶん和らいでいた。
「雨、降ってたんですね」
「うん。すごい土砂降りだった。こっちは降っていなかったみたいだけど」
「お店から来たんですか」
「うん………走ったの、久しぶり」
たとえば通り一つ隔てた向こうが雨降りという経験は僕にもある。世界はときどき、不公平なまでに局地的だ。
麻子さんはマグカップをしずかにテーブルに戻し、僕のダボダボのTシャツの袖をすこしめくりながら、窓の外に耳を澄ませた。いつしか雨音がひっそりと部屋のなかで息を潜めていた。
「降ってきた」
「ですね」
雨音を意識すると、逆に部屋を満たす静寂が濃くなった気がした。
麻子さんは顔を上げ、僕の心の奥をさぐるような上目遣いで、
「……何も聞かないのね」
「黒川さんが話したいなら聞きます」
「聞きたい?」
「聞く権利はあると思うけど、黒川さんが話したくなければ、僕は別に……」
麻子さんは目を伏せ、小さなため息をひとつこぼす。
「崎山さんは、なにも知らないほうがいいと思う」
抑揚のない淡い口調でそう言うと、彼女は窓に目をやった。
その言葉はちくりと僕に刺さった。”境界線”を知らされた気がした。
「もう一枚のカーテンも閉めてもらっていい?」
僕は立ち上がり、厚いドレープカーテンを引いた。外と切り離されて、舞台の転換みたいに空気が変わる。
「それと……」と、次に麻子さんの視線は、部屋の隅で存在感を放ったままの茶色のボストンバッグに移り、
「そのバッグには、触らないで」
抑えた声だった。それ以上踏み込むのをあらかじめ制するような。
僕は黙って頷いた。
自分の心がどこか浮ついているのを感じる。麻子さんがこの部屋にいるという非日常感。そして、謎のボストンバッグ。知らない世界の入り口に立っているような気配は僕を怖けさせ、及び腰にし、同時に背中を押してもいた。
と、携帯がメールの着信音を部屋に震わせた。みゆきからの、明日のデートの誘いだった。僕は黙って携帯を閉じてテーブルに戻した。そのとき僕は不愉快さを感じていたかもしれない。
「返さなくてもいいの?」
しずかに麻子さんが言う。
「いいんです。今日は」
コーヒーを飲み干すと、麻子さんはテーブルに肘をつき、しばらく黙って窓のほうを眺めていた。
僕はときどき麻子さんの横顔を見ながら、自分のカップを口に運んだ。
流れる沈黙は僕には心地よかったが、麻子さんは落ち着かないかもしれないと思い、「音楽でも流しますか」と訊いた。
「ううん、このままで」
そう言って彼女は腕を枕にしてテーブルに突っ伏し、目を閉じた
雨の音に紛れて、冷蔵庫の小さなモーター音が部屋の底から這い上がる。
目を閉じたままの麻子さんが言った。
「冷蔵庫の音……」
「はい」
「ふつうの生活の音だね」
「うるさいですか」
「ううん、好き。改めて意識すると、こういうのって、いいものね。それに、静寂と思ってても、いろんな音が潜んでる。雨の音、冷蔵庫の音、風の音、車の音。ぜんぶふつうの、平穏な暮らしの音」
二人でしばらく沈黙に耳を澄ませた。時がしずかに沈殿していく。
しばらくして麻子さんが言った。
「わたし、部屋の隅で寝るわ」
「黒川さんがマットレス使ってください」
「家主を床に寝かせられないでしょ」
結局麻子さんは折れず、僕はマットレスに、彼女はタオルケットを折り重ねて即席の寝床にした。
電気を消すと、外の雨の音がひときわ大きくなった気がした。
どれぐらいそうしていただろう。寝付けずにいた。
「起きてる?」
麻子さんのシルエットが訊いた。
「はい」
答えると、暗がりのなか、麻子さんが四つん這いで僕のそばまでやって来た。
「どうしたんですか」
答える代わりに、麻子さんの手が僕の手を取った。麻子さんの体温は高かった。腕を這い上がり、Tシャツ越しに肩に触れ、胸へと滑った。
「わたし、お礼したくても、なにも持ってないから。体ひとつで返せるものなんて一つしかないし」
「お礼なんて、そんな」
