明智光秀とペアワーク
浦河なすび
かつての願い
放課後の図書室、板張りの長方形の机を挟んだ向こう側で、クラスメイトの坂本くんが泣いていた。夕立が降り出すときのごとく、突然だった。資料に載っている年表をノートに機械的に書き写していて、ああ定規がいるな筆箱どこだっけ、と顔を上げたらこの始末。坂本くんの小奇麗な顔は目尻から頬にかけてぐしょぐしょで、涙の跡が冬の西日に反射して不格好に煌めいていた。
坂本くんとは歴史の授業のペアワークで戦国大名調べをご一緒しているだけの関係だ。今日に至るまで、実りのある会話を交わした記憶はない。なのに一体全体どうして彼は、私の前で号泣しているんでしょうか。
「……えっと、大丈夫?」
心配と戸惑いを曖昧に混ぜて声を掛ける。こらえるような嗚咽以外に、反応は返って来なかった。気まずい。私たち、織田信長の伝記を数冊積み上げて、手分けして使えそうな解説をメモっていただけなんだけどな……。織田信長さんって、泣くほど感動できる逸話、お持ちでしたっけ。
「俺は明智光秀の生まれ変わりなんだが」
スンと鼻をすする音とともに、麦のように掠れた低い声。私はペンを取り落とした。
「は?」
「だから、明智光秀だ。本能寺の変を起こした張本人」
またまたご冗談を……なんて喉元まで出かかった言葉は、坂本くんの赤く潤んだ瞳に射抜かれて飲み込まざるを得なかった。坂本くんはまさに真剣そのものだった。暫時、沈黙がその場を支配する。誰かが本のページを捲る乾いた音だけが、私たちの間を通り過ぎた。
「その……急にどうしたの」
「すまない、織田信長のことを調べていたら、色々と……こみ上げてくるものが」
坂本くんは机に積まれた『信長公記』を指先で切なげになぞった。雫が滴る長い睫毛が、物憂げに伏せられる。
「ずっと誰にも言えなかった。でも、もう限界だ。信長公の伝記を読んでると……胸が、痛いんだ」
私はノートの上に落ちたペンを拾い上げた。ああこれが俗に言う厨二病かと、遥か遠くの田園風景に思いを馳せたくなった。
「信じられないかもしれないけど、俺は確かに覚えてる。暗闇の京都、燃え盛る本能寺の門前で、あの方の雄叫びを聞いたこと」
「……あの方って」
「織田信長」
信長、の『な』の部分が上擦ってひっくり返っていた。号泣といえるほどの勢いは消えていたものの、坂本くんは肩を震わせ、唇を真一文字に結んでいる。
なんだか罪悪感が湧いてきた私は、一呼吸おいて、「そっか、ええと、凄いね」と笑顔を浮かべた。ちょっと無理のある作り笑いだった。
「坂本くんが明智光秀の生まれ変わりってことはさ、楽勝じゃない?」
「……楽勝?」
「ペアワーク。当事者がいるんだったら、調べるのもまとめるのも朝飯前でしょ」
妙な方向に進んだペアワークの軌道修正をするべく、前向きな言葉を適当に並べ続けた。
「ほら信長の豆知識とか、教えてよ色々」
「あ、ああ」
「発表の最後に『実は俺は明智光秀でした!』ってオチつけたりするのはどう? 盛り上がるかもよ」
支離滅裂なことを言っている自覚が充分にあった私は、坂本くんの背後約十メートルに鎮座する本の背表紙たちに視線を滑らせてやり過ごしていた。なので、坂本くんの瞳に星が瞬くような光明が灯り始めたことには気づかなかった。
「……それ、いいな」
私は再びペンを取り落とした。坂本くんが僅かに机に身を乗り出して、そっと拾って返してくれた。
翌日は生憎の空模様で、図書室の窓には雨がポツポツ打ち付けていた。昨日と同じ机を陣取って、向かい合わせになって座る。
坂本くんは作業を開始するやいなや、借り漁った伝記やら図鑑やらに載っている織田信長の肖像画を、全て付箋で隠してくれと頼んできた。
「何で?」
「信長公の肖像画を見ると、条件反射で胃が軋む」
「そんなに似てるの、肖像画って」
「似てるなんてもんじゃない。何をどうしたらあの特徴的な鼻の角度まで再現できるんだ」
やけに憤慨したようすだったので思わず吹き出してしまった。悪戯心が働いて、スマホで検索した明智光秀の肖像画を坂本くんの眼前に突き出してみる。「耳は及第点。流石にもう少し男前だ」とのことだった。
