第4章 すれ違う影
1 オーディションのあと
翌週の月曜、掲示板にオーディションの結果が貼り出された。
「合格者一覧」という紙の真ん中に、黒いゴシック体で名前が並ぶ。
その二行目に、はっきりと――
『早坂早苗 / 自由曲』
「やった……」
小さく漏れた声を、俺は隣で聞いた。
彼女の肩は、数日分の緊張を解かれたように、すっと軽くなった。
「おめでとう」
「ありがとう。……蒼太のおかげ」
「いや、早苗の声があったから」
言葉を交わしながら、胸の奥では別の響きがあった。
――あの日、ギリギリで辿りついた俺を、彼女は“信じてる”って言ってくれた。
その借りを、ちゃんと返せる日は来るのか。
彼女は笑って、合格者一覧に視線を戻す。
その横で、俺の目は別の行に止まった。
『黒瀬隼人 / ピアノソロ』
名前は、早苗のすぐ下にあった。
「黒瀬くんも合格だ」
「うん」
早苗は純粋に喜んでいた。
俺はうなずきながら、心臓の奥で小さな棘を抱え込む。
黒瀬の演奏は、確かに正確で、美しかった。
けれど――。
俺の伴奏と早苗の歌は、ただの正確さを越えて、もっと別のものを持っていたはずだ。
そう信じたかった。
⸻
2 昼休みの屋上
数日後の昼休み。
サッカー部の連中に引っ張られて、俺は屋上へ出ていた。
「相馬、お前ってほんとモテるよな」
「合唱の早坂と一緒にいたろ? あれ、彼女?」
軽口混じりの言葉に、笑ってごまかす。
「違う。ただの幼なじみ」
口にした瞬間、胸に針が刺さった。
“ただの”ってなんだ。
彼女は俺に告白したんだ。
俺は、まだ返事をしていない。
ただ先延ばしにしているだけだ。
笑ってごまかす俺を見て、後輩たちは面白がる。
「でも早坂さん、可愛いよな。声もきれいだし」
「黒瀬と組んでるの、似合ってる感じする」
「相馬はどう思う?」
喉が詰まる。
「……さあな」
曖昧に返すと、笑い声に紛れて会話は流れた。
けれど胸の奥では、曖昧さがじわじわと重さに変わっていく。
⸻
3 夕方の音楽室
放課後。
俺が音楽室に着いたとき、すでに早苗と黒瀬が合わせていた。
ピアノの正確な和音と、彼女の声。
窓から差し込む夕陽が、ふたりを同じ色に染めていた。
「蒼太!」
俺に気づいた早苗が笑顔で手を振る。
黒瀬は椅子から立ち、少し距離を取った。
「相馬、今日もありがとう。途中からでも一緒にやろう」
三人で合わせると、音は厚みを増した。
黒瀬が中域を支え、俺が旋律を補い、早苗の声がその上を飛ぶ。
完成度は確かに高い。
でも、その中で俺の心はざわついた。
――この音楽は、俺と早苗だけのものじゃない。
当たり前のことなのに、割り切れない。
練習が終わると、黒瀬が早苗に声をかけた。
「早苗さん、来週のステージ、衣装どうする? 照明に映える色がいい」
「そうだね。白いワンピースとか、どうかな」
ふたりの会話は自然で、俺は割り込めなかった。
「じゃあ、また明日」
黒瀬が去ったあと、音楽室に残ったのは俺と早苗だけだった。
沈黙を破ったのは彼女だった。
「ねえ、蒼太」
「ん?」
「この前の告白……やっぱり、返事聞きたい」
真っ直ぐな目に射抜かれて、俺は言葉を探す。
けれど喉は乾いて、音にならない。
代わりに出たのは――。
「……ごめん。まだ答え出せない」
彼女は小さくうなずいた。
「分かった。……待つよ」
その声には笑みが混じっていたが、目の奥には寂しさが隠れていた。
⸻
4 夜の帰り道
川沿いを歩く帰り道。
桜並木はすでに緑の葉を繁らせ、風に揺れてざわめいている。
街灯に照らされる彼女の影と俺の影は、道の上で交わったり離れたりする。
「ステージ、楽しみだね」
「……ああ」
「蒼太が隣にいてくれるの、すごく心強い」
「俺も……一緒にできてよかった」
言いながら、胸の奥で自分を責める。
どうして“好きだ”って言えないんだ。
彼女は何度も勇気を出してくれているのに。
俺は、また先延ばしにしてしまった。
沈黙のあと、早苗がぽつりと言った。
「夢、叶えたいな。もっと大きなステージで歌いたい」
その声は決意に満ちていて、俺は思わず横顔を見た。
その表情は、もう俺だけのものじゃなく、未来の観客に向いていた。
俺は胸の奥でひとつ、結び目を強く引いた。
――もし彼女が俺を振り向かせるために夢を追うのなら。
その夢に、俺はどう向き合うべきなんだろう。
川の流れは変わらない。
けれど俺たちの影は、少しずつ別の方向へ伸び始めていた。
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