第3章 川沿いの発声
土曜日の朝は、空気がまだ折りたたまれたままみたいに薄かった。
川沿いの遊歩道は、ジョギングする人の靴音が一定のリズムで遠ざかっては近づき、橋の下でいったん吸い込まれてから、また開けた空に戻っていく。欄干に腕を置くと、金属が夜の冷えを少し残している。
早苗は、ストレッチをしながら鼻歌で音階を作っていた。
「おーあーいーえーうー」
母音が順番に並ぶ。彼女は母音の角度を、顔の向きで調整する癖がある。空に向けたときは高い音、川面に向けたときは中音、地面に向けたときは低音。
「今日は“言葉の曲”の子音、ちょっと立てたい。息の手前で噛む感じ」
「噛みすぎると、痛い発音になる」
「痛い手前で止めたい」
やりとりの短さに、何年分もの練習がたたんで入っている。
俺はスマホのメトロノームを40に落として、拍の隙間を広く取る。拍の間に、彼女の呼吸の出入りを見せるためだ。
「いこう」
彼女の吸気が背骨を一本ずつ点灯させていく。最初の言葉が、柔らかく川風に乗った。
「わ・た・し・は――」
子音がほどける寸前で芯を残し、母音が前に出る。
「今の“わ”、いい」
「右の奥歯で止めた」
「そのまま“た”に渡して」
ふたりで笑う。朝の空はまだ低く、笑いはその天井で反響して戻ってくる。
三回目の通しのあと、彼女は水筒を飲みながら、ふっと笑った。
「こういうの、やっぱり好きだな。秘密基地みたい」
「バレない合図がある感じ」
「川の音が合図」
「ジョギングの折り返しが、テンポのカウント」
他愛のない会話が、声帯の緊張をほぐしていく。
ベンチに並んで座ると、ポケットの中で紙が当たった。
〈高校生になったら、ちゃんと気持ちを言う〉
折り目が増えて、角が少しふやけている。
いま言えばいい。朝は残酷なほど正直だから、飾りが剥がれて、ただの言葉だけが残る。
「早苗」
呼ぶと、彼女はカップのふちから目だけを上げた。
「この前の、返事……」
言おうとした瞬間、俺の背後から自転車のブレーキ音がして、部活のジャージの先輩が手を振った。
「相馬! おー、こんなとこで。今日の午前、練習、時間早まったぞ! コーチ来るって。集合九時!」
腕時計は8:18。
「了解です」
俺は答え、先輩は「悪いな、急だけど頼む!」と走り去った。
彼女は、気にしないように笑った。
「行っておいで。走ってる相馬、好きだよ」
“好き”が、またここに置かれた。
「……ごめん。夕方、音楽室、行ける」
「うん」
彼女は立ち上がって、ストレッチの続きに戻った。
俺は走り出す前に一度だけ振り返る。
彼女は川面に向かって、もう一度“わ”の位置を確認していた。
声は、朝の低い空に綺麗に馴染んでいた。
⸻
その日の練習は、いつもより密度が濃かった。
「相馬、ワンタッチ速い。判断も速い」
コーチの声は具体で、褒められるたびに体が前に出る。ボールの軌道、味方の視線、相手の重心。全部が一列に並ぶ瞬間がある。
――音楽室で、声と伴奏がはまる瞬間に似ていた。
はまる気持ちよさは、どちらも本物で、どちらも同じ強さで俺を引っ張る。
シャワーを浴びながら、俺はさっきの川沿いの“好き”を反芻した。
言葉は短いのに、意味は長い。
返事を遅らせるだけで、意味は別の形を獲得してしまう。
急がなきゃいけないのは、練習じゃなく、言葉の方かもしれない。
そう考えるたび、胸の結び目は、汗で固くなる。
夕方の音楽室。
窓の外はオレンジから群青への縞模様で、ピアノの黒は色を飲み込んでいく。
「今日、黒瀬?」
「来るって。短めだけど」
「先に合わせよう」
俺たちは二人で始める。
