ゆみとゆみこ 悪性リンパ腫で死んだ彼の闘病記
タコエビ
第1話 記事の締め切りに間に合いませんが?
「なんでこんな日に限って雨なわけ?」
カーテンを開けると叩きつける雨が目に入ってきそうだ。祐実は反射的に目を閉じる。今年も春は荒れていた。梅と桜が同時に咲いている春は、何度目だろう。
祐実は昨日買った生ぬるい缶コーヒーを飲むと、ため息をつきながら靴下を履く。今日もかわいいヒールが履けないと浮かない顔で鏡の前に立つ。
自分に髭が生えてこないかと口元をじっと見るのが祐実の癖だ。子供の頃、父親の髭を触っては嫌がられた。祐実は髭に憧れていた。それに比べて髪の毛には無関心だ。もう何ヶ月も美容院に行っていない。ぼさぼさの髪を祐実は直さなかった。
「男みたい」
鏡の前の自分に言ってみる。何も返事がなかった。
ドアを開けるとすぐにびしょ濡れになりそうだった。マンションの通路で傘を開く。雨が吹き付けてくる。
なんでこんなマンションを選んでしまったのだろう。雨の日にはいつもこの呪文を唱える。
外はまだ暗い。空は見えなかった。吹き付ける雨は祐実を苛立たせた。向こうに見えるビルの間から囂々と風の音がした。
「傘なんかなんの役にも立たないわ」
通路に出てから祐実はレインコートを着ていけばよかったと後悔する。しかしレインコートを用意する時間がなかった。祐実はびしょ濡れ覚悟で駅に急いだ。
神田に着いても雨はおさまらない。祐実は会社に着いたら着替えるのだからと、濡れるままにしていた。道路に落ちた雨は、水しぶきのように容赦なく祐実の側面を叩きつける。化粧もしていないけど、会社にはどうせ誰もいないだろう、そう思うとぐしゃぐしゃな髪を直すこともしない。祐実は傘で雨を防ぐよりも、傘が壊れないことに気を遣う。7時前には会社に着く。ふと入り口を見ると、明かりがついている。誰かいるのだろうか。祐実は恐る恐るドアを開ける。
「南、おはよう。」
入江の声だった。
「入江さん、こんな早くからどうしたのですか?」
入江は祐実を見て、「徹夜したんですね。なんかくさーい」と言った。
「徹夜だよ、見れば分かるだろ。なあ、たばこ買ってきてくれないか?」
窓を閉め切った部屋のたばこのにおいは、焼け焦げたコーヒーのそれと混合し、祐実の鼻を突き刺す。
「どうせ、おまえ、びしょ濡れだろ。俺、出たくないし、そこのコンビニに行ってきてよ。朝飯はまだなら、サンドイッチでも買ってきてくれ。おまえも好きなものを買ってきていいから」
入江は話している間中、全く祐実を見ることはない。入り口に背を向けているのに、祐実を見ているかのように話している。
「あの…」
と祐実は遮るように口を開く。
「ちょっと急ぎの用事があるんですけど、もう少ししてからでいいですか?」
「なんだよ、急ぎ?こんな朝早くか?どのくらいかかるんだ?」
矢継ぎ早の質問に祐実はまだ頭がついていけてない。それでも最後の質問だけに答えると、「1時間くらいですかね」
「1時間?そんなにかかるのか。それで何の仕事だ。ああ、そうか今週号の締め切りか?まあ俺も今やっているところだよ。それだけではないけどな」
入江は自分で全て解決してしまうように、質問と答えを繰り返している。祐実は入江の話を聞くこともなく、デスクに向かい、すぐさまパソコンに電源を入れる。
「なあ、南、おまえ何の記事をやっているんだ?」
起動中のパソコン画面を眺めながら祐実は、「バレエですよ」と言うと、すぐさま入江がつぶやく。
「趣味と実益を兼ねているなあ、まあ俺もゴルフの記事だ」
祐実は高校までバレエに夢中になっていた。確かに趣味ではあるが、バレリーナになりたかった。祐実はぼさぼさの頭を掻きむしると、口元に手をやりもぞもぞと唇を触り始める。祐実はストレスを感じると口元をいじる癖があった。
