第13章 二つの舞台の始まり

1 九月の風


夏休みが終わり、九月の風は少しだけ涼しかった。

教室の窓から差し込む光は柔らかく、汗の匂いよりも鉛筆の木の香りが濃い。

それでも俺の胸は落ち着かなかった。


サッカー部は全国大会の予選突破を果たし、次は本戦。

「ここからは一つも落とせない」と監督は言った。

同じ週、早苗には大手事務所の公開オーディションの通知が届いていた。

「プロの登竜門」――ポスターにはそう書かれていた。


二つの舞台が、また同じ時間に並んで待っていた。



2 音楽室の決意


放課後。

音楽室の窓は夕日を受けてオレンジ色に染まっていた。

早苗は楽譜を広げ、声を重ねる。


「蒼太、今度のオーディションは本当に大事。……絶対に来てほしい」

「分かってる」


俺は鍵盤に触れながら答えた。

でも心の奥では、サッカーのスケジュールと重なっていることを知っていた。


黒瀬が譜面を閉じ、真剣な顔をした。

「俺が伴奏することもできる。でも、彼女が求めてるのは相馬だろ」


その言葉が胸に刺さる。

俺はうなずくしかなかった。



3 グラウンドの檄


夕方のグラウンド。

監督の声が響く。

「全国は甘くない! 一つの迷いが敗北を呼ぶ! 全員、覚悟を持て!」


仲間の視線が一斉に俺に集まる。

「相馬、頼むぞ」

「お前の走りがカギだ」


期待と圧力が重なる。

でも俺の胸には、もうひとつの声が響いていた。


――「来てね。振り向かせるから」

――「絶対来て」


二つの言葉が、同じ鼓動を引っ張っていた。



4 川沿いの約束


その夜、川沿いで早苗と会った。

風は少し冷たく、夏の名残と秋の気配が混じっていた。


「蒼太」

「ん」

「また言うね。……好き。何回言っても、同じ」

八度目の矢。


俺は目を逸らさなかった。

「俺も好きだ。だからこそ、迷ってる」

「サッカーと歌?」

「そう。どっちも大事なんだ」


彼女は小さく笑った。

「じゃあ、両方取ればいい。蒼太ならできる」


その声は揺るがなかった。

けれど、時間だけは待ってくれない。



5 黒瀬の背中


翌日、黒瀬に呼び出された。

「相馬。俺はもう迷わない。音大に行って、ピアノで勝負する」

「……すげぇな」

「でも、俺はお前に嫉妬もしてる。早苗を好きなことも、伴奏で響き合うことも」


黒瀬は苦笑した。

「だからこそ言う。逃げるな。お前が逃げたら、早苗は歌で泣く」


その言葉に、俺はただ頷いた。

黒瀬の背中は、もう未来に向かっていた。



6 前日の夜


全国大会とオーディションの前夜。

机の上にはスパイクと譜面が並んでいた。

汗でにじんだ紙の端。

〈高校生になったら、ちゃんと気持ちを言う〉

その文字はもうほとんど読めなかった。


俺は紙を握り、深く息を吸った。

「もう逃げない」

声に出すと、胸の奥で何かが固く結ばれた。



7 二つの朝


大会の朝、グラウンドは早くも熱を帯びていた。

笛の音が遠くで鳴り響き、仲間の声が重なる。

同じ時刻、ホールではリハーサルが始まろうとしていた。

早苗はマイクを握り、黒瀬がピアノに手を置いている。


「蒼太、来てくれるよね」

彼女は心の中で呟いた。

信じていた。


でも時計の針は、無情に同じ方向を指していた。



8 交差する鼓動


試合のホイッスル。

オーディションの開演ベル。

二つの音が、同じ時間に鳴り響いた。


俺はピッチを走りながら、もう一つの舞台を思い描いた。

早苗はステージで、俺の伴奏がないまま歌い始めた。

黒瀬が支え、観客が息を飲む。


二つの鼓動が胸で重なり、苦しくなる。

でも、どちらも俺のものだった。



9 最後の一分


後半終了間際。

スコアは1−1。

ボールが俺に回ってくる。

