怖い美人課長が、俺の前でだけ可愛くなるなんて聞いてません!
桃乃いずみ
第1話 「課長にバレた、エア喫煙の秘密」
最高の至福ともいえる土日の休みを終え、平日の二日目にあたる火曜日。
「はぁ、今日も疲れる」
オフィスから離れたフロアの端にある喫煙所。ここが俺、
「これもボロボロになってきたな。そろそろ新しいのに変えるか」
ポケットからタバコの箱を取り出し、手に持っていた一本と入れ替える。
もっとも、このタバコに火が灯ることはない。俺は非喫煙者だからだ。
それなのに、どうしてわざわざ喫煙所に来るのかって?
理由は単純。タバコ休憩という名の休息を取るためである。
喫煙者は仕事の合間に喫煙所へ行き、数分だけでも机を離れることができる。だが非喫煙者はどうだ。お昼の一時間以外は基本的に座りっぱなし。明らかに不公平だろう。
一本吸うのに数分。しかしそれを一日に数回繰り返せば立派な休憩時間になる。そう気付いた俺は、社会人三年目、仕事に慣れ始めた昨年から喫煙者を装うようになった。
もちろん、人目を避けるのが鉄則だ。なるべく人の少ない時間を狙って休憩に来る。
俺はこれを“エア喫煙”と名付けた。
「会社は効率重視。だからこそサボりも効率的に、だよな」
とはいえ、今日という日は絶望的だ。なぜなら、今日を終えてもあと三日は会社に来なくてはならないのだ。
まだ火曜日だぞ。おかしい、昨日は少なからずやる気はあったのに……て、こんな心境になるのは何度目だろうな。
それもそうか、火曜日なんていうのは一週間も経てばまたやってくる。
「はぁ……今日の午後、早退しようかな……なんて」
「何いってるの。そんなこと、私がさせないわよ」
「げっ! 黒原課長!?」
思わず声が裏返った。
黒髪にスーツ姿のきりっとした女性。俺の上司にして課長、
「相変わらず失礼ね、桐野くん。先輩上司と社内で会ったら、まず言うことがあるんじゃない?」
「お、お疲れ様です……黒原課長」
「うん、よろしい」
「は、はい」
満足げに微笑んだ黒原課長は、壁に背を預けると胸元のポケットからタバコを取り出す。
黒原課長って、仕事のときはずっと難しい顔をしているから怖い人だと思っていたけど、改めて見ると、顔も整っているし綺麗な人だな。
ていうか、笑っているところなんて、初めて見たかもしれない。
「それより、今の独り言を聞いてしまったからには早退なんてさせるわけにいかないわ。体調不良とかなら別だけど?」
「……いえ、午後も頑張らせていただきます」
「ええ、期待してるわね」
言葉数が多いわけではないけど、こうして後輩とコミュニケーションを取るのも、俺が知らないだけで普段からやっているのかもしれないな。
なんだかんだ、俺も入社仕立ての時は課長になる前の彼女に何かと面倒を見てもらっていたわけだし。
――カチッ。
そんな事を思い出している内に、黒原課長は桃色の口紅に彩られた唇へ一本を咥え、ライターを鳴らした。
先端が赤く染まり、ほのかな光がその横顔を照らす。
「すぅー……」
静かに吸い込むと、頬がわずかにへこみ、その仕草が妙に艶っぽく見えた。
「ふぅー……」
吐き出された煙は甘い香りを含んでいた。バニラのような柔らかな匂いが、狭い喫煙所いっぱいに広がる。
「……はぁ。桐野くん」
「何ですか?」
「何ですかって、そんなに見られると落ち着かないのだけど」
「あっ、す、すみません!」
危うく見惚れていたとは口が裂けても言えない。慌てて俺も自分のタバコを咥えた。
「黒原課長も休憩ですか?」
「そうね。悪い?」
「いえ、全然! そんな事これっぽっちもございません」
だが――どうしてか、この人とは高確率で喫煙所が一緒になる。喫煙所は他にもあるはずなのに。どうしてこうも的確に俺の隠れスポットへと現れるんだ……。
「ふぅー……それはそうと、桐野くん」
「はい?」
「私と二人のときは、タバコを吸うフリなんてしなくていいのよ」
「あ、それはお気遣いどうも……って、えっ!?」
今、聞き捨てならないことを言われなかったか!?