「あなたはわたしを救ってくれたの。ただ部屋に泊めるだけと思ってるかもしれないけど、わたしにとっては命綱的な意味を持ってる。だから、すごく感謝してる」
「僕は…黒川さんが困ってるならーーー」
「麻子」
「え?」
「麻子、でいい」
「……麻子、さんを助けたいと思って……それだけです」
その言葉を聞いた麻子さんはさらに身を寄せてきて、僕の腕に口づけをした。
口づけの余熱が残っているうちに、麻子さんの腕が僕の背に絡みつき、縋り付くように抱きしめられた。細いのに、驚くほど強い抱擁だった。唇はくすぐったさと心地よさを引き連れて、ゆっくりと僕の首すじへと滑り、熱を帯び吐息がそこに触れるたび、見えない火が肌の真皮にまで沁み込んでいくようだった。胸が高鳴る。みゆきと初めて経験したときよりも落ち着かない。抗えないものが、麻子さんの体温にはある。
息を殺すようにして抗うこともできず、麻子さんに身を任せている僕は、さながら波にさらわれる木片のようだった。
麻子さんはそれを見抜いたように、さらに体を密着させ、細い指先を僕のシャツの裾から潜り込ませた。耳元で彼女が囁く。
「司くん……って呼ぶわね。これはお礼じゃないと思って。あなたのことが気に入ったから、わたしがこうしたいだけ」
その濡れた声は、僕の内側のもっとも脆い箇所に響く。
「僕には……彼女が」
かろうじて口にした言葉は、後日の言い訳めいた響きを持っていた。だが僕の言葉は麻子さんの唇に遮られた。柔らかく、しかし容赦なく舌が忍び込んできて、僕から理性や言葉を奪っていく。唇を交わし、舌と唾液を絡ませあったのち、麻子さんは言った。
「知ってる。だから、これはわたしのわがまま」
麻子さんの体は驚くほど軽かった。胸の膨らみは控えめで、触れるとすぐに肋骨の輪郭が指先に伝わった。その細さには壊れそうな危うさがあるのに、揺るぎない芯の強さみたいなものがしっかりと感じられた。彼女の体は触れればしなやかな弦のように震え、震えれば音楽のように僕を包み込む。
やがて彼女は僕を翻弄した。みゆきと交わした夜の、寄り添うような温もりとは別種のものだった。麻子さんとのそれは、荒々しい渦に巻き込まれるような熱情で、僕の体を覆い尽くした。求め、奪い、溺れさせ、なお満ち足りることを許さなかった。
絶頂ののちにも、彼女は僕を解放しなかった。麻子さんの指と唇が、次の波を呼び覚ます。幾度も、僕は自分の声を抑えきれず、情けなく、切なく、まるで自分ではない誰かの声を上げた。そのたびに、快感は新しい記憶として僕の体に刻まれていった。熱と痛みに似た悦びが、夜の深みに何度も燃え上がり、やがてすべてが白く霞むまで。
いつの間にか眠りに落ちた体は、土砂降りのあとにできた水溜まりのように重く濁っていた。それでも真夜中に、喉の奥に砂利でも詰め込まれたかのような渇きに突き動かされ、どうにか身を起こした。隣では背を向けて、麻子さんの肩が緩やかな呼吸に合わせて上下している。彼女を起こさないよう、そっとマットレスを抜け出して、全裸のままキッチンで水を飲んだ。
喉を潤したあと、戻る途中で自然と、部屋の隅にひっそりと置かれたままのボストンバッグに視線が吸い寄せられる。その適度な膨らみは、どこか生き物のように沈黙の気配を漂わせている。
僕はマットレスのそばで立ちすくんだ。バッグの中身はなんなのか、という、込み上げる好奇心を持て余していた。中身を見たら、”麻子さんのいる側”に近づける気がする。そばにいられる気がする。
バッグのそばまで歩いていくと、
”バッグには、触らないで”
麻子さんの声が蘇り、見えない糸に引かれたように伸ばしかけた手が止まった。
同時に、朗らかに笑うみゆきの顔、新聞に視線を落としたままの父の横顔、そしてレンタルショップから出てきた不審な男たちの姿が次々に思い浮かんだ。
麻子さんがいつか自分の手でバッグのファスナーを開けてくれるかもしれない。その時まで待てばいい。少なくとも僕はまだ、待つことを選べる。そう言い聞かせ、再びマットレスに横たわる。
