第四話 白猫とホワイトソース

 ホームルームが終わると、教室のあちこちで椅子の音や笑い声が混じった。

 そのざわめきの中で、花びらのお礼を青山さんに言おうと思って、私はそっと後ろを振り向いた。


 けれどそのとき、先生が「青山さん、ちょっといい?」と声をかける。

 青山さんはすぐに「はい」と返事をしてから、こちらをちらっと見た。

 何か言いたそうに唇がわずかに動いたけれど、

 小さく「ごめんなさい」とだけ言って、一礼し、先生のもとへ向かっていった。


 ――話が少し長くなりそうだし、初日からいろいろと言うのも悪いかな。

 また明日、ちゃんとお礼を言おう。

 同じクラスだし、席も近いし。

 その方が、ちゃんと伝えられる気がする。


 鞄を肩にかけて教室を出ると、廊下には新しい靴音がいくつも響いていた。

 窓の外は、昼の光が朝よりやわらかくなっている。

 春の匂いの混じった風が、校舎の隙間をすり抜けていった。


 学校の門を出て、坂道を下る。

 胸の中がふわふわしている。

 入学式が終わった安心感と、どこか夢の続きを歩いているような気分。


 満開の桜並木の下を歩く。

 少し風が強くなって、前髪が頬にかかった。

 指先で髪を整えようとした瞬間――

 カバンの隙間から、白いハンカチがふわりと飛び出した。


「あっ」


 風に流され、ハンカチは数歩先の地面にひらりと落ちた。

 思わず足を止めて拾おうとしゃがみこんだ、その瞬間。


 横から白い影がすばやく現れ、ハンカチをパクッとくわえた。


「えっ……」


 白猫だった。

 一瞬こちらを見て、光を受けて透けるような毛並みが揺れる。

 まるで春の風そのものみたいに、軽やかに駆け出していく。


 トトトトッ、と小さな足音が遠ざかる。

 慌てて追いかける。

 猫は細い道を抜け、小さな鳥居のある神社へ入っていった。

 ――坂上神社。


* * *


 鳥居をくぐると、街の音がふっと遠のいた。

 木々の葉擦れ、石畳を撫でる風の音。

 境内の真ん中で、白猫はハンカチを前足で押さえていた。


「それ、わたしのだよ〜」


 しゃがんで目線を合わせる。逃げる気配はない。

 陽の光を受けて、白い毛がやわらかく透けている。

 木々の間からこぼれる光が、毛並みをふわりと照らして、

 まるで光そのものが生きているみたいだった。


 猫は前足でツン、とハンカチを押して、

 またツン、と遊ぶように動かす。

 そのたびに、桜の花びらが一枚ずつ空に舞い上がる。


「……ふふ」


 取り返そうと思っていたのに、

 見ているうちに、その姿が可愛くて笑ってしまう。


「なんだか、マシュマロみたい」


 そう言うと、猫が「にゃ」と短く鳴いた。


「え、今、返事した? ……じゃあ、君の名前はマシュマロ。今日からそれね」


 「にゃ」ともう一度鳴いて、

 毛布にもぐるみたいにころんと寝転がる。

 お腹を見せながら、目を細めている。

 その動きがあまりにも無防備で、

 思わず息がこぼれた。


「ずるい、かわいい」


 指先をそっと伸ばすと、

 匂いを確かめるように鼻を近づけてきて、頬にふわっと毛が触れた。

 その温かさに、胸の奥がぽっと灯る。


「そんなに気に入ったなら、君にあげるね。ハンカチ」


 「にゃ」


 花びらが二枚、背に落ちた。

 くすぐったそうに後ろ足で耳をぽりぽり。

その仕草がたまらなく愛おしくて、肩が揺れた。

ふと腕時計を見る。思っていたより針が進んでいた。


「やばっ、瑚白と昼ご飯一緒に食べるんだった」


 慌てて立ち上がると、マシュマロが「にゃ?」と見上げた。


「ごめんね、行かなきゃ。また来るね、マシュマロ」


 名前を呼ぶと、白い耳がぴくっと動いた。

 鳥居の外へ出る足元を、桜の花びらがさらさらと流れていく。

 その背中に、やわらかな声が一度だけ追いかけてきた。


* * *


 玄関を開けると、ふわっと甘い匂いがした。

「わ、なんかいい匂い〜! 幸せの予感!」

 鞄を置きながらリビングに入ると、瑚白が台所から顔を出した。


「おかえり、お姉ちゃん。ちょっと遅かったね」

「うん、少しね。……ちょっと遊んでた」

「もう、友達できたの?」

「いや、ううん。違う。……猫」

「猫?」

「うん。ハンカチ取られちゃってさ」

「えぇ、取られたって……どういうこと?」

「ふふ、ちょっとした事件だったの」

「もう、なにそれ〜」


 瑚白はあきれながらも笑って、

