第10話:魚の気持ち、全部わかります
王都のギルドは、一週間前と何も変わっていなかった。いや、むしろ、状況は悪化していた。
依頼の数は増え続け、冒険者たちの疲弊はピークに達していた。ギルドの空気は、鉛のように重く、息をするだけで肺が軋むようだった。机の上には、未処理の書類が再び山となり、一人の青年の心をじわじわと蝕んでいく。
「くそっ……」
青年は、思わず舌打ちをした。ペンを握りしめすぎて、指先には痛みが走っている。目蓋は重く、視界は歪んでいた。インクと埃の匂いが、彼の呼吸を苦しめていた。彼の目の前に広がる世界は、モノクロの書類の山と、疲労に歪んだ冒険者たちの顔だけだった。
(このままでは、本当に、私は、この書類の山に埋もれてしまう……)
その時、彼の脳裏に、鮮やかな色彩が蘇った。
緑の森、青い川、そして、焚き火の温かい光。
魚を焼き、無邪気に笑った少女の笑顔。
(魚を、骨まで綺麗に食べる姿……)
その記憶は、彼の疲弊しきった心を、優しく、そして力強く揺さぶった。
彼は、無意識のうちに、ペンを置いた。
そして、一つの結論にたどり着いた。
「そうだ……このままではダメだ。私は、この場所から一度離れなければならない」
彼は、静かに立ち上がると、ギルドの扉へと向かった。
彼の行き先は、決まっていた。
「あの場所に行こう……。あの、平和な場所へ」
若きギルド統括者の疲弊しきった心は、ただただ、あの川辺を、そして、あの少女を求めていた。
彼は、ギルドを抜け出し、馬車に乗り、森の獣道を進んだ。
森の匂い、風の音、そして、川のせせらぎ。
それらすべてが、彼の心を癒していく。
そして、ようやくたどり着いた静謐な川辺。
そこにいたのは、いつものように、釣り糸を垂らす少女だった。
「やあ、お兄さん」
青年は、安堵の息を吐きながら、声をかけた。
エリカは、ゆっくりと振り返った。
「あ、お兄さん!また来てくれたんですね!」
彼女は、満面の笑顔で青年を迎え、その笑顔は、太陽の光のように温かく、彼の心を深く、深く癒していくようだった。
青年は、エリカの隣に腰を下ろし、彼女の釣り竿を眺めた。
「今日は、釣果はどうだい?」
「んー、それが、今日はちょっと魚たちが元気がないんです」
エリカは、そう言って、少しだけ顔を曇らせた。
「元気がない?どういうことだ?」
青年は、その言葉に、胸の奥がざわつくのを感じた。彼の頭の中では、ギルドで聞いた不穏な噂が、渦を巻き始めた。
(まさか……。街で起きている不穏な空気が、この川にまで影響を及ぼしているのか?魚たちが怯えている、というのは……何者かの存在を感じ取っているからなのか?)
彼の思考は、一気にシリアスな方向へと向かっていった。
「お兄さん、もしかして、何か不審な人物を見かけなかった?最近、王都では怪しい集団が増えていて……」
青年は、そう言いながら、周囲を警戒した。
しかし、エリカは、彼の言葉を遮るように、首を傾げた。
「不審な人物ですか?うーん……見てないですけど……。でも、魚たちが元気がないのは、たぶん、水温が少し上がったからかなぁ」
その言葉に、青年は、思わず固まった。
(水温が、上がった……?)
彼の思考は、完全に停止した。
青年は、頭の中で壮大な推理劇を繰り広げていた。不審者、怪しい集団、そして、この川辺に迫る危機。彼は、そのすべてを、この少女が感じ取っていると信じていた。
しかし、彼女が口にしたのは、あまりにも日常的で、あまりにも単純な理由だった。
「……そ、そうか。水温が……」
青年は、そう言うのが精一杯だった。彼の頭の中では、激しい音を立てて、推理のパズルが崩れ落ちていく音が聞こえた。
エリカは、そんな青年の様子を不思議そうに見つめていた。
「どうしました?顔色が悪いですけど……。あ、もしかして、お腹が空いたんですか?大丈夫ですよ、今から魚を釣って、美味しい料理を作ってあげますから!」
エリカはそう言うと、満面の笑顔で、釣り竿を構え直した。
その笑顔は、青年の心に、深い安堵をもたらした。
(そうだ……。僕は、この笑顔を見るために、ここに来たんだ)
彼は、そう心の中で呟いた。
「いや……なんでもない。君の言う通りだ。水温が上がっただけかもしれないな」
彼は、そう言って、エリカに微笑み返した。
彼女の純粋な「釣りバカ」な思考は、ギルドの統括役である青年の疲弊しきった心を、深く、深く癒していくようだった。
彼にとって、エリカは、ただの少女ではなかった。
彼女は、彼が忘れていた、穏やかな日常を思い出させてくれる、大切な存在だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます