第7章 間に合った声

1 走り抜けた先


「……間に合った」

ドアを押し開けた瞬間、肺が焼けるみたいに痛かった。

スパイクを脱いだままローファーに履き替えて自転車を漕ぎ、坂を下り、信号を二つ無視しかけて――ようやく辿り着いた。

袖の奥に並ぶスタッフの目が、一瞬だけ驚きに揺れる。


早苗が振り向いた。

マイクを握る手が震えていたのが、ぱっと緩む。

「……来た」

その声は、泣き笑いみたいだった。


黒瀬は無言で椅子から腰を上げた。

ピアノの前にあった譜面を、すっと俺に渡す。

「頼んだ」

短い言葉に、敵意はなかった。

けれど、その瞳には複雑な影があった。


譜面を受け取った瞬間、胸の奥で何かがほどける音がした。

――もう逃げられない。



2 ステージの光


名前が呼ばれる。

「エントリーナンバー十二番、早坂早苗さん」


ライトが一斉に降り、袖の暗闇が白に切り裂かれる。

俺たちはその光に向かって歩き出した。


ステージに出ると、客席のざわめきが波のように押し寄せては消えた。

黒い影の中で無数の目がこちらを見ている。

手のひらが汗で濡れる。

ピアノの椅子に腰を下ろすと、木の軋みがやけに大きく響いた。


「大丈夫?」

マイクを握り直しながら、早苗が小声で問う。

「大丈夫」

即答した声は、自分でも驚くほど真っ直ぐだった。


鍵盤に指を置く。

冷たい象牙の感触が、熱くなった心臓を落ち着かせる。

呼吸を整え、視線を早苗に向けた。

彼女が深く頷く。

それが合図だった。



3 始まりの音


最初の和音を響かせると、ホールの空気が一気に変わった。

残響が梁に触れて、柔らかく返ってくる。

その上に早苗の声が重なる。


「わ・た・し・は――」


川沿いで探した子音の角度が、ここで形を持った。

母音はまっすぐに伸び、観客席の奥まで届く。

俺は和音を薄く支え、余白を残す。

その余白に彼女の声が満ちていく。


二小節目で、客席が静まったのが分かった。

空調の音すら吸い込まれるように消え、声と伴奏だけが残る。


早苗は恐れずに言葉を前に押し出していく。

黒瀬が教えてくれた「半拍伸ばす」の工夫を思い出し、最後のフレーズでほんの少し呼吸を長く取った。

声がホールの隅まで滑らかに伸びていく。


鍵盤の上で俺の指も自然に走った。

彼女の声を落とさないように、最後の和音を深く支える。



4 終わりの静寂


最後の音がほどけ、残響がホールを一巡する。

静寂。

その無音が、いちばん大きな音に思えた。


次の瞬間、拍手が波のように押し寄せた。

客席が揺れる。

ライトが白く眩しい。

俺と早苗は頭を下げた。


顔を上げた彼女の横顔は、泣きそうで、でも笑っていた。

涙と笑顔の境界に立つその顔が、胸の奥に焼きついた。


袖に戻ると、彼女は小声で言った。

「ありがとう」

「……こっちこそ」

息を切らせながら返すと、背後から黒瀬がやって来て、静かに言った。

「よかった。……ほんとに」

その声に嘘はなかった。

だからこそ、俺は余計に痛んだ。



5 楽屋の余韻


楽屋に戻ると、緊張が解けて一気に疲労が押し寄せた。

ペットボトルの水を飲み干す早苗が、椅子に座ったまま俺に視線を向ける。


「蒼太。ほんとに来てくれて、よかった」

「約束したから」

「……うん」


その「うん」は、言葉以上の意味を持っていた。

彼女の目は、俺を責めるでもなく、ただ確かめるように見ていた。


黒瀬が機材を片付けながら口を開いた。

「ステージ、完璧だった。早苗さん、すごく良かった」

「黒瀬くんのおかげもある。リハで支えてくれたから」

「いや、今日は相馬の伴奏が引き出したよ」


黒瀬の言葉は真っ直ぐで、嫉妬も怒りもなかった。

だからこそ、胸の奥でまた小さな結び目がほどけていった。



6 夜の帰り道


公演が終わり、帰り道は川沿いだった。

街灯が水面を照らし、三人の影が並んで伸びた。

風が少し冷たく、汗を乾かしていく。


「明日、結果発表だね」

早苗が呟いた。

「緊張するな」

「でも今日は、歌えただけで満足」

そう言う顔は晴れやかだった。


黒瀬が歩調を合わせる。

「俺も楽しかった。また一緒にやろう」

「うん。ありがとう」

早苗は笑って答える。


俺は二人のやりとりを横で聞きながら、胸の奥がざわついた。

――彼女は俺に告白してくれた。

――でも隣で支えているのは、黒瀬だ。

その事実が、影を重くした。



7 二人きりの橋


途中で黒瀬と別れ、俺と早苗は橋を渡った。

川面に映る街灯が細かく揺れる。

沈黙が続き、歩幅が少しずつ揃っていく。


「ねえ、蒼太」

「ん?」

「わたし、何回でも言うよ。……好き」

四度目の矢だった。


俺は立ち止まり、欄干に手を置いた。

風が頬を冷やす。

――返事をしなきゃ。

――でも、何を言えば正しい?


「……ありがとう」

それだけを口にしてしまった。

弱い。情けない。

けれど、それしか出てこなかった。


早苗は小さく笑った。

「知ってるよ。蒼太が臆病なの」

その声は優しくて、逆に胸に刺さった。



8 結び目の行方


帰り道、彼女は少し前を歩いた。

白いワンピースの裾が街灯に揺れて、影が細く伸びる。

その背中を見ながら思った。


――彼女は夢に向かって進んでいる。

――俺はまだ立ち止まっている。

追いつくには、走るだけじゃ足りない。

言葉で、追いつかなきゃいけない。


ポケットの奥で、くしゃくしゃになった紙を指で触れた。

〈高校生になったら、ちゃんと気持ちを言う〉

文字は汗でにじんで読みにくい。

でも、その一行だけが俺を縛っている。


結び目はまだ固くならない。

形を保ったまま、揺れ続けている。

ほどけるか、結び直すか。

その選択の時は、もう近づいていた。



9 翌朝


翌朝。

教室に入ると、友達がスマホを見せてきた。

「なあ、これ見た? 昨日のオーディション動画、めっちゃ再生されてるぞ」


画面には、早苗の歌声が映っていた。

コメント欄には「心に刺さる」「本物の声」「次はプロになれる」――そんな言葉が並んでいた。


胸の奥が熱くなった。

同時に、置いていかれる恐怖も広がった。

彼女の夢は、もう俺の手の届かない場所に向かって走り出している。


でも――。

まだ間に合うかもしれない。

言葉さえ結べば。


俺は机の中で、くしゃくしゃの紙を握りしめた。

「ちゃんと気持ちを言う」

その約束を、今度こそ果たさなければ。

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