あの日、変わった私の普通

@noranoneko

恋に落ちた、中2の夏。叶うことのない、初恋。

「ねね、このリップの色、どう?派手すぎるかな〜」

彼が私の顔を覗き込む。

スーパーの人混みの中、すれ違う人々の目線をかすかに感じながら、私は彼が手に持っていた淡いピンク色のリップに目をやる。

「良いと思うよ」

「じゃあ、これ買おっか? 僕、会計してくるから、あそこの喫茶店で待ってて。先に何か頼んどいてくれたら嬉しいな。一緒に食べよ」

ニカッと笑った彼は、良い彼氏なのだろう。

喫茶店は、コンクリートの壁に、木目調のプラスチックテーブル、大きなガラス窓、いかにも洋風でおしゃれな空間だった。

壁のモニターに『新商品!』と書かれた桜チップ入りのパフェが映る。

(…これ、前に彼が食べたいって言ってたやつだ)

「すみません〜このパフェと、カフェオレ2つ……以上で大丈夫です」

注文を終え、窓辺の席に腰を下ろす。

「お、注文決まった?」

彼氏が戻ってきて、笑顔で腰を下ろす。

「うん!好きそうなの選んだから楽しみにしといて!」

「マジ!楽しみ!!」

その時注文したパフェが運ばれてきた。

「お!新作のパフェじゃん!これめっちゃ食べたかったんだよ!」

はしゃいでいる彼を見て私も笑う

「そういえば、はいっ!」

そう言って、彼が小さな箱からリップを出す。

「似合いそうだったから結局これにしたよ!どう?」

「ありがとう!私に合いそう」

「じゃあ食べよっか」

私は、スプーンでパフェを口に運ぶ。桜特有の甘く爽やかな香り。

 

春の匂いがした気がした。

淡いピンクの桜を濡らして、ぽつぽつと降る雨が、空を静かに灰色に染めていく。

恋に落ちた、中2の夏。叶うことのない、初恋。

 

 小学生の頃のいじめを、私はいまだにズルズル引きずっている。

そのせいで、人の顔色をうかがうのが癖になった。いわゆる、八方美人。

中学では、委員会にも部活にも入らず、できるだけ波風を立てず普通に過ごしていた。友達は決して少なくなかったけど、放課後や休日を一緒に過ごすような子は、ほとんどいない。

「今年こそは学年一位をとる!!」

新学年が始まって同じクラスになった私の親友、岡本結月が大声で宣言する。私は、結月と同じクラスに入れたので、とても安堵していた。

「絶対ムリでしょ。あんた前回205位でしょ? 下から数えて7番目よ?」

と突っ込みを入れているのは、今年初めて同じクラスになった北間沙羅さんだ。彼女は背が高くて、頭が良くて、誰にでも分け隔てなく接する。いかにも、周りから頼られるタイプの人だ。

「そうだよ〜、でも、本気なら一緒に勉強しよ?」

私がそう言うと、結月がぱぁっと笑う。

「マジ神! ほんとに良いの〜? 今年こそはよろしく頼む!」

笑顔でウィンクしてくる結月に、『迷惑かけんなよ』 と北間さんが小声で注意している。「そうと決まればさ! 三人で勉強会しようよ、今日の放課後空いてる?」

(結月、フッ軽すぎるよ…)

「いいね! 善は急げだ。早速一年の復習と、中間テストに向けての予習をしよう!」

(北間さんまで〜、今日始業式だよ!? 中間テストって…)と、私は心のなかで突っ込む。

「じゃあさ、このまま教室でする? それともスタバとか行く?」

「ごめん、今うち金欠だから、このまま学校でやろう!」

いつの間にか仲良くなっていた二人を横目に、少し疎外感を覚える。それでも結月が本気なら、私も頑張ろうと意気込んで三人で机をくっつけた。私と結月が並んで座り、北間さんに教えてもらう形になる。

「よし! 勉強始めようと思ったけど、一年のワークとか持って来てなかったわ!」

「確かに」

北間さんと目を見合わせて、くすりと笑う。

「一番家が近いの、あんたでしょ? ワーク持って来てよ〜」

北間さんが、ニヤニヤしながら結月の方を見る。

「そうだよ〜、言い出しっぺが持って来てよね!」

私も一緒に説得する。

「…覚えとけよ! 三分だけ待ってろ!」

そう言い残し、結月は全速力で教室を飛び出した。

「…………」

(き、気まずい…今日初めて会った人と二人っきりなんて…)

