第5章 揺れる距離

1 合格発表のつづき


合格の紙の前で笑ったあと、俺たちはいつもの川沿いに出た。

春の風は軽く、欄干は昼のぬくもりをまだ残していた。早苗は「本番、来週の金曜だって」と言って、スマホの画面を俺に見せる。集合時間、持ち物、マイクの本数。現実的な文字が並ぶ。


「衣装、どうしよう」

「この前、白って言ってたろ」

「うん。光、拾うかなって」

「似合うと思う」

言った言葉が、薄いフィルムみたいに空気に浮かんで、川風でどこかへ流れる。

本当は、もっと重い言葉を載せるべきだった。

けれど俺は、まだ上手く乗せられない。


橋の下を電車が通り、低い音が川面を震わせる。

早苗はその振動で、胸の奥の何かを決めたみたいに言った。

「本番のあと、もう一回、話そう。返事、聞かせてね」

「……ああ」

結び目は、今日も固く、形だけを保った。



2 準備週間


本番までの一週間は、濃度が違った。

昼はクラス、放課後はグラウンド、夕方は音楽室。

三つの速度が俺の一日を引っ張り合い、そのつなぎ目にいつもの譜面台の傷がある。

古い木の表面に走る爪痕は、前よりも深く見える。焦って立てた爪の跡。待ちきれない誰か。


「マイク、ワイヤレス一本しかないって」

「じゃあ、ピアノはラインで拾って、歌に寄せよう」

黒瀬は実務が早い。先生との交渉も、音響の確認も抜かりがない。

俺は鍵盤に手を置き、早苗の呼吸に合わせて“言葉の曲”を何度も通す。

「子音、いい」

「朝の川の角度、覚えてる」

短い会話に、長い年月が折り畳まれている。


練習の終わり際、黒瀬が言った。

「本番のあと、打ち上げ、行かない? 近くのファミレス」

「いいね」

早苗は笑う。視線が一瞬、俺を探す。

「俺は……たぶん行ける。部活、早く抜けられたら」

「無理すんなよ」

黒瀬は軽く言う。その軽さが、俺には重い。



3 当日


金曜日の空は、朝から薄い白だった。

教室は昼には浮つき、四限の鐘が鳴るころには、体育館の裏に人の流れができていた。

控室の音楽室は、いつもよりよそ行きだ。

ワイヤレスマイクの緑のランプ、ガムテープで貼られたケーブル、リハ待ちのざわざわ。

ピアノの椅子に座って高さを確かめる。鍵盤に手を置くと、指先に汗がにじむ。


「大丈夫?」

早苗が小声で聞く。

「大丈夫。……早苗は?」

「相馬がいるから」

このやりとりは、もう儀式みたいなものだ。

彼女は白いワンピースを着ていた。光を拾いすぎないよう、布は少しだけマット。

見ていると、胸の内側が静かに落ち着く。

――ちゃんと、守りたい。


出番直前、黒瀬が譜面を差し出した。

「最後のブレス、半拍遅らせる? ホール、残るから」

「いける」

俺は短く答える。

早苗はマイクを握り直し、深く吸った。


ステージ。

ライトが前を白く焼き、客席は影になる。

最初の和音。

最初の子音。

川沿いの朝で探した角度が、今夜の空気で輪郭を持つ。

二小節目で、ざわめきがひとつ沈む。

最後のフレーズ、半拍、伸ばす。

残響がほどけ、拍手が押し寄せる。


袖で、早苗は小さく笑って泣いた。

「気持ちよかった」

「よかった」

黒瀬が肩を叩く。「完璧」



4 打ち上げのあと


ファミレスの明るい白色灯、氷の音、油の匂い。

テーブルの上にはポテトとソーダ。

合格組が集まって、ひとしきり騒いだあと、解散の流れになった。

店を出ると、夜の風が顔の熱を奪う。


「相馬、先に帰る?」

早苗が聞く。

「顧問に呼ばれてる。少し遅れる」

「そっか」

「ごめん」

「謝らないで」

また、その言葉。

上手くなってほしくない言葉。


俺が顧問に顔を出して戻ると、校門の脇に黒瀬と早苗の影が二つ、重なって伸びていた。

近づく前に、黒瀬の声が風に乗る。

「……早苗さん。好きです。よかったら、付き合ってください」

足が止まった。

心臓の内側で、何か細いものがはじける音がして、すぐに静かになる。

早苗は、少し間を置いて、返した。

「ごめん。……いまは、返事できない」

黒瀬はうなずいた。「分かった。急がない。待つよ」

声はまっすぐで、きれいだった。