すると、眠っているはずの麻子さんの腕がまるで潮が寄せてくるみたいに伸びてきて、そっと僕を抱き寄せた。その仕草は慰めのようでもあり、縄のようでもあった。
僕は囁くように訊いた。
「起こしましたか」
「ううん、大丈夫」
「朝まで、まだあります」
「うん。司くん、もうすこし眠りましょ」
麻子さんの胸に顔を埋める。遠くで雨が降っている気配がした。ただそれは、外の雨の音なのか分からなかった。目を伏せて、僕は彼女の体温に沈み込んでいった。
*
目が覚めて、枕元の携帯に手を伸ばす。六時半。眠っているあいだに、みゆきからのメールがさらに四通来ていた。通知の光が、台所で待ちくたびれる猫のように明滅している。いつもそれほど間を置かず返信していたから、心配してくれていたのだろう。最初のメールは、”デート、明日もし都合が悪かったら”云々、”この間行ったタイ料理のお店に”云々だったのが、その後徐々に短くなり、「どうしたの?」「大丈夫?」といった一行メールになった。最後のは三時頃だった。
カーテンを開ける。空には薄雲が広がり、まだ小雨が続いている。
窓の外に目をやると、息が詰まった。前の通りに見覚えのある黒いセダンが停まり、そして、やはり見覚えのある二人の男の姿が座席にあった。僕は平静を装うようにゆっくりとカーテンを閉め直す。
「司くん」
突然の背後からの声に、肩がびくんと震えた。麻子さんだった。もう起きていたらしい。
彼女はカーテンを指先でわずかに開け、隙間から外を窺う。彼女はすぐに、僕がまたカーテンを閉めた理由を理解したようだった。
「……あの車は、なんなんですか」
僕の問いかけには答えず、麻子さんはきっぱりと告げた。
「わたし、行くね」
「行く、ってどこへ?」
「司くんは知らなくていい」
「そんな……」
「これ以上ここにいたら、司くんに迷惑が掛かる」
彼女は決定事項を読み上げるように言って、唇を引き結んだ。
僕は少しの逡巡のあと、携帯を手に取って119番した。「うちの前に怪しい黒い車がずっと停まっています。乗っている二人、明らかに様子が怪しいです」、そして住所を伝えて切った。
通話のあいだ、驚きの目を僕に向けていた麻子さんだったが、僕が携帯を切ると、
「…あなた……」
「……やっちゃいました」
僕は息をつくように言った。
麻子さんは呆れているような、笑いをこらえているような、申し訳なさそうな、複雑な表情を浮かべていた。
「あなたがこんなことをするなんて……」
「自分でも驚きました」
あの車が怪しいことは確かだ。あとから事情を聞かれるかもしれないが、とりあえず今の状況がなんとかなればいい。
五分ほどして、自転車にまたがった二名の警察官が姿を現した。彼らの登場と同時にセダンのエンジンがかかり、ゆっくりと走り去った。
その様子を見届けた僕は、すかさず麻子さんに言った。
「今のうちに逃げましょう」
「無理よ、そんなの」
「とにかくここを離れないと」
僕は彼女の手を引いて玄関に向かおうとする。「待って」と慌ててバッグを手に取り、麻子さんは履いてきたサンダルをつっかけようとするが、「僕のスニーカーを」と差し出した。サンダルでは足が遅い。
とりあえず、なるべく早くいちばん近い電車ーーー地下鉄の駅まで行って、でもどこに行けばいい。道すがらで考えよう。今日は何月何日だ。授業はどうだったっけ。いや、それはどうでもいい。
マンションを飛び出し、濡れた路面を駆けだす。この程度の雨なら、傘なしでも。
麻子さんの手を引き、駅へと早足で、ときどき軽く走りながら向かう。
大通りに出て、あとは駅まで一直線だ。
麻子さんは息を切らしながらも、汗と雨で濡れた顔に不安を拭えずにいるのが分かった。手を握り直すと、彼女の表情がハッとしたように僕を見つめ、頷いた。
そこに背後にエンジン音の唸りが聞こえた。黒いセダンが猛スピードで通りをこちらに迫ってくる。
なんでここが分かったのか。僕が真っ直ぐに駅に向かうのが馬鹿正直すぎただけなのか。
もう地下鉄の駅の入り口は見えているのに。
