七十万の恋人

文乃秋

第1話

高校一年生、夏。誕生日に母が買ってくれたハンディーファン。それをうっかり踏み潰したのが小豆だった。

その瞬間、私は怒りよりも、深い悲しみに襲われた。

「せっかく母が選んでくれたのに……」

やっと手に入れたものを失う悲しさと、母に申し訳ないという罪悪感が胸を締めつける。


小豆は悪びれる様子もなく、にこやかに言った。

「ごめんね。あした同じの買ってくる。……これ、たぶん三千円くらいだよね?」

これが私、杉山京香と中山小豆の出会いだった。


翌日、小豆は本当に同じハンディーファンを持ってきた。しかも、高そうなチョコレートまで添えて。

同じはずなのに、どこか冷たく感じるそれを、私はありがたく受け取った。


小豆は、感情の機微には疎いところがあった。私の悲しみの重さは、彼女には理解しきれなかったのだろう。

物はお金で買い戻せる――そんな単純な価値観を持っていた。

けれど、彼女には自分なりのルールがあった。

「借りたものは元の状態で返す。もらったものは同程度の価値でお返しする」

そんな彼女を、私は信頼していた。


高校二年の夏、小豆に恋の相談をした。

今年、同じクラスになった牧野という男子に、密かに想いを寄せていた。

彼のことを話すうちに、顔が熱くなるのがわかった。好きな理由はうまく言えなかったけれど、胸の奥がふわりとする感覚だけは確かだった。


小豆は意外にも真剣に聞いてくれて、牧野についてあれこれ質問してきた。

「趣味は?」「家、どの辺?」「バイトしてるの?」

時折、「それって結構お金かかるね」とか「へえ、いい時計してるんだ」なんて口にした。私は気にも留めなかった。


秋、小豆の後押しもあり、私はついに告白を決めた。そして勇気を振り絞り、体育館裏へ来る旨の内容のラブレターを牧野の下駄箱に忍ばせた。

入れる瞬間の記憶は曖昧だ。手の甲まで真っ赤になり、右手と右足を同時に前へ出して歩いたような気がする。

しかし約束の時間に、彼は現れなかった。


それからしばらくして、私は知った。

小豆が牧野と付き合っていることを。


小豆は私の恋心を知りながら、それでも彼を奪ったのだ。

私は問い詰めた。

「なぜ私の気持ちを知っていて、そんなことをしたの?」

「なぜ黙っていたの?」

「なぜ私に告白を勧めたの?」


小豆は昔と変わらない笑みを浮かべ、まるで値札を告げるように牧野の名前を口にした。


「七十万円くらいかな?」

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七十万の恋人 文乃秋 @fuminoaki

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