仲間の声が響く。

「相馬、行け!」


同じ瞬間、ステージでは早苗がサビに入っていた。

――「届いて、あなたに」


俺はボールを前に押し出し、全力で走った。

靴紐の結び目が汗で重い。

でも、解けてもまた結べる。

俺はその結び直し方を、もう知っている。


シュート。

ネットが揺れる。

歓声が爆ぜる。


同じ瞬間、早苗の声がホールを満たし、拍手が波のように押し寄せていた。



10 未来への橋


試合後。

俺は汗にまみれたまま、自転車を飛ばしてホールに向かった。

着いた時にはアンコールが始まっていた。




1 勝利のあとで


試合終了の笛が鳴った瞬間、グラウンドは歓声に包まれた。

「やったぞ! 全国だ!」

仲間たちが肩を組み、監督が空へ拳を突き上げる。


俺も確かに喜びを感じた。

でも胸の中にはもうひとつの熱があった。

――早苗の声。


喜びの輪から抜け出そうとした瞬間、キャプテンが俺の腕を掴んだ。

「おい、相馬。どこ行く」

「……用がある」

「用? これから打ち上げだぞ。全国に出るんだぞ」


俺は一瞬迷った。

けれど、唇が勝手に動いた。

「行かなきゃいけない場所があるんだ」


キャプテンの目が怒りで揺れる。

「またかよ……」

仲間たちのざわめきが背に突き刺さる。

それでも俺は腕を振り払い、バッグを掴んで走り出した。



2 ホールの終わり


オーディションの会場。

拍手が続き、早苗は舞台の中央で深く一礼した。

ライトの熱と汗で頬は赤く、喉は焼けるように乾いている。

でも胸の奥は澄み渡っていた。


袖に戻ると黒瀬がタオルを差し出した。

「よくやった。……最高だった」

「ありがとう。黒瀬くんが支えてくれたから」


黒瀬は少し笑って、視線を横に向けた。

「ほら」


早苗が顔を上げると、袖口に蒼太が立っていた。

ユニフォームのまま、汗に濡れ、泥のついたスパイクを片手に持って。

肩で息をしながら、それでも笑っていた。


「間に合わなかったけど……来た」


早苗の胸に、熱いものが一気に込み上げた。



3 楽屋で


観客が帰り始め、ホールのざわめきが薄れる。

楽屋には三人だけが残っていた。


早苗はペットボトルの水を飲み干し、蒼太を見つめる。

「勝ったの?」

「勝った。全国に行ける」

「……すごい」


黒瀬が椅子に腰を下ろし、息を整えながら言った。

「こっちも良い結果が出ると思う。審査員、かなり頷いてた」


沈黙が流れる。

三人の呼吸が、少しずつ整っていく。


蒼太は言った。

「俺……もう逃げない。サッカーも、音楽も、両方やる。欲張りでも、臆病でも、それが俺だから」


早苗は微笑んだ。

「うん。……それでいい」


黒瀬はしばらく黙っていたが、やがて立ち上がった。

「俺も決めた。俺は俺で、音大を目指してピアノを極める。……二人とは違う形で、また同じ舞台に立つ」


その瞳は澄んでいて、悔しさも含んで、でも前を向いていた。



4 川沿いの夜


会場を出て、三人で川沿いを歩いた。

夜風は涼しく、街灯が水面に揺れる。


「相馬」

キャプテンの声がスマホから飛び込んできた。

〈裏切るなよ。全国はお前なしじゃ勝てない〉


胸が痛む。

でも、横を歩く早苗の横顔を見て、決意は揺らがなかった。


「俺は逃げない。両方やる」

小さく呟いた声は、川の流れに消えた。


早苗は耳に届いたのか、ただ微笑んで、小指を差し出した。

「じゃあ、また更新。全国でも、オーディションでも、一緒に走ろう」


俺はその小指を握り返した。

黒瀬は少し後ろから二人を見て、静かに目を細めた。


三人の影が、川沿いの道に長く伸びていた。

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