「司くん、もういい、ここまでで」
麻子さんが伏し目がちに言った。その口元には諦めが滲んだ笑みが薄く浮かんでいる。
「麻子さん…?」
あの、いつも飄々として、呑気に皮肉を言っていた調子の麻子さんが、こんな顔をしている。それは僕のせいだという気がした。
「あとはわたし一人でなんとかする。シンプルな話なの。そして司くんにはもう関係ない話になる」
そう口にした麻子さんの瞳には決意が感じられた。ボストンバッグを握る彼女の手がぎゅっと強められ、指の節が浮き出て見えた。
「だめです」
口を突いて言葉が出ていた。ここで引き返したら、たぶんこれからの僕の人生は、味の抜けたガムを噛むだけのようなものになる。
セダンが大通りの路肩に停まり、例の二人組が降りてきた。
「行きましょう」
僕は再び麻子さんの手を取り、地下鉄の駅への階段を駆け降りる。最後の三段ほどを一気に飛び降りたときには、人生そのものから飛び降りた錯覚すら覚えた。改札へと走る。背後から慌ただしい足音が追ってくるのが聞こえる。
僕は自動改札機のフラップドアを高跳びの選手のように軽々と飛び越えた。こんな跳躍力があるなんて自分でも驚きだ。続いて麻子さんもバッグを手にしたまま、なんとか飛び越えて続く。駅員の制止の声が追ってきたが、気にならない。
ホームへの階段を駆け降りる。運よく列車が停まり、発車を告げる呑気なメロディーがすでに響いている。階段を降りきると、僕らはなるべく遠くの車両まで走る。
メロディーがやんだ。
肩で息をしながら僕たちは手を繋ぎ、車両のドアの前に立った。男たちも階段近くのドアの前に立ち、僕らが乗るかどうかを見極めるべく、かなり離れたこちらの様子をじっと窺っている。
空気が抜けるような音とともにドアが閉まる。その刹那、麻子さんの手を強く握り、僕らは寸前に列車に滑り込んだ。一瞬、麻子さんの肩が閉まるドアに引っ掛かったが、すり抜けられた。
列車が動き出す。窓越しに、ホームで呆然と見送る男たちの姿が通り過ぎた。男たちは紙一重の判断の遅れでホームに居残っていたのだ。”駆け込み乗車は危険ですので…”という車内アナウンスが流れた。
着の身着のままで列車をいくつも乗り継ぎ、途中でコンビニのATMでお金を下ろし、はるか遠くの海辺のひなびた町に辿り着いた。人はその気になれば、こんなところまで来られるのだ。そして僕の隣には麻子さんがいる。
部屋に置き忘れた携帯にはみゆきから着信が何度もあったに違いない。いずれ大学から連絡を受けた親が東京に出てきて、ずっと誰もいなかった部屋を見るだろう。
麻子さんがずっと肌身離さず持っていたバッグは、途中の街でいきなり彼女が広い川に投げ込んだ。僕は呆気に取られたあと、「いいの?」と尋ねたが、「もう、いらないから」と彼女は青空のような清々しい笑顔で言った。バッグは悠々とした流れに乗り、その身を水面から少し覗かせていたが、すぐに沈んで見えなくなった。
数日の野宿ののち、たまたま出会った親切なひとの好意で空き家を借りられることになり、僕と麻子さんはそれぞれ仕事も始めた。数年たち、子供も生まれた。未来は映画の本編よりもずっと長く、淡々と続いた。
あの日、麻子さんの手を握ったから。走り出したから。列車に飛び込んだから。
違う人生は、手を伸ばしたすぐ先にあった。
そんなことが、一瞬のめまいにも似た、フィルムの一コマごとの瞬きのような淡いフラッシュバックとして頭を駆け巡った。未来の走馬灯だった。
道の先に黒いセダンが停まっていた。エンドロールを告げる暗転のように。
上がる息を抑えられないまま、僕は元来た道を引き返そうと踵を返すが、麻子さんは立ち止まったまま動こうとしない。バッグの持ち手がぎゅっと強く握られるのが分かった。
「麻子さん」
名前を呼ぶと、彼女は僕のほうを見て、笑みを浮かべた。柔らかい笑顔だった。これまで見せてくれたことはなかったような。いや、僕が彼女をこんな笑顔にできなかっただけかもしれない。