今回のペアワークでは、各自指定された戦国大名について調べて、その上新聞という形式でまとめる必要がある。私は字が汚いので伝記やら図鑑やらの記述の記録と発表原稿づくり、坂本くんは字が綺麗なので新聞本誌の清書とレイアウトという風に役割を分担していた。……のだが。作業開始から三日。正直、飽きてきた。
「——織田信長は城を権力の象徴に変えたとされている。らしいよ、坂本くん」
「小牧山城のことか? その頃俺はまだ家臣ではなかったからあまり詳しく語れることはないな」
見出しの明朝体を下書きしているらしい坂本くんは、こちらを一瞥もせずに淡々と答えた。少し長い前髪の奥、真面目をそのまま宿したかのような瞳は、矢のように真っ直ぐ紙面を見つめている。私は、なんだか面白くない。
「なんでもいいから話して。集中力切れたの」
「うーん。そういえば信長公、城の階段を一段飛ばしで駆け上がるのが好きだったな。調子に乗って二段飛ばしに挑戦した瞬間、こけていた」
「んっふふ」
笑いを堪えようとするも失敗。司書さんや自習に励む生徒たちの訝しげな視線がじくじくと刺さる。「図書室は声を絞って、だぞ」とすかさず注意してくれた坂本くんには、元凶はお前だこの野郎とエアーデコピンをお見舞いしておいた。
四日目。私がペン回しを失敗したのを目敏く察知した坂本くんが、どれどれという風にノートを覗き込んできた。
「箕浦の合戦か。なかなかマイナーなところを突いたな」
「うん。後悔してる。記録が少なくて全然まとめらんない。助けてね」
箕浦、箕浦……と所在なさげに呟くこと五回、坂本くんは思い出したというように両手をポンと叩いた。「人づてに聞いた話なんだが」と前置きして、ノートの上に墜落していたペンを優雅に拾い起こす。
「信長公はな、蜂が世界で一番嫌いだったんだ。箕浦の合戦の軍議中、飛んできた蜂に薙刀を振ろうとして大騒ぎになったらしい」
「薙刀……って、普通の刀よりも大きいんだっけ?」
「そうだな。こういう武器だ」
何やら絵を描いてくれたらしいペン先が、ノートの端をトントンと誇らしげに叩いて示した。
「……腐ったバナナに見える」
「はあ? 薙刀だぞ」
「え、え? じゃあこっちは何。ゾウリムシ?」
「蜂だが」
「んっふふふ」
私はハサミを求めて筆箱を漁った。絶対にスクラップして新聞に掲載してやる。悪筆家の私が言えたことではないが、坂本くんの画伯っぷりは相当だ。
五日目。発表に向けて本腰を入れ始めたのか、図書室には同じくペアワークに勤しむクラスメイトの面々が増えてきた。早いうちに作業を始めたおかげで、私たちのペアワークの進捗は上々だ。出典を『坂本による謎証言』とする細かいエピソードを織り交ぜつつ、吉法師から天下人となってゆく織田信長の生き様について、手前味噌だがよくまとめられていると思う。
私のノートの中の織田信長は四十九歳になっていた。彼の享年はこの年だ。つまり私たちの織田信長調べが、ついに本能寺の変に差し掛かったということで。
「……広木さん」
私の名前を呼ぶ坂本くんの声は脆く不安定だった。今日の坂本くんは図書室へ向かう道中からずっと調子がおかしい。身構えてしまった気持ちを悟られないよう最大限の注意を払って、「なあに」と相槌を打った。
「明智光秀は、織田信長が嫌いだったと思うか?」
予想外の問いだった。ペアワーク初日、雨のように滲み出していた涙が脳裏をよぎる。私は慎重に言葉を選んだ。
「嫌いだった、っていうか……。反発した、ってのが教科書的じゃない?」
「そうだな」
坂本くんは苦く笑った。
「でもそれだけじゃ、あんなことできないんだ」
あんなこと……本能寺の変。日本史上に残る裏切りの惨劇。動機については諸説あれど、決定的な答えはない。 ——と、ここ数日間で目を通した資料という資料に、散々書かれていたわけだけれど。もし坂本くんが本当に明智光秀なのだとしたら、彼はその答えを持っているということになる。
換気のため開け放した窓から冷たい風が吹き込んで、図書室中をさらりと撫でていく。戦国時代の影がただ一つ、机の向こうで揺らいだような気がした。
