記憶の運び屋
紡月 巳希
第二章
静寂の記憶
カイトの手が私の両手を離れた瞬間、世界からあらゆるノイズが消え失せた。幼い頃から私を苦しめていた、あの不快な耳鳴りのような音。そして、闇の中に響く悲鳴の断片。それらすべてが、まるで最初から存在しなかったかのように、完璧な静寂の中に溶けていった。
私は息を呑んだ。こんなにも心が澄み切ったのは、いつ以来だろう。絵筆が握れなかったあの焦燥感も、描くべきものが分からなくなった空白も、今は遠い霧の向こうにある。ただ、ひたすらに、穏やかな安堵感が全身を包み込んでいた。
カイトは、無言でカウンターに戻り、エスプレッソを淹れ始めた。豆が挽かれる微かな音、カップに注がれる液体が奏でる繊細な響き。今まで聞き取れなかった、喫茶店「メメント・モリ」が持つ本来の音が、ゆっくりと私の感覚に染み渡っていく。薄暗い店内の空気は、一層甘く、どこか懐かしい香りを深めていた。古いジャズが、囁くように耳元で心地よく響く。時間の流れが、ここでは異常なほどに穏やかだ。
「お冷です。」
カイトが、目の前に冷たい水を置いた。私はそれに気づかず、呆然と店内の壁に飾られた、抽象的な絵画を見つめていた。それは、私が描いていたはずの、しかし完成できなかった作品に酷似していた。色と光が溶け合い、見る者の感情を揺さぶるような、不思議な魅力がある。
「これは…?」
私の問いに、カイトはエスプレッソの香りを楽しみながら、静かに答えた。
「あなたから預かった記憶は、この店のどこかに形を変えて滞留します。そして、あなたが本当に必要とする記憶と出会った時、それは再びあなたへと還っていくでしょう。」
私は、自分が預けた記憶がこんなにも美しい形で表現されることに驚きを隠せない。
まるで、自分の心の奥底にある、まだ見ぬ引き出しを開けられたような感覚だった。同時に、私の記憶の「混じりもの」は、この絵画にどんな影響を与えているのだろうかと、ふと疑問が湧いた。
「この静けさは…ずっと続くのでしょうか?」
私の問いかけに、カイトはゆっくりと顔を上げた。灰色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
「いいえ。あなたがこの店で過ごす間だけです。記憶は、あなたの一部ですから。完全に切り離すことはできません。」
そうか。一時的なものなのだ。永遠ではない。
しかし、この瞬間だけでも、この平穏が手に入ったことに、私は深く感謝した。カイトは、私のそんな心情を察したかのように、静かにカップをカウンターに置いた。
「絵筆は、握れそうですか?」
その言葉に、私はハッと我に返った。そうだ、私は絵を描きたかったのだ。混乱から解放され、再びあの喜びを取り戻したかった。手元にあったスケッチブックを広げ、無意識のうちにペンを走らせる。そこから生まれる線は、淀みがなく、私が本当に描きたかった形を紡ぎ出していく。
しかし、その安堵の中に、微かな違和感が芽生え始めた。喫茶店の外から、微かに聞こえる街の喧騒。それは、私が以前耳にしていたノイズとは違う、生きた街の音だ。しかし、その音の奥に、不自然なほどの「静寂」が混じっているような気がした。まるで、街そのものが、何かを隠しているかのように。
その違和感に意識を向けた瞬間、私のスマホが震えた。カイトが私から預かった木箱を置いた、カウンターの隅だ。画面がゆっくりと点滅し、そこに、見慣れないメッセージが表示された。
『警告。接続異常。システムへの不正アクセスを検知。』
メッセージの下には、無数の不可解なコードが並んでいた。私は思わずスマホを手に取り、その画面をカイトに見せた。カイトの表情は、初めて明確な変化を見せた。灰色の瞳が、わずかに見開かれる。
「これは…。」
カイトの声に、これまで感じたことのない緊迫感が宿っていた。その視線は、私のスマホの画面に向けられているのではなく、喫茶店の外、雑居ビルの谷間から漏れる、街の光の遥か奥に向けられていた。
「時の…監視者…」カイトは、まるで独り言のように呟いた。その言葉が、私の心臓を強く締め付けた。私の安堵は、束の間のものだったのだ。喫茶店の静寂の中に、外の世界の危険が、静かに、しかし確実に侵入してきたことを悟った。
記憶の運び屋 紡月 巳希 @miki_novel
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