軌道エレベーター『天之御柱』

酒囊肴袋

第1話

潮の匂いを含んだ風が、白装束の袖をゆらりと揺らした。神主は榊を捧げ、祝詞を低く転がす。紙垂がさわさわと鳴り、清め塩が銀の皿に小さく崩れる。甲板に張られた注連縄は新しい藁の色をしており、海の青と対照的に鮮やかだった。

供物が並ぶ。酒、米、塩、海の幸。そして、真新しい鏡。朝日を受けて鋼のように光るそれは、儀式の中心に据えられた。

「天津神、国津神、八百万の神々よ」

厳かな祝詞が、低く、しかし凛として響き渡る。その声は、波の音にかき消されることなく、不思議なほどの静寂を周囲にもたらしていた。

「この度、人類が天に届く道を開くにあたり、どうか御加護を賜りますよう」

神主が深々と頭を垂れると、緋袴に身を包んだ巫女たちが、神楽鈴を手に静かに舞い始める。ちり、ちりと鳴る涼やかな音色は、まるでこの世ならざるものへの呼びかけのようだった。


ここは、太平洋の赤道上、全長十キロメートル、幅五キロメートルの巨大な人工島。人類の叡智を結集したメガフロートだ。

メガフロートは、ただ海に浮かんでいるだけではなかった。それは、巨大な塔の礎。人類の夢を体現したかのような、一本の壮大な柱の付け根だった。地上と宇宙を結ぶ、全長十万キロメートルに及ぶ「軌道エレベーター」。その名は『天之御柱あめのみはしら』。地上と天の神々を結ぶ、古事記に記された梯子の名を与えられたその塔は、カーボンナノチューブで編まれたケーブルが、太陽光を受けて銀色に輝き、まさに神々の住む天界への架け橋のようだった。


『天之御柱』の運用開始は、宇宙開発の歴史を塗り替えた。ロケットによる打ち上げとは比較にならない圧倒的な低コストと安全性。人類は、かつてないほど気軽に宇宙へアクセスできる時代を迎えた。貨物だけでなく、多くの人々がエレベーターの『浮舟』と呼ばれる昇降機に乗り込み、宇宙を目指した。


浮舟の客室には大きな窓が設えられていた。乗客たちは、息をのんで窓の外に広がる光景に見入る。ゆっくりと、しかし確実に遠ざかっていく青い海。だが、青一色ではない。藍、群青、薄青……浮舟の高度により色が変わる。雲の渦、大陸の輪郭。やがて、空の青は漆黒の闇に変わり、窓の外には無数の星々が、大気のフィルターなしに原色の輝きを放っていた。星の数は――誰も数えない。数えることに意味がないほど、多かった。


「美しい……」


技術者の端くれである私も、何度見てもこの光景には心を奪われる。今回、私がこの浮舟に同乗しているのは、特別なペイロードの最終チェックのためだ。

貨物室に鎮座するのは、最新鋭の深宇宙探査衛星『磐船』。それは単なる機械ではなかった。何百人もの技術者が、持てる技術のすべてを注ぎ込み、魂を削って作り上げた芸術品。そのボディは特殊な合金を鏡面加工したもので、内部に収められた観測機器の基盤は、熟練の職人が施した金細工のように緻密で美しい。これは、人類が生み出した最高の作品の一つだと、私は確信していた。


軌道エレベーターの利点は、様々な高度でペイロードを射出できることにもある。静止軌道、月遷移軌道、あるいは惑星間軌道へ。浮舟は指定された高度まで上昇し、カーゴベイを開いて、そっと衛星を宇宙空間へ解き放つ。『磐船』が目指すのは、太陽系のさらに外側。最も高い射出ポイントまで、我々は旅を続ける。


「磐船、射出準備完了。3、2、1、射出」

カーゴベイの側面が開き、磐船が静かに宇宙空間に放たれていく。太陽光パネルを展開した姿は、まるで金色の翼を広げた鳥のようだった。



異変の報せが届き始めたのは、『天之御柱』の運用開始から一年が過ぎた頃だった。ごく稀に、低高度で射出されたはずの人工衛星が、行方不明になるというのだ。射出後、しばらくは正常に信号を送信していたが、突然通信が途絶え、レーダーからも姿を消してしまう。


最初は、単なる初期不良や運用ミスとして処理されていた。しかし、事故報告が積み重なるにつれ、管制室の誰もが奇妙な事実に気づき始めた。


「またか……。これで五件目だぞ」

「奇妙だと思わないか?消失するのは、決まってワンオフの試作機や、特別製の探査機ばかりなんだ」

「ああ。規格化された量産品の通信衛星や測位衛星では、一度も事故は起きていない」

「それに、高高度で射出する静止軌道や外宇宙探査用の衛星では、原因不明の行方不明は発生していない」


そう、誰かが意図的に「選り好み」しているかのように、事故は人類の技術の粋を集めたような、一品物の衛星に集中していた。当然、調査委員会が立ち上げられ、原因究明が急がれた。疑いの目は、まず衛星の個体そのものに向けられた。


