第21話 藍の端切れを胸に
――朝の雁の宿。上の間は、白い布と静かな息づかいで満ちていました。
姿見の前に小さな台、仮縫い用の白布、待機する針山。窓からはやわらかな光。
「本日は仮縫いでございます、セレフィーナ様」
仕立て頭の女主人が、目尻をやさしく下げました。
マリーニャは、口に細い待ち針を三本くわえて、うきうきしています。
「背筋はそのまま。呼吸は止めないで」
「……はい」
台に上がると、白布が肩にかかりました。布が肌に触れる瞬間、未来がすっと形になる。
脇のあたりを撫でるように布が落ち、胸下で一度、仮の印。
「二の腕は――おや、よく締まっておいでですね」
仕立て頭が驚いた声を出し、マリーニャが得意げに頷きます。
「朝、型稽古を積まれておりますの。ぽにん様は、遠方へご旅行中でしてよ」
「もう、マリーニャ」
くすっと笑いがこぼれて、肩の力がほどけました。
「肩線は半分落とす。鎖骨は一筋だけ見せましょう。上品に、でも風が通る」
白墨がすっと走り、待ち針が星みたいに光る。
「袖は肘の少し上で――指先は自由に。――指輪の交換、ブーケを持つ手、抱き寄せられる時の所作が、いちばん綺麗に見える長さです」
「好きですわ」
裾に指が入って、ふわりと輪郭が整えられていきます。
「外の風が強い土地柄、裾に細い帯を入れて、ふわり過ぎないように。見えないところにごく軽い重りも」
「南部の風は、賢く扱うのですね」
「ええ、味方に」
「先日お選びになった薄手の表布に、内側はしなやかな裏打ちを。裾の内側に藍の蔓を細く――歩くたび、ほんの一瞬だけ覗く位置に」
「……さりげない自慢、ですわね」
「花嫁の特権でございます。手袋は肘下丈、指先は空けて。くるみ釦と同布で縁取りましょう」
背中はくるみ釦の並び。ひとつ、ふたつ、みっつ――マリーニャの指が器用に並べていきます。
「息、止めないで。はい、針、通りますよ」
「ちょ……ちくり、と」
「おお、これは縁起がよろしい。花嫁に一針は『幸運留め』と申します」
「そんな言い伝え、今お作りになりましたでしょう?」
「いいえ、昔からでございますとも」
(本当かしら)と思いつつ、痛みよりも、むずむずする幸福のほうが勝ちました。
「裾は、あと一寸だけ長く。階段で、布が歌うくらいに」
仕立て頭が、姿見越しに目を細めた。
「“歌う裾”、素敵ですわ」
扉の向こうから、ラウレン殿の控えめな声がした。
「新郎殿が通路幅の確認を、とのこと。裾の長さだけ、拝見願いたいそうです」
(まあ)
婚礼の衣を式前に見せるのは避けたい。けれど、外の動線と段差の具合は大切だ。
屏風を一枚立て、その手前に薄い白布をもう一枚、ふわりと垂らす。
「ロジオンは、こちら側を見ないお約束で」
「承知しました」
扉が静かに開き、彼の足音が近づく。視線を床へ落としたまま、薄布の向こうで止まった。
「セレフィーナ様……」
布一枚の向こうから届く声が、いつもより少し低い。
「裾、動かします。段差はこのくらい――」
ラウレン殿が木片で段を作り、わたくしは一段上って、ゆっくり半歩。
布の重さが足首を撫で、裾が小さく歌いました。
「……布の歌だけで、似合うのが分かってしまう。困ります」
向こう側のロジオンが、思わず漏らして、すぐに咳払い。
仕立て頭がにこりと笑って、針をひとつ休めます。
「丈は、今の歌い方がよろしいでしょう」
「では、ヴェールの試しを」
薄藍のオーガンジーが頭の上に落ちる。世界が一枚、やわらいだ。
端には、ほんの少しの藍の蔓文。光を受けるたび、水が流れるようにほどけていく。
「風に負けぬよう、端は細い撚り糸で押さえてあります」
(わたくし、いま、花嫁なのですね)
鏡の中で、胸の小鳥が、そっと羽を伸ばした。
「手袋は?」
「肘の少し下まで。指先は自由に」
「では、くるみ釦と同じ布で縁を。釦を留める練習も必要です」
「ロジオンの指は、器用ですから」
屏風の向こうで、かすかに息を呑む気配。
……わたくしの顔まで熱くなってしまって、いけません。
「内緒の印は、ここに」
仕立て頭が裾の内側に小さな点をひとつ。
「見えないところで、ふたりだけの目印。――これはセレフィーナ様からのご依頼と伺っております」
「はい。手を重ねたら、同じ方角を指すように」
言いながら、自分の声が甘くなるのが分かって、マリーニャが背中でくすり。
「通路幅、階段、風、日差し――問題なし。あとは、手の支えの位置だけ確認を」
ラウレン殿の段取りは、いつもどおり完璧でした。
薄布の向こうで、ロジオンの手がそっと上がる。布一枚を隔てて、わたくしの腰の高さに――空気だけの支えが置かれます。布が手の甲にふわりと沿い、温度だけが静かに透けてくる。
(この手が、本番では、直接ここに)
胸の鼓動が、ひとつ強く跳ねました。
「ありがとう。式では……ここで受けてくださいませ。角度は、今のまま」
「はい」
短い稽古みたいなやりとりなのに、足元がふわりと軽くなった。
仮縫いは佳境。
「背のくるみ釦は十六。最後のひとつは、新郎殿に留めていただくのがよろしい」
「仕立て頭、それは良い」
屏風の向こうで、ロジオンの声が少し笑いました。
針が止まり、白布が一度、すべての線を覚えます。
「本縫いに入ります。藍の刺繍は三夜ほど。胸の小鳥の居場所は、この辺りに空けておきますね」
「小鳥の居場所?」
「花嫁様の胸がよく歌うところ。布に秘密の余白を」
(なんて粋な仕立て)
台を降り、白布をそっと外すと、肩が少し寂しくなりました。
「……白が離れると、風が少し寒うございますね」
屏風の向こうで、彼が一礼して下がる。こちら側では、仕立て頭が裾の余りから小さな端切れをひと片、鋏でつまんで切り、わたくしの掌にのせました。
「新郎殿へ。色合わせと……お守りに」
わたくしは屏風の端から手だけをのばして、藍の端切れを差し出します。
「これを、胸に。式の上着に、そっと忍ばせてくださいませ」
「大事に預かります」
向こう側で、布の気配が上着の内ポケットに滑り込む。目は合わないのに、胸の奥だけが、ふっと近くなる気がしました。
内ポケットの上から、指先でそっと確かめる気配。
「よくお似合いでございました、セレフィーナ様」
仕立て頭が深く頭を下げ、マリーニャが針山を掲げます。
「本番まで、姿勢のお稽古を。針は容赦いたしませんから」
「肝に銘じますわ」
鏡の前にひとり残って、白布の余韻を胸でなぞる。
裾が歌い、蔓がのび、風が味方する――そんな一日が、目の前に。
そして、背中の最後のひと釦を留める手が、決まっているという事実が、いちばんの贅沢。
(次に袖を通すとき、わたくしは妻ですのね)
小さく息を吸って、笑いました。
幸せはもう、とっくに縫い始められているのですわ。
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