「入島さんって結月と、付き合いどのくらいなの?」

「う、うん、小2ぐらいからかな」

「長っ! あの人と一緒にいるのって大変じゃない?」

北間さんの笑顔は、いつものかっこよさとは裏腹に、とてもかわいらしかった。

「そうでもないよ〜。元気もらえるし」

自然と私も笑顔になってしまった。それから少し世間話をしていると――

ドドドッ!と、廊下を猛スピードで駆け抜ける足音が聞こえてきた。

「どう? 三分たった?」

はぁはぁと息を切らしながら、結月が教室に飛び込んでくる。

「あ――」と声を漏らした瞬間、北間さんが思い出したように言った。

「やっべ、忘れてた!!ごめん〜」

「はぁぁぁ!? ふざけんなよぉぉ!」

結月は大げさに叫びながら席にドンと座った。

「せっかく持ってきたんだから勉強会しよ! もう!」

なぜかそれが無性におかしくて、三人で大笑いした。


その時の光景は、今でも鮮明に覚えている。それからも、私たちは予定が合えば自然と勉強会を開くようになっていった。

時間はあっという間に過ぎ去り、気づけば夏休み前半に差し掛かっていた。

夏休み私達3人は市立図書館で勉強をしていた。そこだった…


図書館にカリカリという鉛筆の音が響き渡る。

「結月、部活だから今日こないよ」

沙羅がそう言ってから、静寂の時間が続いている。

(やっぱり結月がいなかったら静かだなー)

二人きりで少しドキドキして落ち着かず、ふと顔を上げて周りを見回した。

その時、一人の男子が目に留まる。

同じ中学の制服、茶髪に長い睫毛。背は高くないけれど、すらりとした姿。

「……堀敬斗だ」

思わず口からこぼれる。

沙羅も同じ方向を見ていた。

「…かっこいいね?」

私がつぶやくと、沙羅は肩をすくめて笑った。

「そう?夏休みなのに制服って…。でも、真面目に勉強してる人っていいよね。」

「うん!でも、沙羅も負けてないよ!」

私が元気よく頷くと、

「集中力切れてきたよね?ちょっと外いかない」

そう言われ一緒に席を立った。

「・・・・・」

今彼と目があったような…

「どうしたの?」

「うんん…なんでもないよ〜」

ベンチに腰を下ろす。図書館の手前の公園は人影も少なく、鳥のさえずりが私の耳を優しく撫でていた。

「ハイ!」

冷たいペットボトルが頬に当たった。

「冷たっ!」と思わず反応してしまうと、沙羅が笑いながら私の顔を覗き込んでいた。長いまつ毛、優しい目……。

「カフェオレにしたけど良かった?」

「うん!ありがとう。沙羅っていっつもカフェオレ飲んでるよね?」

私がそう聞くと、

「うん!カフェオレ中毒だから!」

冗談を言いながら沙羅が隣に座った。ふわっと柔らかい香りが漂う。沙羅の柔軟剤の匂いだろうか。胸の奥がきゅっとなった。でもその時、それを聞く勇気なんて私にはなく、ただただ――この時間が永遠に続けばいいと思った。

その日、私は家に帰りベッドに潜り込んだ。……あの匂いが、忘れられない。

なんぜドキドキしていたのだろう。私はその時初めて気づいた、自分の感情に。

次の日、勉強会はなかった。

――良かった、と胸をなでおろした。鏡越しに、パンパンに腫れた自分の目を見ながら。

「朝ごはんできたよー」

母の声がする。けれど不思議と食欲がなく、胸の奥が焼けつくように重い。

「ごめん!なんか食欲ないから食べない〜」

できるだけ元気に答えた。

その直後、低い声が家中に響いた。

「朝ごはんぐらいしっかり食べろ。せっかく作ってもらったもんを無駄にするのか」

体が縮こまる。

「……ごめんなさい。身支度済んだら行きます」

そう返したけれど、余計に食べる気はなくなった。

結局その日は一日中、部屋にこもって無力感に絶望していた。

「気晴らしにお散歩でもしてきたら?」と母に言われても、到底そんな気分にはなれない。

なんで、沙羅。

絶対無理じゃん。叶わないじゃん。

どうして――なぜ。

……本当にそうなの?