その日の昼休みの教室はいつも以上にざわざわと喧しかった。ペアワーク発表の本番である歴史の授業が、あと三十分ちょっとで始まるからだ。クラスメイトたちは各々迫りくる発表に備え、新聞に色彩を足したり、原稿を小声で読み上げたりしていた。
かくいう私も、壁沿いに机をくっつけて坂本くんと横並びになり、最終確認に励んでいる。購買のあんぱん片手に、原稿とにらめっこだ。
「……あのね。私やっぱり、織田信長のこと嫌いじゃないよ」
一通り原稿に目を通し終えたところで、わざとらしく呟いてみた。ペアワークを通じて生き様を丹念に調べ、率直に感じたことだ。織田信長。戦国の世を愚直に、ときに狡猾に生き抜いたその豪胆さが、私は嫌いじゃない。
「……俺は」
坂本くんは新聞の下書きの跡に消しゴムをかける作業をおもむろに止めた。切れ長の瞳は揺らがない。紙上に積もっていた消しカスをサッサッと机の角に寄せてから、静かに口を開いた。
「信長公が天下を取ったら、戦は終わるって思ってたんだ」
独白のような、静謐さを帯びた声だった。
「でも違った。信長公は天下を制した後、世界にも手を出すつもりだった。明を征服して、さらにその先まで……。戦を続けるつもりだと、知ってしまったんだ。あの日。だから、俺は」
昼休みの喧噪の中、私たちの周囲だけ、ハサミで切り取って隔絶したかのように異様に、鎮まっていた。凪いだ空気に言葉という波紋が広がる。
「俺は、子供たちに戦をさせたくなかった」
それだけ吐き出すと、坂本くんは机に突っ伏した。無意識なのか知らないが、新聞や原稿が額の下敷きにならないようにしているあたり、本当に折り目正しい奴だと思う。
彼の言う『俺』とは一体誰なのだろう、とふと考えた。
図書室で明智光秀と織田信長の話をしたあの日。「それだけじゃあんなことできない」と沈んだ笑みを浮かべた彼に、私は何も言えなかった。あれからずっと漠然と、彼に何か伝えたいことがあった気がする。
——頭の中に国語辞典を開く。慎重に、丁寧に言葉を選りすぐって、紡いだ。
「……私はね、毎日楽しく生きてるの。苦しいこともあるけれど、笑顔でいられる」
嫌になるくらい眩しい綺麗事だけど、上等だ。
「それは、明智光秀は勿論、名前も残っていないようなかつての人たちみんなが、今の子供たちの幸せを願ってくれたおかげだと思うよ」
彼がハッとしたように息を吞んで顔を上げた。呆然と目をしばたたかせる彼は、明智光秀なのか坂本くんなのか。或いは……両方か。
——どっちでもいい。どっちだとしても大丈夫だと思った。だって今ここで生きているのは、紛れもなく私たちなのだから。
「坂本くんはどう? 毎日、楽しい?」
坂本くんは微動だにぜず石像のように固まっていた。ひとしきりの沈黙が通り過ぎる。
とうとう焦れた私はあんぱんを右手にぐっと構えた。自分が齧っていたのと反対側を、坂本くんの口元めがけて勢いよく突っ込む。ぶへ、と潰れたような声を無視して、「どうだ、美味かろう」とおどけて口角をにかっと上げた。
坂本くんは困ったように眉を下げる。滑らかな甘さを堪能するようにゆっくりと咀嚼して、そして笑った。
「あんぱんも美味しいことだし、うん、楽しいよ」
その笑顔は、教科書に載っている無骨な戦国武将ではなく、ただの十六歳の男の子のものだった。私にとっては、確かにそうだった。
果たして私たちのペアワーク発表はというと、大成功も大成功だった。織田信長の謎エピソードと画伯坂本のイラストが非常にウケて、教室中が大爆笑の渦に包まれたのだ。奇をてらった発表も、必要以上に茶化さず尊重し笑ってくれる。良いクラスだと、しみじみ思う。
その日の放課後は、なんとなくの流れで坂本くんと一緒に校舎を出た。隣を坂本くんが歩いているのに目的地が図書室でないことが、なんだか新鮮で照れ臭い。
「ペアワーク、楽しかったね」
「……そうだな」
晴れ渡る笑顔が二つ溢れて、私たちは帰路についた。四百年の時を越えたどこかで、明智光秀もかすかに微笑んでくれているような、そんな気がした。
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