言葉の角が、今日の朝より少し滑らかになっている。
「朝、川、効いたね」
「うん。息の角度、外でやると分かる」
途中で黒瀬が入ってきた。
「ごめん。遅くなった」
柔らかく笑って譜面を広げる。「中域、今日少し薄くする。早苗の子音、前に出したい」
俺は頷く。
三人の音は相変わらず強い。
強いが、俺と早苗が昔から持っている“速度”とは、少し違う。
黒瀬のリズムは、合唱で磨かれた均整がある。ゆえに崩れない。崩れない場所は、頼りになる。
休憩のとき、黒瀬が応募用紙のコピーを取り出した。
「当日のタイムテーブル、出たって」
紙には、出演順と集合時間。
早坂早苗:16:20集合/17:05出番
小さく、会場の注意事項。伴奏者のリハは16:00まで。
俺は時刻表の数字を追って、口の中が乾いた。
同じ日に、サッカー部の練習試合。顧問に言われていた。
〈集合16:00〉
時間が重なる、という事実だけが、黒い点になって視界の真ん中に居座る。
「相馬?」
早苗が顔を覗き込む。
「……その日、練習試合」
言ってから、空気が一段下がる音がした。
「集合、16時。出られないことは、ない。けど、リハに間に合わないかも」
黒瀬が軽く息を吸って、言葉を丁寧に置いた。
「リハ、最悪なくても、本番で合わせればいける。でも、できれば通したい」
早苗は一瞬だけ視線を落とし、すぐに戻した。
「大丈夫。……大丈夫だよ」
その“大丈夫”は、二回目の方が小さい。
俺は顧問に相談しようと決めた。
〈前半だけ出て、途中で抜けられませんか〉
〈伴奏のリハが〉
言えば、分かってくれるだろうか。
“部活の両立”という曖昧な言葉で、現実の時刻表が動いてくれるだろうか。
練習が終わる直前、早苗が鉛筆を持った。
応募用紙の「伴奏」欄の(仮)に、やさしく色を重ねる。
消すのではなく、濃くする。
「仮、いまは、残しておくね」
「……ごめん」
「謝らないで。間に合わせよう。間に合うって、信じたい」
信じる、の主語が誰なのか、俺は確かめられない。
彼女が俺を信じるのか、俺が俺を信じるのか。
たぶん、両方だ。
⸻
翌週。教室は、俺の知らない速度をさらに獲得した。
昼休み、机の上に折り鶴みたいに折られたメモが置かれている。
〈相馬くん、放課後少し話せますか?〉
廊下で呼び止められる。「相馬、写真一緒に撮ろ」「相馬くんって、彼女いるの?」
軽口で返しながら、軽い返事しか持っていない自分に気づく。
軽い返事は、軽い約束を生む。軽い約束は、重い時間を奪う。
放課後の音楽室のドアに手をかける前、俺の手には軽い約束の重さが残っている。
「今日、相談、した?」
部屋に入ると、早苗が振り返った。
「顧問に?」
「うん」
「……した。前半出て、途中で抜けさせてくださいって」
「なんて?」
「『勝負どころだぞ』って」
それは否定ではない。けれど、肯定でもない。
「調整、する。なんとかする」
俺は言う。
言いながら、靴の紐を強く結び直す。強く結びすぎると、ほどきにくくなる。
黒瀬が来た。
「今日、通す?」
「通そう」
三人で通した。
最後のフレーズ、早苗は一段強く踏み込んだ。
歌詞の末尾に、微かな笑いが混ざる。
「いまの、いい」
俺が言うと、彼女は息を吐いて、笑った。
「相馬がいると、最後、怖くない」
その一言に、音楽室の空気が一気に軽くなる。
俺は、何かを持っているのだと思う。
彼女を怖くなくする何か。
それを自分で壊したくない。
⸻
オーディション三日前。
顧問から回ってきた連絡には、相手校の監督が視察に来ると書いてあった。
〈レギュラー選考を兼ねる〉
文字は簡潔で、意味は重い。