「よし。着てた。よかったあ。もう早く送って欲しい。ルーズな人たち」
小声でつぶやいたが、入江の耳には届いていない。入江は黙々とパソコンを叩いている。祐実は届いたばかりのバレエの画像を加工し始めると、時間を忘れて没頭した。
しばらくして、入江が立ち上がり、窓を開ける。空を眺め、独り言のようにつぶやいた。
「おお、雨が止んだね。しかし、この風はすごいな。電車は止まらなかったのか?」
入江は初めて祐実を見つめながらそう言ったが、祐実は夢中でパソコンに向かっている。入江は邪魔をしてはいけないと、そっとオフィスを出て行った。
入江が外出したことを知らずにいると、電話が鳴った。祐実は入江が取るだろうと思い、彼のデスクを見る。入江がいないことに気づくと、少し苛立ちを覚えた。
「何よ。いないじゃない。なんでこんな朝早く電話があるのよ。はいはい」
祐実は左手で受話器を取り、右手はマウスを握ったまま応答する。
「はい、川内出版でございます」
「おはよう。いてよかった。南か。他に誰かいるか?」
榊原社長の声だ。こんな朝早くに社長が電話してくるのはよほどの事だと、祐実は緊張して答える。
「入江さんがおりますが、いまコンビニに行っています。あとは私一人です」
社長は少し悩んだような間を置いてから、それでも食い下がるように言った。
「南、おまえ、いまなんの記事をやっている。今日締め切りだが…」
「はい、今はバレエです」
この記事は社長に命じられて書いているのに、覚えていないのだろうか。祐実はそう思った。
「そうだった。バレエだったな。それはどうだ。できたか?」
「はい、いま今日届いた画像を処理すればできます」
祐実は、社長が締め切りを心配しているだけだと思っていた。
「南は何ページ持っている?」
「2ページです。見開きのスペースで、下に半分広告を載せるので…」
祐実の言葉を遮るように、少し苛立って社長は言った。
「そういうことを聞いているんじゃない。そうか。中山は何ページだ?」
「確か私と同じ2ページですけど…」
祐実は少し動揺しながら、社長の次の言葉を待った。
「じゃあ、こうしよう。中山とおまえのを合わせて4ページを今から作ってくれないか?」
祐実は慌てて聞き返した。
「どういうことですか?急に今から?4ページですか?」
「南、できるか?」
「はい」
祐実は咄嗟に返事をする。しかし、まだ内容を聞いていないことに気づいた。社長は大きな声で笑いながら言った。
「では任せたぞ。しかし、何を書けとまだ言っていないぞ」
社長はさらに大きな声で、「南、おまえを採用して本当に良かった」と言った。
祐実は自分がそそっかしい人間なのだと恥ずかしく思ったが、社長の言葉に「がんばります」と言うしかなかった。
「社長、ところで内容は?」
祐実は恐る恐る受話器にささやいた。
「そうだ、そうだ、大事なことを言っていなかった。実はな…」
社長はここだけの話であることを言うときに声を小さくする癖があった。
「歌手の北海一郎なんだが、彼ががんになってな、どうやら原発事故と関係がありそうなんだ。まだこれは噂の段階で、病院に緊急入院したという話を昨日呑んでいて、芸能レポーターから聞いたんだが、情報統制がされているらしい。だから実名は書けないのだが、このがんはあまり知られていないので、きっと話題になる。ちょうど、最近この病気になったというニュースがあっただろう。原発事故の臨時職員が東日電に放射能の影響による病気ということで訴えた。あれから5年だから、そういう病気になってもおかしくはない。そろそろ大量にこの病気が発生するかもしれない。まあ、スクープとは言わないが、そこらへんと絡めてだな、この病気について何か書いてほしい」
社長は一気に話をすると、祐実はそれをすぐさまパソコンに起こしていた。
