第17話 藍の蝶が揺れる丘で

 縄は朝露を吸って、少しだけふくらんでいました。白墨の印が杭の頭で光って、風が吹くたびに水糸が「すっ」と鳴る。まだ紙にもならない設計図が、地面の上に細い影だけを置いています。


「――ここに、お屋敷が建つのですわね。」


 わたくしは丘の上から見下ろして、胸の中でひとつ息を整えました。


「そして、これから私たちの故郷となる場所ですわ。」


 思えば――ひと月ほど前の夜のこと。

 魚骨通りの親分衆が連れだって雁の宿に押しかけてきて、「兄貴、建てさせろ!」と。廊下の角で誰かが壁に肩をぶつける鈍い音まで聞こえて、あの時は本当にびっくりしましたわ。

 でも、ロジオンとラウレン殿とが落ち着いて受けて、言葉はするすると段取りに替わっていく。「材は祝いで出す」「箱(会場)も祝いで出す」――勢いの良い南部の“決め方”、わたくし、ちょっと好きになってしまいました。


「はい。こちらが棟の通りになる見込みです。」


 丁張りの角に指を添えながら、ロジオンは風の向きを確かめるように視線を流します。


「応接は南に開いて、暖炉はこの面に据えるのがいいと思います。煙は西へ逃がせます。赤土の窯でレンガも焼けますから、南部の色の火になります。」


 扉も壁もまだないのに、わたくしには見えました。扉を開けた瞬間、ぱっと燃える火、そこへ吸い寄せられる笑顔。


「冬の日ほど、お客様はそこで心がほどけますわ。ティーセットは……この壁に低い棚を。藍の布を掛けて……お茶だけは、わたくしの手で温度を合わせたいのですわ。湯気がふわっと出てくるの。」


 目に見えない線を、空気の中に指で描きます。描くだけで、指先が温まるのです。


「水回りは風下に寄せます。竈は土間に、井戸からの動線はまっすぐ。歩数が少ないほど台所方の一日が軽くなります。」


 彼は地縄の上に見えない筋を描いて、足の幅で寸法を測るように一歩ずつ踏みます。


「台所の煙道と応接の暖炉の煙道は棟下でまとめて、太い一本にしましょう。屋根の鼠瓦から少しだけ顔を出す形で。」


 わたくしは頷きました。


「主屋は和の骨組み、応接だけ洋の暖炉。南部折衷って、本当に素敵ですわね。」


 筒から設計図を一枚引き出して、陽に透かします。紙の上の四角に指を置きました。


「ここが食卓。あなたが『よく働きました』と仰る場所。」


 きゅ、と指に力をこめると、隣から同じ強さが返ってきます。きゅ。むずむずする幸福が、胸の真ん中で跳ねました。


「寝所は、音からひと間だけ離しましょう。」


 東側の縄の内に進むと、白墨の小さな印がありました。


「――朝日は、こちら。ですから、将来の子ども部屋は、この並びがよろしいかと存じますの。」


 言いながら、自分の声が少しだけ軽く震えたのが、わたくしにも分かりました。


「廊下は広めに。小さな足音が、朝の光を蹴って走っていきますもの。」


「では、この角は丸めておきます。小さなおでこを守れるように。」


 ロジオンが杭の頭を指で弾くと、木が短く鳴りました。


「まぁ、予見が過ぎますわ。」


 笑ってみせながら、杭の曲線に掌を当てます。まだ冷たい木の感触。けれど、ここに置かれるはずの体温を、指先はなぜだか知っていました。


 そのとき、縄の外でバルドさんが手で日よけをつくって叫びました。


「兄貴ィ、姐さん、その縄は神さまの線で――あ、踏んでらっしゃらない! ありがてぇ!」


「踏みませんともー。」 手を振ると、胸元の視察札が「ちり」と鳴りました。音ひとつで、わたくしはこの街の中にいると、あらためて思います。


 少し黙ると、言葉がどこからか向こうから歩いてきました。

 わたくしは帽子のつばをそっと押さえて、いつもより大きな声で。


「――結婚式のことを、ここでお話ししてもよろしいかしら? 皆さまから、どこで、どういうかたちで、と……たくさん訊かれますの。」


「もちろんです、セレフィーナ様。」


 丁張りの影をひょいと跨いで、ロジオンがわたくしの隣に立ちます。距離はひと息ぶん。

 ロジオンが低く告げます。


「王都での正式な儀礼は避けられません。ですが――ここでも式を挙げたいのです、セレフィーナ様。上棟の日に合わせて。」


 胸のなかの小鳥が、ぱたぱたしました。


「わたくしも、まったく同じ考えでしたの。午前は地元の祝言を――職人衆と町の方々と。赤土の甘酒は皆さまにわたくしからお配りして、蜂蜜の薄餅は最初の一枚だけ、仕上げの蜂蜜をわたくしが垂らしますわ。」