俺が持ち歩けなかった種類のまっすぐさ。


俺は気づかれないうちに、校舎の影に身を寄せた。

ひと呼吸遅れて、足音を立てて歩き出す。

「おつかれ」

「おつかれ」

三人で交わす言葉は、短い。



5 二度目の矢


翌日。

音楽室。

昨日のステージの余熱が、まだ床板に残っている気がした。

譜面台の傷は相変わらずそこにあって、今日だけ、やけに新しく見える。


「蒼太」

早苗が言う。

「うん」

「もう一回、言わせて。わたし、蒼太のことが好き」

二度目の矢は、迷いのない角度で飛んでくる。

俺は受け止め方を探す。

――俺も。

――でも今は。

――サッカーが。

喉の前で、語尾が溶ける。

「……ごめん。いま、返事が怖い。壊すのが怖い」

言ってから、自分が一番臆病な言葉を選んだと分かる。

早苗は目を閉じて、小さくうなずいた。

「うん。分かった」

“分かった”の奥に、細いひびが走る音がした。


その日の帰り道、彼女はいつもより少し速く歩いた。

俺は半歩分の距離を保つのに必死だった。



6 渋々のはじまり


週が明けると、空気は別の形を覚え始めた。

昼休み、屋上で「相馬って彼女いるの?」と笑って聞かれる。

廊下で「写真撮ろ」と腕を引かれる。

軽い質問に軽い返事。

軽い約束が、時間を薄く切っていく。

放課後の音楽室に入ると、黒瀬が先に来ていた。

「相馬、今日は委員会?」

「途中まで。……あとで行く」

「OK」


その日の帰り際、校門で早苗と黒瀬が並んでいた。

俺が近づくと、彼女は一度視線を落として、それから上げた。

「蒼太。……黒瀬くんと、付き合ってみることにした」

心臓の結び目が、音を立てずに崩れる。

「……そうか」

それしか言えなかった。

黒瀬は一歩前に出て、俺に軽く頭を下げた。

「相馬。ごめん。でも、ちゃんと大事にする」

敵じゃない。

けれど、味方でもない。

その間に立つ相手の言葉は、まともで、だからこそ刺さる。


帰り道、川沿いの風は変わらない。

欄干の冷たさも、電車の低音も、木の匂いも。

変わらないものの中で、変わったものだけがやけに明るく見えた。

俺と早苗の影は、交わらずに並行したまま、少しずつ距離を開く。



7 音楽室の並び順


付き合い始めたあとも、三人で合わせることは続いた。

並び順が少し変わっただけだ。

ピアノのベンチで、中央に黒瀬、右に俺、立ち位置に早苗。

黒瀬が中域を支え、俺が旋律の縁を磨く。

早苗の声は、その上を飛ぶ。

音は強い。

強いけれど、俺の中の“速度”とはズレたまま、正確だ。


休憩のとき、早苗が水を飲み、黒瀬がハンカチを差し出す。

自然な動作。

俺は窓を開け、風の角度を変える。

「乾燥しすぎると、子音、痛くなるから」

「ありがと」

早苗は俺に笑い、すぐ黒瀬にも笑う。

二つの笑顔は似ている。けれど、どちらも完全に同じではない。

その差分を、俺だけが過剰に拾ってしまう。


譜面台の傷に指を置く。

木目の起伏が、やけに細かく伝わる。

待ちきれなかった誰かの爪痕。

今日、それが俺自身の指の跡に少しだけ重なる。



8 夢の向き


ある日、練習の終わりに、早苗が言った。

「ねえ、公開オーディション、出てみようと思う。街のやつ。配信で審査するの」

「配信?」

「歌、動画で上げるやつ。一次は音源、二次は公開ステージ。……怖いけど、挑戦したい」

黒瀬が頷く。「いいと思う。録音、手伝うよ。マイク、借りられる」

俺は言葉を探す。

胸のどこかで、別の感情が音を立てる。

――俺に“返事を待つ時間”が、彼女を前に押し出した。

その事実が、痛い。


「蒼太」

早苗がこちらを見る。

「聴いてね。わたし、もっと、ちゃんと歌手になりたい」

眼差しの向きは、未来に固定されている。

俺は小さくうなずいた。

「聴く。ずっと」

その言葉には、嘘がない。

けれど足りないものも、確かにあった。



9 動画の夜


録音の日。

放課後の音楽室は、いつもより静かに整えられていた。

黒瀬がスタンドマイクを立て、スマホを三脚に固定する。

窓は半分だけ開け、外音は薄く。