気持ち悪い。

伝えることさえできない。

誰かに言いたい。誰にも言えない。


辛い。


そんな感情の渦に飲み込まれたまま、次の勉強会の日が来てしまった。

心臓が暴れるように速く打っていた。

今まで特に意識したことのない仕草さえ気になって、まともに目を見ることもできない。

「……集中してませんね、お嬢様」

耳に届いた声にビクリと肩が跳ねた。結月がニヤニヤしながら私を覗きこんでいる。

「もしかして好きな人でもできたとか?あっちにいる同じ制服の男子とかじゃない?」

(男子、ね……)

疎外感と罪悪感が一気に押し寄せてくる。表情に出さないよう、必死にこらえた。

「堀敬斗でしょ?別に興味ないよ。ただ、なんか今日集中できないだけ」

「なら切り上げよっか。無理にやっても頭に入らないし」

そう言って沙羅が微笑む。「ちょっと気になるカフェあるんだ。3人で行かない?」

「え!行く行く!」

結月がすぐに乗り気になり、私も頷いた。

図書館を出ると、雲ひとつない青空が広がっていた。澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込むと、さっきまでの重たい気持ちが少しだけ軽くなる。

しばらく歩くと、木製の看板が目に入った。【café〜Laras〜】おしゃれな雰囲気のお店だ。

扉を開けると木の香りがふわりと漂い、壁には丸や三角、四角の小窓が点々と並んでいた。

『めっちゃいいじゃん!』

三人で顔を見合わせ、思わず笑い合う。

白髪のおじいさんがカウンターから出てきて、にこやかに頭を下げた。

「ご来店ありがとうございます。お好きなお席へどうぞ。今は貸し切りですからね」

その優しい笑顔に、胸の奥が和らぎ涙が溢れそうになった。

席に着き、メニューを覗き込む。

「サンドイッチにクロワッサン、ピザにサラダ、それにコーヒーゼリー……全部美味しそう!」

「いや、全部食べ物言ったじゃん」

結月に沙羅が突っ込む、いつもの空気。

「注文はお決まりでしょうか?」

おじいさんがにこやかに尋ねる。

「私はサンドイッチとキャラメルマキアート!」

結月がすぐに決める。

「じゃあ私はカフェラテ」

「私はコーヒーゼリーと抹茶ラテでお願いします」

「承知いたしました。少々お待ちくださいませ」

注文を終えてほっと一息ついたところで、結月がいきなり私の方へ大きなピンク色の袋を差し出してきた。

「誕生日近いじゃん?だから二人で用意したんだよ。……いつもありがとう」

少し照れて赤くなっている結月。その横で沙羅が「開けてみて!」と嬉しそうに急かしてくる。

袋の中には、大きなホットケーキのぬいぐるみと、リボンのかかった箱。

「当てていい?ホットケーキが結月で、この箱が沙羅でしょ?」

「わざわざ本当にありがとう!」

「全然!これからもよろしくね」

沙羅がにっこり微笑む。

「この箱、開けてもいい?」

「うん!」

箱を開けると、中から派手な薔薇色のリップが出てきた。

「わ、リップ!?……ちょっと派手じゃない?」

困惑する私に、沙羅が得意げに言う。

「普段リップとか全然つけないでしょ。だから、私がつけてほしいなって思ったの」

「確かに〜」と結月が大きく頷く。

(嬉しすぎる!やっぱりやっぱり大好きだ沙羅のこと…)

歓喜と同時に、何かが私の胸を締め付ける。

「絶対つけるね!ありがとう」

そのとき、おじいさんが料理を運んできた。

「お待たせしました。サンドイッチとキャラメルマキアートです」

「わぁ、美味しそう!」

結月の前に置かれたのは、こんがり焼けたパンにチーズがとろけるサンドイッチ。「こちらはコーヒーゼリーと抹茶ラテ、カフェラテです。ご注文は以上でよろしいでしょうか?」

「はい!ありがとうございます」

私と沙羅でお礼を言う横で、結月はもうサンドイッチにかぶりついていた。

「ん〜っ!おいし〜!しあわせ〜!」

口いっぱいに頬張りながらご満悦。

その様子に、また沙羅と目が合って、二人でくすっと笑った。

(――このまま“友達”のままでいられたら。苦しいけど、今はそれでいい)