麻子さんは無言で制するように手のひらを僕に掲げた。ここにいて、という意味は分かった。
そして彼女は歩いていき、黒スーツと話を始めた。二人とも冷静な様子だった。黒スーツが何かを言い、麻子さんが頷いた。そして麻子さんの手からボストンバッグがあっさりと黒スーツに渡され、さらに金髪タトゥーに渡された。
それから麻子さんだけが戻ってくる。
「大丈夫なんですか」
「話はつけた。司くんはこの件から解放される。今後、あなたが関わることは一切ない。保証する。それじゃ、ここでお別れ」
淡々と告げる彼女の口調は、返品不可のセール品を渡される客への説明のようだった。
麻子さんが背を向けるのを、待ってください、と僕は食い下がる。
「僕のところにいてください。それで、しばらく時間を稼いで……」
「時間を稼いで、それでどうなるの?」
なにも言い返せなかった。そんな自分が歯痒く、情けなかった。
「泣かないで」
麻子さんの言葉で、僕は自分が泣いていることに気づいた。いつの間にか雨も止んでいた。
「司くんはバッグの中を覗かなかったでしょ。あの中には、いわばあなたが選ばなかった人生が入ってた。もし見ていれば、また結果は違った」
「麻子さん……」
「さよなら」
麻子さんは薄い笑みを残し、歩いていく。そういえば、屋外で麻子さんの姿をほとんど見たことがなかったことに気づく。華奢な背中は、まるで世界一つを頼りなく支えているように見えた。
彼女は僕のほうを振り返ることはなく、セダンの後部座席に乗り込んだ。そして男たちも乗り込み、セダンは走り去った。川縁の道を走り、小さくなって、見えなくなるまで僕は見送った。拍子抜けするほどにあっけない幕切れだった。
あの日から十数年が過ぎた。僕は法曹界の片隅で細々と食い繋いでいる。
僕の隣を歩くのは、子供を乗せたバギーを押す妻だ。七五三の着物の予約をしにきていた。妻が見つけた着物のレンタルショップは、以前僕が住んでいたマンションの近所だった。
「ちょうどこの辺りじゃなかった? むかし、あなたが住んでたの」
「そうだね。この辺り」
懐かしい街並みだった。楽しかった思い出はすぐに出てこない。苦い思い出の印象が強過ぎて、ほかが淡く見えているのかもしれないし、実際、楽しい思い出もたいしてなかったのかもしれない。
僕は見覚えのある角を曲がり、立ち止まった。
「ここ?」
妻がバギーを止め、横に並んで言った。
「更地だね」
「そうだね」
「司青年は、ここで青春の酸いも甘いも噛み締めていたわけだ」
妻はさらりと言った。
雑居ビルと平屋建てのあいだにぽっかりと空いた空間が目の前にあった。肩の高さほどの雑草が生い茂り、この区画が放置された年月を感じさせた。
あの夏、僕は何度もここに来た。僕のマンションではなく、麻子さんの店があった場所だった。
あの日、麻子さんが姿を消したあと、僕は何度も店を覗いた。店は、それまでの姿が若造りであったかのように、急に長年の風雪を耐えたようなくたびれた店構えになっていた。ガラスドアは汚れで白く曇り、床は褪せ、鍵で固く閉ざされていた。
麻子さんと再会することはなかった。あの男たちも、麻子さんが言ったように僕の前に現れることはなかった。茶色のボストンバッグになにが入っていたのかも知らない。そして僕は、彼女のことを誰にも話さなかった。
月日は流れ、不思議なことに僕はあのレンタルショップの店名を思い出せずにいる。いや、なんの不思議でもないのかもしれないけれど。
いま僕は、同じような毎日を繰り返し、生活している。繰り返しの毎日になんの意味があるのか、という問いにヒントをくれそうな、彼女がすすめてくれようとした映画のタイトルも、僕は知らないままだ。検索する気にもならなかった。いつか会えたら、彼女から題名を教えてもらいたかった。
僕の耳にはまだ、雨の音が聞こえている。そうして歩いていく。
雨の残像と歩く くぬぎなお春 @ni_ssy
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