音楽室では、黒瀬がメトロノームを止めた。
「最後の伸び、半拍長く取ろう。会場、残響あるって」
「OK」
早苗は頷き、俺の方を一瞬見る。
目は言った。
――来てね。
俺の目は返した。
――行く。
口では言えない約束を、目で結ぶ。
結び目は、今度こそ固い、と信じたい。
帰り際、黒瀬が廊下で立ち止まった。
「相馬。無理なら、俺、弾けるから。最悪のときは、言って」
敵意じゃない。純粋な保険の申し出だ。
それが、一番堪える。
「ありがとう。……でも、俺が弾く」
「分かった」
黒瀬は、それ以上言わなかった。
彼の“分かった”は、軽くも重くもなく、ただ真っ直ぐに床に立つ。
⸻
前日。
サッカー部の顧問は、練習後のミーティングで言った。
「明日、遅刻早退なし。全員、16時集合。遅れたら出さない」
俺は手を挙げるか、内ポケットの紙を握るか、どちらも選べずに座っていた。
〈高校生になったら、ちゃんと気持ちを言う〉
その一行は、スポーツバッグの底で汗を吸って、文字が少し滲んでいる。
夜、早苗からメッセージ。
『明日、16:00、音楽室で最後のリハしてから会場行くね』
『16:00は難しい。直接、会場行く。17:00前には行く。必ず』
『分かった。信じてる』
“信じてる”の五文字が、画面で静かに光る。
信頼は、借り物みたいに感じる。
返すべき期日がついている。
寝付けない夜、天井の木目は音符の形を失い、ただの線に戻る。
〈間に合う〉
何度もそう言い聞かせる。
言い聞かせるたび、別の声が小さく囁く。
〈間に合わなかったとき、誰が何を背負う?〉
⸻
当日。
昼過ぎ。練習試合は思ったより長引いた。
相手校が押し込み、コーチが「あと五分、切り替えろ!」と叫ぶ。
時計は15:42。
〈16:00集合。17:05出番。〉
計算は単純だ。
けれど、グラウンドは単純に終わらない。
ボールがサイドに出た瞬間、俺は顧問の前に走った。
「すみません! 約束があります。行かせてください。前に話したとおり、伴奏が――」
顧問の目は、俺の肩越しにピッチを見ている。
「相馬、すぐ戻れ。あと少しだ」
「でも――」
「戻れ」
短い命令が、笛みたいに鋭く刺さる。
ピッチに戻る。
足が軽いのか重いのか、わからない。
走りながら、スマホがショーツのポケットで不自然に重くなる。
〈今、どこ?〉
早苗からだ。
〈もうすぐ終わる。必ず行く〉
親指が震え、送信の矢印を押す。
16:07。
試合終了の笛。
「集合! 片付けてからすぐミーティング!」
顧問の声。
俺は水を一口で飲み干し、靴紐を掴んだ。
結び目が、汗で固く、ほどけない。
爪で結び目を引き上げ、息で吹いて、やっと緩む。
靴を脱ぐのに、三十秒。
体育館裏の自転車置き場まで、四十五秒。
チェーンロックを外すのに、二十秒。
ペダルに足をかけたとき、スマホが鳴る。
〈16:10から伴奏者のリハ、締め切り〉
黒瀬から。
〈相馬、間に合わなかったら、俺が行く。許して〉
ハンドルを握る手に力が入る。
「行く」
声に出した。
風は、味方をしてくれるほど弱くないし、敵になるほど強くもない。
ただ、俺の頬を一定に叩く。
16:28。
会場の校舎が見える。
16:33。
自転車を降り、昇降口でスパイクからローファーに履き替える。
16:36。
音楽室の前。
ドアは閉まっている。中から、ピアノの中域が聞こえる。
黒瀬の音だ。
“リハ、締め切り”の文字が、額の汗の塩でぴりぴりする。
ドアを開けると、早苗が振り向いた。
目が、安堵と痛みの間で、ほんの一秒揺れた。
「来た」
「来た」
彼女は笑う。黒瀬は椅子から少し体を引いた。