「試作品は、構造が複雑で未知の不具合を抱えやすい。消失の原因は、衛星側にあると考えるのが妥当だろう」


関係者の誰もが、そう結論付けようとしていた。自分たちの作り上げた完璧な輸送システムに欠陥があるとは、誰も認めたくなかったのだ。だが、私の胸には、合理的な思考では説明のつかない、冷たい靄のような不安が立ち込めていた。我々の理解を超えた、何か別の法則が働いているような、そんな予感が。


その日、我々は新型の観測衛星の射出オペレーションにあたっていた。もちろん、これもまた最高の技術者たちが作り上げた、他に二つとない傑作機だった。相次ぐ事故を受け、今回は射出の瞬間を軌道エレベーターの外部に設置された複数の高感度カメラで、あらゆる角度から監視することになっていた。


管制室の巨大なメインスクリーンに、浮舟から静かに分離していく衛星の姿が映し出される。順調だ。誰もが安堵の息をつきかけた、その瞬間だった。


「な……なんだ、あれは……?」


誰かの震える声が、静寂を破った。


スクリーンの映像の片隅。何もないはずの漆黒の宇宙空間が、さざ波がたつ水面のように揺らぎ、黒よりもさらに暗い亀裂が走った。そして、その裂け目から、ゆっくりと「それ」は現れた。


指があった。爪があった。関節があった。それは、紛れもなく「手」だった。だが、その大きさは常軌を逸していた。衛星が玩具のように見えるほど巨大な、星々の光を吸い込むような影色の手が、空間の裂け目から伸びてきたのだ。


時間は凍り付いたように感じられた。巨大な手は、何のためらいもなく人工衛星をそっと、しかし確実に掴んだ。まるで、熟した果実を摘み取るかのように。そして、次の瞬間、手は衛星ごと、再び空間の裂け目の中へと静かに後退し、裂け目が閉じた後には、元の何もない宇宙空間が広がっているだけだった。音も、衝撃も、何一つない。ただ、そこにあるべきものが、忽然と消え失せていた。


管制室は、誰一人の声も発せない、死のような沈黙に支配された。


数日後、緊急招集された会議の席で、一人の物理学者が震える声で語り始めた。


「……アインシュタインのエレベーターだ。彼の思考実験は、重力と加速度が等価であることを示した。我々の『天之御柱』は、秒速5.9キロメートル、凄まじい速度で等加速・等減速の運用を取っている。そして、上下の浮舟がすれ違うポイントでは、その相対速度は時速4.3万キロに達する。その瞬間、その一点において、二つの巨大な質量が衝突するのに等しい、極めて特殊な時空の歪みが生まれているんだ。普段は決して交わることのない、別の次元への扉が、ほんの一瞬だけ開いてしまうとしても……何ら不思議はない」


彼の言葉を引き取ったのは、驚くべきことに、一年前の竣工式で祝詞をあげていた老神主だった。彼は、古びた文献をテーブルに広げた。


「あの神事は、このエレベーターそのものを、神の依り代たる『御柱』として奉るためのものでした。我々が『宇宙への道』と見なしたものを、おそらく、扉の向こうにおわす方々は、『天に捧げものをするための祭壇』と認識されたのでしょう。メガフロートは俗界と聖界を分ける鳥居。エレベーターは神域へ続く参道。そして、そこを通って天へ運ばれるものこそが……」


「供物、というわけか」


私が呟くと、神主は静かに頷いた。


「古来、我々は神々に、その時代で最も価値あるものを捧げてまいりました。美しく磨き上げられた銅鏡、幾度も鍛え上げられた名刀……それらは、当時の最高技術の結晶であり、作り手の魂が込められた工芸品です。現代において、それに匹敵するものは何か?……皆様方が魂を込めて作り上げた、一点物の人工衛星。内部の精密な基盤は、彼らにとっては、我々が古代の宝剣に見る神聖な文様のように見えているのかもしれません」


我々は沈黙した。人類の科学の結晶である軌道エレベーターは、我々の意図しない形で、古の神話と結びついてしまったのだ。


数年後。


『天之御柱』の管制室は、今日も変わらず静かな熱気に満ちている。私は、ガラス越しにオペレーターたちが働く様子を眺めていた。あの日以来、我々は「神々」の存在を暗黙の了解とし、彼らのための「供物」を捧げ続けている。


ふと、隣に立った若い技術者が、誇らしげに、そして少し不思議そうに私に話しかけてきた。

「この軌道エレベーターは奇跡ですよ。これだけの規模と運用頻度にも関わらず、重大な事故は一度も起きていませんから」


私は静かに頷き、宇宙へと続くモニターの中の光の筋を見つめながら、ぽつりと呟いた。


「ああ、そうだな。この軌道エレベーターでは、一度も事故は起きていない。……時々、供物がなくなること以外はな」

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