届かぬ手紙

君山洋太朗

届かぬ手紙

「君へ


今夜もまた君のことを思って眠れずにいる。


ここはひどい場所だ。雨が降り続いて塹壕は泥沼のようになり、足音を立てれば敵に悟られてしまうから、みんな這うようにして移動している。食べ物はパンの欠片がひとつあればいい方で、昨日は何も口にできなかった。寒さが骨まで染み込んで、毛布にくるまっても震えが止まらない。


それでも君の笑顔を思い出すと、不思議と心が温かくなる。あの日、海岸で一緒に見た夕陽のことを覚えているだろうか。オレンジ色の光が水面に揺れて、君の頬を染めていた。「きれいね」と言った君の声が、今でもはっきりと聞こえる。


隣にいた田中が昨夜、砲弾の破片を胸に受けて息を引き取った。最期に「お袋に会いたい」と呟いていた。僕は田中の手を握って、「大丈夫だ、きっと会える」と嘘をついた。


君にも嘘をついている。「必ず帰る」と約束したけれど、ここにいると明日がどうなるか分からない。でも、その約束は嘘じゃない。君のために、僕は生きて帰らなければならない。


帰ったらまた一緒に海を見よう。今度は君の手を離さずに、ずっと隣にいる。」



「君へ


仲間がまたひとり逝った。佐藤だった。朝の偵察から戻ってこなかった。昼過ぎに見つかったときは、もう冷たくなっていた。


僕たちは佐藤を土に埋めた。墓標の代わりに、彼のヘルメットを置いた。誰かが野の花を手向けてくれた。名前も知らない小さな花だったけれど、とてもきれいだった。


君は花が好きだったね。あの小さな庭で、いつも何かを育てていた。春にはチューリップ、夏にはひまわり。「花は希望なの」と君は言った。今、僕にも希望が必要だ。


この手紙が君のもとに届くことを祈っている。届かないかもしれない。でも書かずにはいられない。君に伝えたいことが山のようにある。


夜が明けたら、また戦いが始まる。僕は生きて帰る。君のために。」



「君へ


何日も手紙を書けなかった。状況が悪化している。敵の攻撃が激しくなって、昼間は身を隠すことしかできない。


昨夜、大きな砲撃があった。地面が揺れて、耳が聞こえなくなった。僕の隣にいた新兵の山田が、恐怖で震えていた。まだ十八歳だった。故郷の話をよくしてくれた。田んぼが広がる小さな村で、妹が一人いると言っていた。


山田はもういない。


いつか帰れるだろうか。この地獄から抜け出して、君の元に戻ることができるだろうか。夜になると不安で押し潰されそうになる。でも君の顔を思い浮かべると、心の奥で何かが燃えるのを感じる。それが僕を生かしている。


この戦争が終わったら、君と結婚しよう。海の見える小さな家で、静かに暮らそう。君が育てる花に囲まれて、平穏な日々を送ろう。


そんな未来があることを信じている。信じなければ、ここで息をしていることができない。」



「君へ


もう君の声を聞けないのではないかと恐ろしい。


今日、中隊長が戦死した。あの勇敢で優しい人が、一瞬のうちに。戦場では誰もが平等に死に向かっている。僕だけが特別ではない。


もし二度と会えなくても、君には知っていてほしい。君と過ごした日々が、僕の人生で最も輝いていたということを。君の笑い声が、僕の心に永遠に響いているということを。


明日、我々は総攻撃に出る。生きて帰れるかどうか分からない。でも君のために戦う。君を守るために。


どうか、僕のことを忘れないで。そして、どうか幸せになって。」



雨の音が窓を叩いている。


彼女は膝の上に広げられた手紙の束を見つめていた。軍服を着た男性が昨日届けてくれた遺品の中にあった、彼の手紙だった。


「戦死されました」


その言葉が何度も頭の中で繰り返される。軍が彼の持ち物を整理したとき、書きかけの手紙が束になって見つかったのだという。


手紙を持つ手は震えていた。


彼はもうこの世にいない。


それでも彼の言葉は生きていた。「君の笑顔を思い出すと眠れる」「帰ったらまた一緒に海を見たい」。すべて過去形になってしまった願いが、今も彼女の心に響いている。


最後の手紙は途中で途切れていた。インクが乾かないまま、文字が滲んでいた。


「君に、伝えたいことが――」


彼女は手紙を胸に抱いた。届くことのなかった想いを、彼女の胸の奥深くで受け取った。涙が頬を伝って落ちていく。


窓の外で雨は降り続いている。


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