「いま、俺が合わせてる。リハ、あと一本。……相馬、どうする?」
問いは、責めていない。
俺は深く息を吸い、吐いた。
「本番、俺が弾く。黒瀬、リハ、お願い。最悪のために」
黒瀬は頷く。「分かった」
早苗は、息を一度長く吐いて、譜面に視線を落とした。
「本番、相馬で」
彼女の声は、静かで固かった。
16:58。
袖。
会場のざわめきが、薄いカーテン越しに甘く濁る。
早苗の指先は少し冷えて、俺は自分の掌の熱を分けるように握った。
「怖くない?」
「相馬がいるから」
短い会話で、心拍が一本、音楽に寄る。
17:05。
ステージに足を踏み入れる。
ライトが視界を削り、客席は影になる。
ピアノの椅子の高さを、身体が覚えている高さに調整する。
鍵盤に手を置いた瞬間、時間が一度、止まった。
———
最初の和音。
早苗の最初の子音。
川沿いで探した角度が、ホールの空気で輪郭を持つ。
二小節目で、客席のどこかが静かになる。
三小節目で、俺の右手が彼女の声に細い橋をかける。
最後のフレーズ、彼女は半拍、長く伸ばした。
残響が舞台袖の黒に吸い込まれていく。
静寂、拍手、歓声。
音の粒が降り注いで、俺たちの肩に乗る。
頭を下げたとき、彼女の横顔は穏やかで、目尻が少し濡れていた。
袖に戻って、彼女は小さく、でもはっきり言った。
「ありがとう」
「こっちこそ」
言いながら、俺はまだ呼吸を整えていた。
黒瀬がすぐに来て、笑った。
「よかった。最後、半拍、きれいに伸びた」
早苗も笑う。「教えてくれたから」
三人で、短い笑いを共有する。
その輪は、円に見えるけれど、実は三角だ。
角のひとつひとつに、別々の意味が立っている。
結果はその場では出ない。
でも、彼女の肩は少しだけ軽くなっていた。
帰り道、会場の外で風を吸って、彼女は言う。
「ねえ、もう一回だけ、聞いてもいい?」
「なにを」
「返事」
夜の街灯が、彼女の瞳に小さな円を二つ作る。
“好きだよ”は、川沿いで置かれた。
いま、俺の番だ。
喉の奥に、言葉が揃っている。
――俺も。
――付き合おう。
――いまはまだ。
どの語尾が、彼女の歌を濁さないだろう。
選ぼうとしたとき、少し離れた場所で誰かが俺を呼んだ。
「相馬!」
サッカー部の先輩だ。会場まで見に来ていたらしい。
「監督、探してる。相手校の監督と話すって。お前、来いって」
現実が、呼ぶ。
音楽と同じ強さで。
早苗は、笑った。
「行って。ほら、かっこいいとこ見せてきて」
冗談めかして言って、ほんの少しだけ目を伏せた。
「返事は、また、でいい」
「……ごめん」
「謝らないで」
彼女は、そう言うのが上手くなった。
上手くなってほしくなかった言葉なのに。
走り出す前、俺は振り返る。
彼女は街灯の下で、今日の歌詞をもう一度だけ口の中で転がしていた。
音のない歌は、唇の形だけで美しかった。
俺は走る。
背中で、拍手の残り香が遠くなる。
足音は、グラウンドの土の記憶と、音楽室の床の記憶を、交互に踏んで進む。
今夜、結び目はほどけなかった。
でも、固く結び直すこともできなかった。
形だけが、また少し変わった。
――この先、彼女は何度も告白する。
そのたびに俺は、返事を探す。
その“探す時間”こそが、彼女を次の場所へ押し出す風になることを、まだ知らない。
彼女が「夢」という言葉を、いよいよ真正面から抱きしめる日が、すぐそこにいることも。
川沿いの朝、譜面台の傷、汗で滲んだ一行。
全部が、これからの章のために、静かに準備を終えている。
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