「社長、ところでどんながんなんですか?」
「ああ、言っていなかったか。悪性リンパ腫だよ。知っているか?」
「すぐ調べます。ありました。何か怖そうな病名ですよね」
社長は笑いながら「そう。それだ。おまえも、原発職員のニュースを見たことがあるだろう?」
「ええ、知っていましたけど、あまり詳しく知らなかったです。今、調べてみました。放射能の場合、急性白血病が出てくるかと思ったのですが、骨髄腫というのもが出てきましたね。いずれにしても骨髄に異常が起こるんでしょうね」
「俺は全然知らなかったが、これを今週の特集にしようと思う。2、3日後には北海一郎のことはすっぱ抜かれるだろう。発売日当日だとしたら、きっと売れるぞ。ネットで見てもきっとあまりデータがないはずだ」
「じゃあ、どうやって調べればいいんですか?」
「それを考えるのがおまえの仕事だろ」
「あ、はい。分かりました。でも社長。今日の10時締め切りですよ。ちょっと自信がありません」
「今何時だ?」
社長はむすっとした声で、怒鳴るように祐実に迫る。祐実はパソコンの時計を見て「8時半です」と答えた。
「分かった。12時までに上げろ。できるか?」
社長の押しの強い言葉に、祐実は押されると「はい」と切れの良くない声を出す。
「なんだ。できないのか?」
「できます!」
はっきりとした声で祐実は叫ぶと、同時にネットでの検索を終えていた。
「いま、いろいろと患者のブログがヒットしているのですが、どなたかに連絡がつく人がいたら、実際に声を聞いてみます」
「よし。やってくれ。中山を使っていいから。いや、だめか。あいつはいま九州だ。とにかくあいつに連絡を取れ。記事を来週に回すように伝えてくれ。俺は今日は10時くらいに会社に行くから、それまでに連絡してくれ」
「分かりました。あ、社長、どうやら九州の人で連絡が取れそうな人がいましたので、もしかしたら中山さんが会ってくれるかもしれません。お願いしてみます。ちなみに、中山さんは九州のどこに行っていますか?」
「確か、福岡だったと思う。ダイエーの選手の取材で行っているはずだ」
「なら北九州は近いですね。ここにいる方と会ってもらえるかもしれません」
「当たってくれ。じゃあ、よろしくな。12時までにおまえの原稿待ちで、印刷の方はスタンバイさせておく」
「お願いします」
祐実はネットでヒットした闘病記のブログをリストアップし、すぐさま印刷する。あと3時間半。その間に何をすべきかをメモする。
8時半から9時半の1時間で、この病気の概要を頭に叩き込む。
9時半までに中山に連絡を取る。
ブログの執筆者の掲載快諾を得る。これが一番厄介だ。直接連絡が取れなくても、コメント欄を使って連絡を取る。
この1時間が勝負だ。
祐実は4つのブログを抽出した。
Aは70歳に近い女性。ご主人が書いているようだ。地方のようだが、所在地と病院の名前は分からない。
Bは50代の男性サラリーマン。2人の子供がおり、長男の野球の話などが織り交ぜられている。すでに仕事に復帰しているようだ。
Cは30代女性で看護師。もうすぐ40歳になろうとしている。10年近く闘病しているが、現在の経過は良いようだ。
Dは40代男性。どうもブログの更新がない。すでに亡くなっているようだが、代わりにブログを引き継いでいるのは奥さんだろうか。このブログが一番克明に、リンパ腫の闘病経過を記載している。現在のブログ管理者の所在地が北九州であった。
祐実は、どのブログ管理者に対しても、ブログコメント、メール、フェイスブックなどあらゆる方法で連絡を取った。手際よく段取りを進めていく。
中山からの返事は思ったよりも早かった。すぐに電話がかかってきて、祐実は携帯を取る。
「南、なんだよ。社長命令かよ。せっかく書いたのにさあ。まあ来週に回すのはいいんだけどね。どうせ芸能人の不倫記事なんて、どうでもいいや。せっかく福岡まで取材に来たのによさあ。これもボツかよ。もうラーメンでも食って帰るか」
中山は朝から愚痴が次々と口から出てくるのを止められないでいる。祐実は黙って聞いていたが、本題に入った。
「ごめんなさい。中山さん。私も困っていて、とにかくそういうことなので助けてください。今は福岡ですか?」
「そうだよ。ドームに行くけど、今日はナイターだからさ。まあ午前中は暇っていえば暇だけど、ある程度下調べと記事ネタを探してもう書き始めているところよ。そっちはどう?急だけど進んだか?」
「はい、だいたい調べました。ブログ見てくれました?」
「いやまだ、見ていないんだけど、北九州に住んでいるの?その病人さん」
「違うんです。実はもうその方はお亡くなりになっているようなんです」
中山は電話の向こうで笑っている。少しせせら笑いのように、引きつったような独特の笑い方だ。
「死人に会いに行けって?」
「そうじゃないんです。その奥様です。彼の死後、彼の闘病記録を克明に掘り起こしているんです」
「なるほどね。奥さんに会って、記事掲載の承諾を得てこいってことか?」
「まあ、そういうことです。午前中に行ってもらえますか?私は承諾を得られると思って書き始めます。本当に時間がないんです」
「分かった。任せておけ。で、その奥さんの所在は分かるのかい?」
「多分」
「なんだよ。その『多分』ってさあ。分かっていないのか?」
「いま打診しているところです」
「でもさあ、別に会う必要はないんでは?」
「この方に限っては、実名を出して欲しいのと、もうすでにお亡くなりになっているということで、情報を公開することを承諾してくださると、雑誌に載せるときにリンク先も載せたいので、一応印というか、契約というか、ちゃんとした承諾を取っておきたいんです。今回だけではない記事だと思うんで…」
「なるほどね。社長が連載するって言ったのか?だいたいそういうのを連載するようなことを社長がするとは思えないんだけど」
「私の勘です」
「『勘』だって?お前の勘なんて当てになるものか」
「死んでしまった人だからこそ、記事に力があるし」
「記事に信憑性を持たせたいわけね。社長の言う『リアリティ』ってやつですか。南は本当に真面目だよなあ。おまえを見習わないといけない」
「はあ」
少し気のない返事をしていると、祐実のところにメールが入る。北九州のブログ管理者からだ。
「中山さん、ヒットしました。北九州の奥様からですよ。ちょっと待ってくださいね」
すぐさま開くと、差出人の名前は上山優美子とある。亡くなった悪性リンパ腫の彼の名前は小岩健一。祐実は上山が小岩の妻だとばかり思っていたが、違うのだろうか。一体どういうことだろう。もしかして小岩は独身だったのだろうか。瞬時に浮かぶ小岩の謎が膨らんでいく。
「あのですね、上山優美子さんという方です。承諾してくださいました。よかったあ」
「了解した。ではその連絡先をメールしてくれ。俺は身支度をする。ところで会ってくれるのか?」
「はい。今日は家にいるそうですので、会っていただけますよ。会う場所などは中山さんにお任せしますね。私はとにかく記事を書きます」
「分かった。がんばれよ」
「ありがとうございます」
中山は言葉は荒っぽいが、会社では一番男気のある人情味の厚い男だった。
祐実は早速、小岩の闘病の様子を軸に記事をまとめるつもりだ。北海一郎とちょうど同じくらいの年齢だからだ。小岩は46歳、北海一郎は48歳。北海一郎にしてみれば、この病気はとんでもなく恐ろしいものに感じているはずだ。