「そして午後は南部披露の式を。陛下にも父にも、こちらへご来臨いただきましょう。南部がどう息づき、どれほど整っているか――この丘の風の中で、ご覧いただきたいのですわ。」


 そう言って、わたくしは息を整え、言葉を重ねました。


「そのうえで、王都でも父の顔を立てるきっちりした式を。」


「三段構えですね。よいと思います。」


 彼は砂地に膝をつき、指で図を描きました。


「こちらが南部――〈門〉を祝う並び。行列は風を背に。午後の披露では、御座所と退出の経路をここに。礼法は南部と王都の折衷で整えます。」


「こちらが王都――〈席次〉と〈証書〉。どなたがどこに座り、どなたが印を押し、どなたが祝辞を述べるか。」


「あなたの“現場”と“儀礼“が、一枚の図に並ぶの、好きですわ。」


 図の端に細い線を足して、ポケットから小さな藍のリボンを出しました。


「南部の藍で、結び目をひとつ。三つの式、どちらの胸元にも、同じ色を。」


 藍の端を受け取ったロジオンの耳が、ほんの少しだけ赤くなりました。


「よくお似合いになります。家にも、あなたにも。」


 その「あなたにも」で、心臓の位置がわかるくらい鼓動がはっきりしてしまって、困りました。わたくしは逃げ場所を探すみたいに、暖炉の印がついた地面にひざまずきます。白木の小さな杭。儀式というには可憐すぎ、遊びというには真剣すぎるもの。


「三度で足ります。」

「一度目は、私たちのために。」――ことん。

「二度目は、この土地のために。」――ことん。

「三度目は、いつか小さな足音のために。」――ことん。


「管理の杭じゃねぇから……セーフ!」


 遠くでバルドさんが誰にともなく宣言して、笑いが風にほどけます。わたくしは杭の頭に藍のリボンを蝶に結びました。藍色の蝶は、南部の風の上で小さく踊ります。


「南部の祝言の段取りは、あなたとラウレン殿と――それから皆さまと。」


 わたくしが言うと、


「わかりました。材の段取りはもう動いています。式の会場も、皆さんが“祝い”で出すと言っています。」


 ロジオンは、いつもの落ち着いた声で、でも少しだけ誇らしげに。


 “祝い”。

 舌の上でひとつ転がしてみます。借りでも請求でもない、火への返礼。ああ、こういう言葉が、この街にはあるのだわ――しみじみ嬉しくなりました。


 わたくしは彼の手を探して、指先だけを合わせます。きゅ。

 すぐに、同じ力が返ってきます。きゅ。胸の小鳥が、またぱたぱた。


「今夜、図面の余白に“音”を書き込みませんか。」


 ロジオンが笑みを含んだ声で言います。


「あなたの紅茶の湯の音、竈の火のはぜる音、門を叩く音、子の足音。家は音でも温度でも動きますから。」


「わたくし、その書き物が、いちばん好きになってしまいそうですわ。」


 そう返した瞬間でした。ふわり――肩口に、温かいものが添いました。

 ロジオンが、ほんの少しだけ、わたくしを抱き寄せたのです。強さではなく、重さでもなく、風と同じ加減で。


「……故郷、と仰ってくださって、嬉しいです。」


 耳元で、低い声。


「必ず、良い家にします。」


 頬が勝手に火照って、わたくしは背伸びをして、彼の頬に短い口づけをしました。触れたところが、ちゃんと熱くて、安心しました。彼も、額にも軽く触れてくれます。ちいさな「ちゅ」という音が、わたくしの一日を完成させる印のように響きました。


 丘の上の風が、藍の蝶をもう一度揺らします。視察札が、胸元で「ちり」。

 縄の上で、未来の間取りはすこし濃く、わたくしの心もすこし大きく。


――ここが、新しい街。


 そして、これから、わたくしたちの故郷となる場所ですわ。

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