第十話 雨の日、傘を置いて
昇降口の屋根に落ちる雨が、ゆっくり強くなり始めていた。
ふたりで並んで雨を眺めているときだった。
「……凛ちゃん」
隣で、白井さんがつぶやくように言った。
「ん?」とそちらを向く前に――
「ごめん……いっしょに待っててくれたのに……
どうしても気になっちゃって……」
その言葉が届くのとほぼ同時に、
白井さんの足がふっと前へ動いた。
雨へ向かって、一歩。
「……え」
理解が追いつかず、小さく声が漏れる。
白井さんは少し振り返って、
にこっと、やわらかく笑った。
「凛ちゃん、気をつけて帰ってね。
……また明日!」
その一言だけ残して、雨の中へ駆け出していった。
ほんの一瞬だけ、私はその後ろ姿を呆然と見送ってしまう。
「……え、ちょ……」
気づいた瞬間、胸がざわっと跳ねた。
手に持っていた折りたたみ傘を慌てて開こうとするけれど、
指先がうまく動かなくて、もたついてしまう。
そのわずかな間に、
白井さんの後ろ姿が雨の向こうへ、
すうっと小さくなっていく。
「も、もう……なんでなの……!」
ようやく傘が開いた瞬間、
私もそのまま雨の中へ飛び出した。
数歩走っただけで、もう傘が追いつかない。
走るたびに角度がずれて、
横から冷たい雨がどんどん入り込んでくる。
「……っ、冷たい……」
傘をまともに差せないまま走ると、
雨が横からたたきつけるように当たってきて、
腕や肩がすぐ濡れていった。
「……はっ……、なんで……」
息がひゅっと上がって、胸が苦しい。
「なんで……雨の中……傘もささないで……っ」
追いかけても、茉白ちゃんの背中は小さくなるばかり。
そのたび、胸がぎゅっと締めつけられる。
「濡れちゃうよ……風邪ひいちゃう……っ」
心配が、焦りみたいに喉でつっかえて息が乱れる。
「……なんで……ひとりで行っちゃうの……
一緒に……行こうって……言ってくれたら……っ」
ぽつ、ぽつと、気持ちがにじむみたいに声が零れた。
「……はぁ……っ……私……走るの……苦手なのに……」
言ったそばから、足がもつれそうになる。
呼吸が追いつかなくて、喉が熱い。
髪も肩も、カバンも、
傘を持ってるのに全部びしょ濡れで、
靴の中まで冷たくなっていた。
それでも足は止まらなくて、
雨の向こうににじむ背中だけを、必死に追いかけていた。
* * *
もう息がうまく吸えなくて、胸がひゅっと苦しくなるたびに足が揺れた。
「……はぁ……っ……はぁ……っ……」
傘は差しているのに、
髪も肩も冷たく貼りついて、
傘の意味なんてほとんどなくなっていた。
鳥居をくぐると、
境内だけが雨音から少し遠ざかったように静かだった。
「……はっ……はぁ……どこ……」
まだ乱れる呼吸を抑えられないまま、
私は傘を握りしめ、キョロキョロとあたりを見回した。
拝殿の前。
灯籠の影。
奥の石段――
どこにもいない。
「……っ……」
胸がざわざわと波立つ。
息がまた上ずりそうになる。
そのとき――
桜の木の下。
雨の幕の向こうに、小さく白い影が見えた。
「……あ……」
思わず、息といっしょに声が漏れる。
しゃがみ込むように身を縮め、
両腕でなにかをそっと包み込む姿。
茉白ちゃんだった。
桜の枝が雨を受け止めてくれているのか、
大粒の雨はほとんど落ちていない。
それでも茉白ちゃんは、
濡れることなんて本当にどうでもいいみたいに、
ただマシュマロを守るように抱き寄せていた。
その姿を見た瞬間、
胸の奥で暴れていた不安がすこし静かになった。
私はその場に立ち止まり、
肩で大きく息をして呼吸を整えた。
荒れていた胸の鼓動が、
すこしずつ静かに落ち着いていく。
雨の音も、いつの間にか薄くなりはじめていた。
境内の空気がわずかにやわらぐ。
空が――ほんの少しだけ、明るくなった気がした。
息がようやく整ったところで、
私は傘を握り直し、
ゆっくりと茉白ちゃんの方へ歩きはじめた。
一歩ずつ近づくたびに――
空が、少しずつ明るくなっていくのがわかった。
雨はまだ細かく降っているのに、
どこかで雲がほどけたのか、
境内の空気がふわっと軽くなっていく。
桜の枝の隙間から差す光が、
雨粒を透かしてきらきらと揺れていた。
お天気雨の、あの不思議な明るさ。
茉白ちゃんのそばに近づくほど、
その光は強くなっていって、
雨の一粒一粒が、宝石みたいに光って見えた。
茉白ちゃんの表情が、ようやくはっきり見えてくる。
しゃがんだまま、マシュマロをそっと胸に抱き寄せて、
ほんとうに安心したみたいに、