早晩、どこかの日刊紙がすっぱ抜くだろう。その時にうちの雑誌が被れば、部数を伸ばすのは間違いない。しかし、北海一郎の発病を記事にするわけにはいかなかった。何の情報もないからだ。
社長のアイデアだったが、祐実も原発による放射能の影響があちこちで出始める時期において、これは「いける」と感じていた。血液がんの一種である悪性リンパ腫は、白血病の次に多いがんだ。発症率は10万人に2〜3人。発病は主に60歳以上が大部分を占める。しかし、近年、若年層である30代から40代の発病が増加している。増加しているといっても、滅多にかかることのない病であることには変わりない。
北海一郎が48歳であることを考えると、何らかの環境の変化に伴う若年化が進行していることは間違いない。そして、原発作業員の多くが白血病とこの悪性リンパ腫、さらには骨髄腫になることが多いことが知られている。労災として認定もされ始めている。
そう考えると、話題になってもおかしくないばかりか、これだけ食品に放射能汚染が広がり、内部被曝の件数が増加し、体内の放射性物質の蓄積が深刻化しているのであれば、原発関連の特殊な病ではなく、いずれ爆発的に増えるに違いない。
祐実はこの真実を、リアルに記事にすることが今回の使命であると確信した。現在闘病中の患者を含め、すでに亡くなってしまった患者の歴史を伝えることが、真のリアリティであると思った。
「よし!」
祐実は思わず声を上げた。湧き上がるパッションが全身を突き抜ける。
「どうした、どうした。えらくやる気じゃないか?買ってきてやったぞ、ツナサンド。何も食べてなかっただろう」
知らないうちに入江が戻っていた。祐実は、さっき声を張り上げたところを見られたのではないかと恥ずかしく思い、入江に話しかける。
「わー、ありがとうございます、入江さん優しい!しかし、いつの間にいたんですか」
しかし入江は、話題を変えさせない。
「いつも優しいぞ、俺は。おまえが鈍感だから気づかないだけだ。しかし、なんでおまえ、ガッツポーズなんかしてたんだ?」
「いや、その、見られちゃいましたね。実はこんな話をする時間も今は惜しいんです。12時までに4ページ上げないといけなくて、さっき社長から電話があって…」
「もうだって9時過ぎてるぞ。間に合うのかよ」
「やばいですよね。ちょっと微妙。でも大丈夫。かなり進みました」
「写真とか、図とか、そういうのがないともたないぞ。ネタはあるのか?イラストは間に合わないだろう」
「そうなんですよね。データの表とか、病気のチャート表なんかはできそうですけど、医師の裏付けが欲しいところなんですよね。私が書いたにしてもチェックできないので、医学的根拠については、ネットで手に入るものを使用して、事後的に病院に連絡しますけど」
「まあ、なあ。でもあまり面白くないぞ」
社長は硬派な雑誌を目指していたが、出版の売り上げが激減する中、馬場編集長は「受け」を狙った企画を推し進めていた。入江はそれに同調する派閥に属していた。今回の病気特集について、社長は馬場編集長に話しているのか、祐実は不安になる。
入江はそれを察するように言った。
「少しくらい色物というか、面白いネタがないと編集長はOKしないぞ。それより、社長の命令だろうけど、馬場さんは怒るだろうなあ。南の枠自体は、社長枠だからいいんだけど、中山の色物は馬場さんの意向だからな。一悶着あるんじゃないか?別に南の2ページ枠でいいと思うんだけど」
「まあ、そうですよね。2ページなら楽なんですけど…」
そう言うと、祐実はお腹が鳴る音をごまかしながら、ツナサンドを広げた。
「腹が減ったろう。もう9時だからな。そろそろみんな出勤してくるぞ。誰が一番早いかな」
入江がつぶやくと、祐実は時計を見てぞっとする。
「食べている場合ではないですよ。もう9時じゃないですか」
「なんかいい手はあるのか?」