抹茶ラテを口に含むと、胸の重さが少し溶けていく気がした。

「華が笑顔になって良かった!」

沙羅のその言葉に、心が少し軽くなる。

「食べ物の力は偉大だね!」

結月がサンドイッチを飲み込んで、にっこり笑った。



8月24日、中2の夏休み。私は大きな決断をした。

もうこんな気持ちのまま、新学期を迎えたくはない。

その日は、結月が「海に行きたい!」と言っていたので、三人で海に来ていた。

「もう一回入ってきていい?」

結月が浮き輪を抱え、いまにも砂浜を駆け出しそうな勢いでこちらを見る。

「いいよ〜。行ってらっしゃい!」

私が返すと、結月は嬉しそうに手を振って走っていった。

波打ち際に散った水しぶきが、太陽の光を受けてキラキラと弾けている。

空は澄んだ青で、雲ひとつなく広がっていた。

「海の匂いだね〜」

隣で沙羅が、目を細めて深呼吸をした。

「そうだね。結月、ほんとに楽しそう」

そう返した私に、沙羅が少し笑いながら言う。

「てか、今日そのリップ付けてきてくれたんだ!嬉しいな〜」

胸が一気に熱くなる。

——もう、このタイミングしかない。

「私……好きなんだよね」

喉が詰まり、心臓の鼓動が耳の奥まで響く。

「沙羅のこと、その……友達とかじゃなくて……」

勇気を振り絞った声は、波の音にかき消されそうにか細かった。

「……あ、ありがとう。だけど、華は友達だから……ごめんね」

沙羅は申し訳なさそうに視線を落とした。「うんん!こちらこそなんかごめんね……。あっ、暑いよね?かき氷買ってくるよ!」

わかっていた。答えはわかっていたのに、胸が焼けるように苦しかった。

私は逃げるように立ち上がり、砂浜を駆けてトイレに駆け込む。

込み上げるものを抑えられず、胃の奥から何度も吐いた。

出しても出しても、喉の奥には言葉にならない塊がつっかえたままだった。

震える手でかき氷を買い、戻って結月に二つ渡す。

「ごめん、ちょっと急用できたから……先に帰るね!」

笑って言ったつもりだった。でも、あのときの私の顔は、どんなだったのだろう。

あのリップも一度きりしか使っていない——それから。沙羅との関係は少しずつ途切れ、私は孤立することが増えていった。

中3の春。結月も沙羅も別の高校に進むことになった。



卒業式の日は、雨だった。

『あいにくの天気ですが……』

校長先生の声を聞き流しながら、私は斜め前の席にいる沙羅をずっと見ていた。

結局、いつになったら忘れられるのだろう。

式が終わり、傘もささずに校門を出ようとしたとき。

ふいに頭上に影が差した。

振り返ると、そこにいたのは堀敬斗だった。

「華さん。中2の夏、図書館で君を見てから、一目惚れしました」

まっすぐな声。

「好きです。僕と付き合ってください!」

——この人なら、忘れさせてくれるかもしれない。

私は心にあるすべてを押し殺すように、差し出された傘を強引に下ろし、言った。

「私でよければ……よろしくお願いします」




「どうしたの?パフェ美味しくなかった?」

目の前で、彼氏——堀敬斗が心配そうにこちらを見ていた。

「うんん!美味しかった」

私は笑って返し、彼と手をつないで喫茶店を出た。

あれから2年。

季節はめぐっても、私の中の何かは、何ひとつ変わっていない。


普通とは何なのだろうか…。

よく「何歳ぐらいになったら結婚したい?」とか、「子供は欲しい?もちろん欲しいよね〜」など、様々な質問が投げかけられる。

正直、気色が悪いと思う。

少子高齢化のこの時代に言ってはいけないのかもしれないが、子供なんて——産む前に想像しただけで胸がざわつく。

でも仕方がない。本人たちには、何の悪気もないのだから。

結婚し、式を挙げ、子供を産む。それが「普通」。

みんな異性を好きになって、そうなることを望んでいる——そう信じて疑わない。

その前提で話をしているのだから、私の気持ちは存在しないことになってしまう。

けれど、私の中にぽっかりと空いた穴は、「普通の幸せ」では埋まらない。

だから私は、今日も明日も明後日も、ずっとずっと普通を演じ続ける。

いつか、世界中の恋バナが、「好きな人誰?異性?それとも同性?」から始まる日が来ればいい。

世界中で、同性結婚が当たり前になればいい。

そして誰もが、自分の気持ちに嘘をつかずに生きられる日が来ればいい。


そう願いながら、私は今日も生きていく。


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