「危ないッ！！」

　その瞬間、世界の進む速度が何倍も遅くなったかのように俺は感じた。

　目の前にいるのは、道路の真ん中で倒れ込み、訳も分からず呆然としている子供。そして左から迫るは、猛スピードのまま俺目掛けて突っ込んでくる暴走車。

　————衝撃。金属がひしゃげ、骨が砕け、内臓の弾け散る鈍い音が頭の内側から強く響く。凄まじい痛みの中、俺の目が最期に写したのは、ひしゃげ、血で真っ赤に染まった自分の肢体と、爛々と輝く太陽を浮かべた、雲一つない快晴の青空であった。

　目の前の横断歩道で、轢かれそうになっていた子供を咄嗟に突き飛ばし、その身代わりとして致命傷を負ったのだと、今更になって俺は気づく。

　

　ああ……俺、死ぬのか。

　身体中が、酷い風邪に冒された時のように熱い。だが、不思議と痛みは感じなかった。意識がふわりと宙に浮かぶような感覚に陥り、頭がぼんやりとし始める。急激な眠気に襲われ、視界が狭まり、徐々に世界が暗転していく。

　……まだ、やりたいことがあった。

　彼女が欲しかった。一生を共に添い遂げてくれるような、そんな人が。

　この世界を旅してみたかった。広大で、知らない事ばかりな、この世界を。

　

　嫌だ、死にたくない。こんな所で、生きるのを止めたくない。

　そう頭では強く思っているのにも拘らず、身体は異常なほどの冷静さを保ちながら、ゆっくりと死に行くための準備を始めていた。

　自分自身に裏切られ、見放されてしまうような感覚。

　それは、この二十数年余りの人生の中で受けてきたあらゆる苦痛が、全て幸福なことであったかのように思えるほど悍ましいものであった。苦痛という概念を大幅に振り切り、心そのものを掴まれて捩じ切られるような、そんな感覚であった。

　ああ……神様。

　もし貴方が本当にいるのなら、俺にもう一度、チャンスをくれませんか？

「すまぬが、私はそんな力を持っておらん……」

「そんな、じゃあ、僕はもう……」

　…………ん？

　誰だ？ 俺は今、誰と話しているんだ？

　

　半ばパニックになりながら、俺は瞼を開けて勢い良く起き上がった。

　辺りに広がっていたのは、驚くほど静かな白、白、白——。どういうことだ、先ほどまで俺は街中にいたはずなのに。しかも直前負ったはずの傷と、感じていたはずの苦痛が完全に消え失せている。

　一体ここはどこなんだ、死後の世界なのか？ いや、それよりも……

「……誰だ、あんた」

　目の前には、笑っているような、でもどこか泣いているような顔をした、全身皺だらけの老人が立っていた。彼は白く長い髪、そして髭を蓄えており、どこまでも眩しい純白のローブを羽織っている。

「勇敢な青年よ、異世界へ行く気はあるかね？」

「……はっ？」

　こちらを見据えた老人は、突拍子もなく俺にそんな質問を投げかけてきた。異世界？ 一体何を言っているんだ？

　酷く混乱する俺をよそに、彼は続ける。

「異世界……そこは、剣と魔法が栄え、多種族が混じり合っている地。もし、そこで良いと言うのなら、私は君の言う“チャンス”を、生き返りたいという願いを、叶えさせてやることができる」

　老人は、その細い目で、座り込んだ俺の顔を表情一つ変えることなく見つめながらそう言った。おかしい、目の前で動いているのに、同じ生き物とは甚だ思えない。

　なんとなく俺は、彼が人ではない何かなのだと確信していた。おそらく神。または、それに近しい何かなのだろう。

　恐らく、異世界の話も本当だ。俺には、目の前に立っている彼の眼差しが、嘘をついているもののようにはどうしても思えなかった。

　ゆっくりと、三度、深呼吸する。少しの平静を取り戻し、ゆっくりと立ち上がった俺は一言、老人に尋ねた。

「……どうして、俺なんだ？」

　老人は、少しきょとんと呆気に取られたような表情を見せる。そして、にこやかな表情を浮かべながら口を開けた。

「君は、自分より弱き者を守ったのじゃ、自分の命を代償にしてな。それだけで充分、あそこに向かうだけの資格は有しておる。新しい人生を歩むも、このまま死を選ぶも、君次第じゃ。さあ、どうする？」

　俺は、自分の口元にそっと左手を添えて少し、考える。

　あの世界で俺は、生きる意味を見出せたのか？

　そんな問いが、頭に浮かぶ。

　

　俺には、大切な人がいない。両親は早くに死んでいるし、親友と呼べる間柄の人間も、彼女も、子供も、俺にはいない。

　どうせ、生き返れはしないんだ。それならいっそのこと、新しい世界で全てをやり直す道を、選んだ方がいいじゃないか。

　そうと決まれば、答えは一つだ。

　俺は、真剣な表情で、目の前で笑みを見せる老人に言った。

「ああ、行くよ。いや、行かせてください。俺を、異世界に」

　俺の言葉を聞いた老人は、先ほどよりも増して、口角をにやりと上げながら口を開ける。

「よし。では、向こうに行く前に——」

　そう言った彼は、杖を自分の頭の上に掲げながら言った。

「一つ、力を授けておこう」

　すると、眩しく、純白に近い輝きを持った光が、杖の先端を中心にゆらゆらと渦を巻き始めた。そして数秒後、握り拳大の塊となったそれは、輝きを保ったままゆっくりと、俺の胸に吸い込まれていった。

「今、私が君に与えた力。その名を“リジェクト”と言う。それは、あらゆる事象を無に帰すことができる。ただし、お前一人では使いこなせん」

「……どういうことだ？」

「ははっ、内緒じゃよ……時が来れば、きっと知ることになる……さあ、選ぶが良い、お前自身の、正義をッ！」

　その見た目からは想像できないほど喝の入った声で、老人がそう叫ぶ。そして次の瞬間、俺の足元の床が黒く変色し、ガラスのように儚い音と共に崩れ落ちた。

　突然の無重力感に恐怖を覚えながら必死に手を伸ばすが、何かに掴まることは叶わない。俺は、無抵抗のまま真っ逆さまに落ちていった。

　落ちた先の空間は、先ほどと対を成すような、奥行きすらわからないほどの漆黒。穴も塞がり、完全に視界を奪われた俺は、次第に“落ちている”という現在進行形の事実すらも受け入れることができなくなり始めた。

　しかし、そんな中で俺は、自分でもびっくりするほど冷静に、この状況を受け入れることができていた。なんせ、俺は一度死んでいるのだ。先のあの感覚に比べれば、こんなの、どうってことない。

　俺は、もう一度生きることが出来るのだ。

　希望に満ち満ちた、およそ一分間の奇妙な浮遊体験。その後、俺の全身から、あらゆる力が失われていくのを感じた。それと同時に抗えない眠気に襲われ、意識がみるみるうちに混濁していく。

　——折角掴み取ったチャンスなんだ。この際、前の世界では出来なかったことを全部やって、悠々自適に暮らしてやるさ。

　そう強く思いながら、俺は再び微睡の中に沈んでいくのであった。