「いま、中山さんにお願いしているんですが、もうこの病気で亡くなった方の手記を手に入れれば、この病気でどういう風に死んでいくかという『リアル』を書けて、かなりインパクトがあると思うんです」
「それはえぐいねえ。こういう記事は、どう治すかっていうのがメインだろうけど、現実はこうだっていうのを暴くっていうのなら、馬場さんはOKを出すんじゃないかな。社長はOKなのか?」
祐実は、社長にはまだ話していないことがとても不安になる。だんだんと締め切りの時間が迫ってくる。社長に話す時間があるだろうか。中山は上山優美子に会えたのだろうか。まだ完成していない記事への不安で、ツナサンドの味が全く分からなかった。喉に詰まるぱさぱさのパン生地を飲み込むために、焦げついたコーヒーでもいいから飲みたい。
祐実は立ち上がり、「社長は10時前には来るでしょうから、その時に話しますよ。馬場さんがOKなら社長も大丈夫でしょう」と不安をかき消すように強がった言い方で入江を覗き見た。
スマホのメッセを開くと、中山から返事があった。
「南よ。あの人は奥さんじゃないぞ!どういうことか分からないが会ってくるわ。一応記載はOKだが、ちょっと彼女は神経質なようで、記載する文面を一度送ってほしいと言っていた。とりあえず会ってくる。死んでしまった彼の写真などもあるらしいので、データをもらうことにする。かなり協力的だぞ。今電車で北九州に向かっている。そろそろ着くけど、そっちは進んだのか?」
祐実は、「奥さんではない」という言葉が強烈に脳裏を刺激する。まずいコーヒーが喉から胃に流れ込み、それが逆流して脳に直撃する不快な気持ち悪さを感じる。しかしこの謎は祐実を惹きつけて離さなかった。
「中山先輩、ありがとうございます。記事はかなり進みました。いま、小岩健一のデータをまとめています。私は彼がどういう死に方をしたか、つまり真の闘病の記録が欲しいので、もし上山優美子さんがデータとしてお持ちなら、例えば闘病記のようなものがあればグッドです。もちろん写真などもあればベストですね。よろしくお願いします」
上山優美子が編集している小岩健一のブログは壮絶な闘病の記録が残されている。これで十分だと言える。しかしデータが主に書いてあり、断片的に小岩の言葉が現れるだけだ。きっと小岩が上山に送ったメールなどが見たい。これを彼女が見せてくれるかどうかだ。ブログは当たり障りのない客観的データでしかない。それでも他のブログに比べて、ダントツでこの病気の恐ろしさを伝えていた。
祐実がまとめた悪性リンパ腫の概要はこうだ。
悪性リンパ腫は、血液がんの一種で、リンパ球という血液細胞が悪性化することで発症する病気である。リンパ球は全身のリンパ節やリンパ組織に存在するため、悪性リンパ腫は全身のあらゆる部位で発生する可能性がある。
悪性リンパ腫の初期症状として、首や脇の下、足の付け根にあるリンパ節の腫れが最も多く見られる。この腫れは痛みを伴わないことが多い。そのため、発見が遅れることがある。また、発熱、体重減少、大量の寝汗といった、がんの全身症状(B症状)を伴うこともある。この病気には様々なタイプがあり、進行の速さや治療法も異なる。病気のタイプは、顕微鏡で細胞の形や性質を調べることで特定される。
一般的な血液検査では異常が見られないことも多く、確定診断には腫れたリンパ節の一部を採取して調べる「生検」が必要となる。稀な病気ではないが、症状が風邪や他の病気に似ているため、医師がこの病気を疑わないと診断が難しい場合がある。
ゆみとゆみこ 悪性リンパ腫で死んだ彼の闘病記 タコエビ @ebitako311
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