「一発でいける?」

「いける」

早苗は短く言い、目を閉じて呼吸を整える。


最初の子音で、部屋の空気が変わる。

俺はピアノに手を置かず、ただ聴いた。

音が、画面の中に吸い込まれていく。

「もう一回」

「もう一回」

それが三回続いた。

四回目で、早苗は小さくうなずいた。

「これでいこう」


撮り終えた動画を、黒瀬が確認する。

「いい。最後、震えた」

「怖かったけど、出すね」

早苗はスマホを胸元で握り、送信の矢印を押した。

小さな電子音が、彼女の未来をひとつ進める。


帰り道、川沿い。

早苗は言った。

「わたし、相馬に振り向いてほしい。だから、ちゃんと夢に向かう。……変かな」

「変じゃない」

言葉はすぐに出た。

「ごめん」じゃなく、これが最初に出た。

彼女は笑った。

「じゃあ、見てて。振り向かせるから」

冗談みたいに言って、本気の目で笑った。



10 置いていかれる速度


翌週。

配信サイトの視聴数は、数字で増える。

ハートのマーク、コメント、シェア。

「この子、うまい」「言葉が刺さる」「生で聴きたい」

画面の向こうから伸びる声は、俺の知らない誰かの体温を持っていた。


サッカー部では、練習試合で一点取った。

監督に肩を叩かれ、「リーグ戦、出すかもしれん」と言われた。

嬉しい。

けれど、嬉しさの輪郭が、少しだけぼやける。

二つの速度が、俺の両腕を別々に引っ張る。

譜面台の傷は、今日もそこにある。

爪の跡と木目の隙間に、埃がほんの少し溜まっていた。

誰も、それを拭えない。



11 三度目の矢と、言えない語尾


公開オーディションの一次通過の通知が来た夜。

早苗からメッセージ。

『通った! 二次、来月。ステージ』

『おめでとう』

返したあと、数秒置いて、彼女からもう一通。

『……やっぱり、好きだよ。何回言っても、変わらない』

三度目の矢は、画面越しで、角度はやっぱり真っ直ぐだ。

俺はスマホのキーボードの上で指を止める。

――俺も。

――けど今は。

――待ってほしい。

どの語尾も、彼女の歌を曇らせる。

結局、俺は送らない。

既読だけが、夜の画面に冷たく残る。


布団の中で、天井の木目はまた音符に戻らない。

〈高校生になったら、ちゃんと気持ちを言う〉

スポーツバッグの底の紙は、汗で端が丸まって、読みづらい。

読みづらいのは、文字のせいじゃなく、俺のせいだ。



12 指切りの更新


週末の夕方、川沿いで待ち合わせた。

オーディション二次の会場の下見をする前に、少しだけ歩く。

沈黙が続いても、呼吸は揃う。

いつもの欄干の前で、早苗が立ち止まった。

「ねえ」

「うん」

「指切り、覚えてる?」

中学の冬、受験前にしたやつ。

「覚えてる」

「更新しよ。わたし、歌手になる。二次も、受かる。いつかもっと大きいステージに立つ。……そのたびに、もう一回だけ、相馬に好きって言う。約束」

「それ、俺の約束も必要?」

「うん」

「じゃあ……俺は、逃げないで、ちゃんと聴く。ちゃんと答える。――いつか、遅れずに」

弱い。

遅れずに、がすでに遅れている。

それでも、いまの俺には、それしか言えなかった。


ふたりで小指を絡める。

指先は、少し汗ばんでいた。

結び目は、ほどけないように、また形を変えて固くなる。

その結び目の向こうで、早苗の“夢”は、はっきりとした足取りで進み始めている。


帰り際、彼女は振り返って言った。

「振り向かせるから。ちゃんと」

川風が拾って、言葉を遠くまで運ぶ。

俺はその背中を見て、初めてはっきりと、自分が置いていかれつつある速度を自覚した。

追いつくのは、走るだけじゃ無理だ。

言葉で、追いつかなきゃいけない。


でもその夜も、俺はまだ、言葉の結び方を思い出せずにいた。

譜面台の傷は、暗い音楽室の中で、たぶんいつも通りそこにあって、

待ちきれない誰かの爪痕の上に、俺の指の跡を、静かに重ねる日を待っていた。



新しい空気


黒瀬が告白してから数日後。

早苗はしばらく迷っていたようだった。

けれど、週明けの帰り道、校門の前で俺に言った。