ふわっと頬をゆるませていた。
「……よかった……マシュマロ、元気だったんだね……」
まるで雨の中に花が咲いたみたいに、
濡れていることも気にせず、
茉白ちゃんは嬉しそうに、優しい声で語りかけていた。
その横顔は、光を受けてほのかに照らされていて、
雨粒が髪先を小さくきらめきながら伝い落ちていく。
――その瞬間、息が本当に止まった。
雨の音も、風の気配も遠くなって、
世界の色だけがゆっくりと淡くほどけていく。
光に包まれた茉白ちゃんの横顔だけが、静かにそこにあった。
桜の枝からこぼれ落ちる光が、
雨粒を透かしてふわりと揺れて、
そのたびに胸の奥が強く締めつけられる。
こんな景色を、こんな表情を、
雨の中で見るなんて思わなかった。
あまりにも綺麗で、
光に照らされた茉白ちゃんの横顔から、
どうしても目が離せなくて――
私はしばらく息をすることさえ忘れていた。
――そのとき。
ぴち、と雨粒が頬に落ちた。
……あ。
傘をちゃんと差せていなかったことに気づいて、
ぼんやりしていた意識が一気に現実へ戻る。
茉白ちゃんはマシュマロを抱いたまま
ほっとしたみたいに、やさしく笑っていた。
その笑顔を見ていると、
胸の奥がふわっとあたたかく緩んだ。
だけど――
そのあとに、心のどこかがきゅっと固くなる。
どうして、ひとりで来ちゃうの。
どうして、何も言わずに飛び出しちゃうの。
さっきまで必死で追いかけていた気持ちが、
落ち着いていくはずなのに、
逆に胸の奥でじわじわ熱くなる。
責めたいわけじゃない。
でも、このざわつきを抑えられない。
……ほんとに、もう。
私はそっと傘を差し出した。
頭上に影が落ちたことに気づいたのか、
茉白ちゃんがふっと顔を上げる。
お天気雨の光がこぼれて、
傘越しの光が茉白ちゃんの頬に柔らかく触れた。
まぶしそうに瞬きをして、
少し戸惑うようにこちらを見つめる。
「……りんちゃん?」
「……風邪ひいちゃうよ」
静かに、落ち着いた声でようやく言えた。
きょとん、と一瞬だけ私を見つめて、
次の瞬間――
「り、りんちゃん……びしょ濡れ……」
ぽつりと零れたその言葉に、胸がぐらっと揺れた。
……え。
濡れてるのは茉白ちゃんのほうなのに。
自分の髪も肩も背中も、まだ雨のしずくが落ちてるのに。
どうして、そんなふうに人の心配ばっかりするの。
息が少しだけ深く揺れた。
「……うん、びしょ濡れだよ……
だって茉白ちゃん、ひとりで行くから……」
静かに言ったはずなのに、
自分の声がすこし震えているのがわかった。
茉白ちゃんはびくっと肩を揺らした。
「えっ……あ、あの……っ」
「ま、マシュマロ……元気だった、から……!」
言い訳みたいに慌てて言うその声が、
やっぱりどこか噛み合ってなくて、
胸の奥がざわざわした。
「だから……朝から言ってるでしょ……っ
マシュマロは元気だって……!」
つい、ちょっと強めに返してしまう。
「で、でも……マシュマロは……ほんと気まぐれで……
ほら……心配で……」
しゅんと肩を落としながらそう言った、その瞬間――
「……にゃっ!」
茉白ちゃんの腕の中から、
やけに元気な声が響いた。
雨はほとんど止んで、
境内の空気だけがしん、と静まっている。
その静けさの中で、マシュマロの声だけが
妙に力強くて、主張が激しくて。
……ほんとに、この子は気まぐれすぎる。
心の中でそう思った途端、
自分もびしょ濡れ、
茉白ちゃんもびしょ濡れ、
マシュマロだけ元気いっぱい、
という状況が急におかしく思えてきて。
雨の中ここまで必死で走ってきたことも含めて、
なんだか全部どうでもよくなってしまって――
「……っ、ふ……は……」
気づいたら、笑っていた。
怒っていたはずなのに、
胸の奥からふっと力が抜けていくみたいに。
私が笑ったのを見て、
茉白ちゃんも安心したように、
ふわっと笑みを返してきた。
「りんちゃん……髪、ぺたってしてて……
なんか、かわいくなってる……ふふっ」
「もう……茉白ちゃんだって、びしょ濡れだから……ふふっ」
お互いの顔を見て、またくすっと笑いがこぼれる。
「にゃあ」
マシュマロが、まるで会話に混ざるみたいに短く鳴いた。
その絶妙なタイミングに、私たちは顔を見合わせて――
「マシュマロ、なんか言ってるね……ふふっ」
「うん、ほんとだね……ふふっ」
びしょ濡れのまま、ただ笑い合った。
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