「な、ななっ、何の話ですか!」
「すぅー……はぁ。別に誤魔化さなくていいのよ。君、普段からタバコ吸ってないでしょ」
「なっ!」
ば、バレてる!?
「そ、そんなことないですよ!」
俺は慌ててタバコを咥え直す。
「ほら、それも」
「えっ?」
タバコを外すよう促され、唇から離す。
「吸ってるように見せてるけど、先が赤くなってない。火をつけてない証拠よ」
「っ! こ、これは……」
「それにね。さっきまで君一人だったのに、この部屋に煙も匂いも残ってなかった。私が一本吸っただけでこれだけ充満してるんだから、おかしいでしょ?」
「えっと、……はい」
完全に論破されていた。
状況証拠を積み重ねられ、俺は言い逃れできずに非喫煙者である事を観念するしかなかった。
「どうして桐野くんは喫煙者のフリをしているの?」
「……はい。すみませんでした」
俺は深々と頭を下げた。
社会人になってから、ここまで潔く謝ったのは初めてかもしれない。
「別に謝らなくていいのよ。怒っている訳じゃないし、ただの質問」
黒原課長はタバコを吸いながら、そのお供に面白そうに俺を見ている。
まるで、いたずらを見つけた子どもを観察するみたいな目で。
「で? どうしてタバコなんて吸うフリを?」
「……それは、その。サボりたいからです」
「ははっ、正直ね桐野くんは」
あっさりと頷く。それ以外に理由が思いつかないし、嘘をついてもどうせすぐに見透かされてしまう気がした。
けれど、現状は怒られていない。むしろ楽しんでいるようにも見える。
「あの、できればこの事は内密にして頂けると助かるのですが……」
「別にいいわよ」
「本当ですか!」
良かった。黒原課長含め会社から怒られる事もなく、しかも今まで通りを続ける事ができそうであることに安心を覚える。
「ええ、もちろん。ただし、条件があるわ」
「そ、それは一体……?」
「君が“タバコを吸っていない”こと、これは今私しか知らない。だから……これは私たちだけの秘密、でしょ?」
彼女は煙を吐き出しながら、いたずらっぽく微笑んだ。
普段の冷徹なオフィスの顔からは想像できない笑み。
そのギャップに、思わず心臓が跳ねた。
「そ、そうですね」
「だったら、私にも何かメリットがないと成り立たないと思わない?」
「それはそうですけど……」
「不満があるなら内緒にする話は無しということで……」
「ありません! 何でも言ってください!」
それを言われてはぐうの音も出ない。
「じゃあ、今日からここに来るときは、必ず私も呼ぶこと。……二人きりで、ね」
「えっ!? い、いや、それは……」
「ふふ。嫌なの?」
正直、休憩&一人の時間を奪われるというのは思うところがないわけではない。
「いや、嫌じゃないですけど……課長、仕事は?」
望みを得ようとしたわけではないが、あくまでもここは会社だ。
俺はともかく、上の立場である課長の方が仕事は大変なはず。
しかし、
「私は効率的にこなしてるから、問題なし。君もそうでしょ?」
「……ぐっ」
「だって、これだけ計画的な事が出来るんだもの。余裕でしょ?」
図星を突かれて言葉に詰まる。
俺が「効率重視」を信条にしていることを、この人はしっかり見抜いていた。
「それにね」
「……?」
「サボるときは、誰かと一緒のほうが楽しいものよ」
そう言って、彼女はまた甘い香りの煙を吐き出す。
その香りに包まれると、不思議と罪悪感すら和らいでいく気がした。
「あの、でもどうしてそれが黒原課長のメリットに繋がるんですか?」
「桐野くんは遊び甲斐……いえ、面白そうだし退屈しなさそうだもの」
いや、言い直してたけど本音が漏れてたな。
俺はそれを聞き逃さなかった。
「……わかりました。じゃあ、今度から声をかけます」
「ふふっ、いい子ね桐野くん」
彼女は満足そうに微笑んだ。
「これからもよろしくね」
「……はい」
――その瞬間、俺の“休憩場所”は、ただのサボり場から、二人だけの秘密の空間へと変わってしまった。
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