「お姉ちゃん、手洗って、着替えてきて。もうすぐできるから」

「はーい!」


 洗面所で手を洗う。

 鏡の中の自分の頬が、ほんのり赤い。

 制服を脱ぎながら、今日の出来事がふっとよみがえる。

 桜の花びら、神社の陽だまり、白い猫の背中。

 胸の奥がじんわりとあたたかくなる。


 着替えて戻ると、瑚白がちょうどお皿を差し出していた。


「はい、どうぞ」


 テーブルの上には、白い湯気を立てるホワイトソースのオムライス。

 瑚白の白い指先が、皿の端を軽く押さえている。

 その仕草が、なんだか大人びて見えた。


 スプーンを手に取り、ふわりと湯気を吸い込む。

 やわらかな香りに、自然と笑みがこぼれる。


「……やさしい味」

「でしょ?」


 瑚白が少し笑った。

 その笑顔を見ながら、わたしもふっと笑う。


「でもね、ほんとに猫だったんだよ? このオムライスみたいに白い猫」

「はいはい」

「あー、信じてないでしょ〜」

「ううん、半分くらいは信じてるよ」

「半分ってなに〜」


 二人で笑う。

 その笑い声が、食卓の上の湯気と一緒にふわりと漂った。


* * *


 夜。

 外の空気は少し冷えて、窓の向こうには街の灯りが滲んでいる。

 三人での夕ご飯も終わり、穏やかな時間が流れていた。


 母とわたしは並んで台所に立ち、洗い物をしていた。

 泡のはじける音が静かな夜に混じる。


「……それでね、今日ね、神社で猫に会ったの」

「猫?」

「うん。真っ白で、すごく可愛かったの」

「ふふ、あなたらしいわね。

 でも、それって、なんだかいい出会いじゃない?」

「そうなの。……なんか、不思議なくらいに」


 母と笑い合っていると、瑚白が食器を持ってきた。


「あ、これで最後? ありがと。じゃあ、お風呂お先にどうぞ」

「うん、じゃあ先にもらうね」


 瑚白は少しうれしそうに笑って、

 「行ってくるね」と言いながら、軽く手を振って廊下を歩いていった。


 その背中を見送りながら、母がふと笑う。

「お姉ちゃんの入学式、嬉しかったのかもね」

「うん、そうかも」


 母は小さく頷いて、皿をていねいに拭いた。

 その横顔を見ながら、

 私は昼の陽だまりと、白い猫と、静かな笑顔を思い出していた。


* * *


 お風呂から上がると、

 湯気の匂いがまだ家の中に残っていた。


 リビングのソファには、瑚白が座ってスマホを見ていた。

「瑚白、おやすみ。また明日。……何見てんの?」

「今日のお姉ちゃんの入学式の写真、お父さんに送ってるの。

 お姉ちゃん、絶対忘れてると思うから」

「ほんとだ。あはは、忘れてた。ありがとう。瑚白、気が利くね」


 そう言いながら、瑚白の隣にぽすんと座る。

「どんな写真送ってくれてんの?」

 肩を寄せて、瑚白のスマホをのぞき込む。


「ちゃんと撮れてるよ。ほら、これ」

「わ、ほんとだ。うまく撮れてる〜。……あ、瑚白も可愛く撮れてる〜」


 そう言って、人差し指で瑚白のほっぺをツンと押す。

「もう、私はいいの。主役はお姉ちゃんなんだから」

「そうだった」


 二人で笑い合う。


 「おやすみ」と言って部屋に戻ると、

 スタンドライトだけが灯った机の上に、

 柔らかな光の輪ができていた。

 その周りは静かな夜の色に沈み、

 カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、床に細い線を描いている。


 机の上には、生徒手帳。

 その最初のページには、昼間――彼女から受け取った桜の花びらが一枚、そっと挟んであった。


 指先でその輪郭をなぞる。

 今日のことが次々と浮かんでくる。

 桜並木、入学式の拍手、春の風、陽だまり、白猫の背中。


「……なんか……きれいだったな。」


 その言葉が、静かな部屋に溶けていった。

 生徒手帳を閉じ、机の上に置く。


 スタンドの明かりを消すと、

 カーテンの隙間から月の光がうっすらと差し込んだ。

 ベッドに横になる。


 胸の奥にあたたかい余韻が残る。

 春の匂いと、白い毛並みと、桜の花びらが一枚。

 そのすべてが、今日のわたしの中に、静かに残っていた。


 明日も、いい日になるといいな。

 そう思いながら、まぶたがゆっくりと落ちていく。


 まどろみの中、春の風がそっと頬をなでた気がした。

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