「……黒瀬くんと、付き合ってみることにした」


街灯の光が白く彼女の横顔を縁取る。

その表情は、決意と迷いが同居していて、笑顔とは少し違っていた。


俺は、答えを探した。

――おめでとう、と言うべきか。

――やめろ、と言うべきか。

喉に浮かんだ言葉はどれも、正しく聞こえなかった。


「……そうか」

結局、それしか言えなかった。


黒瀬は一歩前に出て、真っ直ぐに俺を見た。

「相馬。ごめん。でも、ちゃんと大事にする」


その言葉は、敵意じゃなかった。

だからこそ、余計に刺さった。



2 音楽室の並び


付き合い始めても、三人での練習は続いた。

ただ、並び順が少し変わった。


ピアノのベンチには中央に黒瀬、右に俺。

譜面台の前に立つ早苗。


黒瀬が中域を支え、俺が旋律を磨き、早苗の声がその上を飛ぶ。

音は強い。厚みがある。

けれど、その速度は俺と早苗が昔から持っていたものとは、どこか違っていた。


練習の休憩中、黒瀬がハンカチを差し出した。

「汗、拭く?」

「ありがとう」

早苗は受け取り、笑った。

自然な動作だった。


俺は窓を開けて風を入れた。

「乾燥しすぎると、子音、痛くなるから」

「ありがと」

早苗は俺にも笑った。


二つの笑顔は似ていた。けれど、同じではなかった。

その差分を、俺だけが過剰に拾ってしまう。



3 川沿いの沈黙


帰り道は三人で歩くことが増えた。

川沿いの道を、黒瀬が少し前を歩き、俺と早苗が並ぶ。

けれど会話の中心にいるのは黒瀬で、俺は合いの手を入れる程度だった。


「二次のオーディション、機材どうする?」

「録音、俺が家で環境作れるから」

「ほんと? 助かる」

二人の声が前に飛び、俺の耳に後から届く。


川面に映る街灯の光が三つ並んで揺れる。

俺たちの影は、交わらないまま並行した。


「相馬、静かだな」

黒瀬が振り返って言った。

「……考えごとしてた」

「サッカー?」

「まあ」

笑ってごまかした。

本当は、考えていたのはサッカーじゃなく、ふたりの並び順だった。



4 三度目の告白


ある夕方。

練習を終えて、黒瀬が先に帰ったあと、音楽室に俺と早苗が残った。

窓の外は群青に変わり、鍵盤に映る光はほとんど消えている。


「蒼太」

「ん?」

「……やっぱり、好き。何回言っても変わらない」


三度目の矢。

彼女の目は、まっすぐだった。

黒瀬と付き合っているはずなのに、その矢は俺に飛んできた。


俺は答えを探した。

――俺も。

――けど今は。

――ごめん。

語尾を決められないまま、沈黙が流れた。


早苗は小さく笑った。

「いいよ、返事はいらない。わたしが勝手に言ってるだけだから」


その笑顔は、泣くよりも痛かった。

泣いてくれた方が、まだ救われた。


譜面台の傷に指を置く。

木目の起伏が、爪の跡に触れる。

待ちきれなかった誰かの痕。

その上に、俺の指も重なっていた。



5 夢の方向


数日後、早苗が言った。

「ねえ、公開オーディション、出てみようと思う」

「公開?」

「街のやつ。動画で歌を送って、通ったらステージ。……挑戦したい」


黒瀬がすぐに頷いた。

「録音、手伝う。マイクもあるし、環境作れる」

「ほんと? ありがとう」


二人の会話はスムーズに流れていく。

俺はただ「いいな」とだけ言った。

胸の中で別の声が響く。

――俺が返事を遅らせた時間が、彼女を前に押し出した。


その夜、川沿いで早苗が言った。

「相馬に振り向いてほしい。だから、夢に向かう。……変かな」

「変じゃない」

即答できた。

その言葉に嘘はなかった。


「じゃあ、見てて。振り向かせるから」

彼女は冗談みたいに言って、本気の目で笑った。


川面を風が撫でる。

その風は、俺の胸の結び目をまた揺らした。

ほどけそうで、ほどけない。

結び直そうとしても、指が震えて上手くいかない。


――夢は、彼女を未来へ連れていく。

その速度に、俺はまだ追いつけていなかった。

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