IV. 第5話 Grande Sonata Pathétique II. Adagio Cantabile

 彼女が眠りに就いたのを確認して、私はベッドから抜け出した。


結露で濡れた窓を少し開けると、横殴りだった細かい雪が牡丹雪になり、白い地面に滔滔と落ちていた。


雪の匂いは、私の脳を甘く麻痺させた。


母が雪国の出身で、祖父母の家で過ごした子供の頃の記憶が呼び起され、くすぐったい気持ちになる。


窓を閉めて、私はデスク向かい、書きかけの物語のファイルを開いた。


 私は、何のために物語を書いているのだろう?


文学的野心のため?


それは、確かにかつてあった。


会社勤めをしていた私の父は、仕事で壊れたが、会社や会社が作っていた商品で、彼は救われることはなかった。


だから父のように、具体的なモノのために働きたくはなかった。


もっと精神的で、超越的ななにかを作る仕事をしたかった。


そこにいるのに触れられないものを書き表すこと。

物語を書くことは、本当に素晴らしいことだった。


だが、それで生きていくことは簡単なことではない。


いろいろ試したが、どうやら私には、致命的な才能が欠如していた。


人を楽しませる才能だ。


私は、私のためだけに書いていた。言葉は、私だけのものではないのに。

私は、言葉で書くことに夢中で、それが誰かのものであること、それを誰かに与えることを考えていなかった。


「自分の欠落を埋めるためだ」と誰かが言った。

「死んだ王様を慰めるため、出来の悪い人形をせっせと作るんだよ」


それはあり得る話だ。私は、私のために書いている。

だが、彼の言う穴の様な欲望は、私にはない。


私が私の物語に求めるのは、もっと質素で、もっと確かなものだ。


私は、彼のような暴君ではないのだ。


「人間は、関係の生き物です」と誰かが言った。


ジャン・リュック=ナンシーだっただろうか?

いちいち本棚から本を引っ張り出して、参照するような時間ではない。


「自分が繋がれている関係というものを、目を凝らして見つめてみなさい」と誰かは続けた。


私は、暗闇のなかに映し出された、文字の羅列との繋がりを見出す。なにかが私の思考の核を掠めたような気がする。


私が書いたこの混乱こそ、私であり、私から生まれた憐れな子どもだった。


私が動けば、それも動く。鏡像のように。私が死ねば、それも不動となるだろう。


「忘れたのか? お前、キレると見境がつかなくなるからな」と誰かが言った。


マールボロとは異なる煙草の臭い。感情が逆撫でされ、嫌悪感が顔に出るのを抑えられない。


「まさか自分が、人畜無害で無色透明な人間だなんて思ってないだろうな?」


黙れ、黙れよ。

俺は、お前みたいに好き勝手に生きてこなかった。親父の顔色を見て、母さんに寄り添って生きてきた。


なんでお前にそんなことを言われなくちゃならないんだ。


俺の書くものが、なにか人に害を与えるのか?

言葉が、だれかを傷つけたり殺したりするのかよ?


お前こそどうなんだよ?


警察から聞いたよ、一緒に住んでた女を死なせたって?


なにが自分で自分の尻は拭く、だよ。

いま、どこでなにをしてんだ。


 私は、女が床に置いたままにしていたギターを膝に置いた。


適当にコードを押さえ、あまり音を出さないようにアルペジオを奏でた。

どうも一弦のEの音が気持ち高く、少し跳ねた和音を出している。


それは到底Fではなく、間違いなくEの音だったが、微妙に異なっている。チューニングした際、絶対音感のある彼女が、自分の好みの音に仕上げたのだろう。


音も言葉も同じだ。人が作り出すものは、何だって真理を捉えそこなってしまうのだ。


彼女をまねて、『主よ、人の望みの喜びよ』を弾こうとした。

だが、主旋律を探るだけで精一杯だった。


机の上には、彼女が引っ張り出してきたCDが積んであった。


母からもらったグールドのピアノソナタが二枚。その下に、hideの『HIDE YOUR FACE』があった。


私は、これをパソコンにセットし、イヤフォンを耳に挿した。


ずいぶん古いCDで、プラスチックのパッケージに大きな亀裂が入っていたが、音楽は問題なく再生された。


『DICE』が流れ始めると、私は懐かしい気持ちになり、当時住んでいた家の匂い、中学時代の通学路や教室、顔の見えない同級生の姿が脳裏をよぎった。


hideが死んで、何年経つのだろう?


これは死者の声であり、死者が鳴らすギターだった。


 しばらく、記憶が湧き上がるのにまかせ、私は自分が書いた文章を読み直し、書き直した。


ふと、女が気に止めたピエール・ブーラのポスターが気になり、横を向いた。


こうして見ると、エッフェル塔はまさしく、勃起した男性器のようだった。二十世紀までは、この陰茎が人の社会を牽引してきたのだ。


空に向かってそそり立つそれは、私にもついている身体器官だった。つまり、少なくとも生物学的には、私は男だった。


人はまず、自分の身体から自己の確認を始める。


私は男性器を持つがゆえに男である。

ベッドで眠っている女は、それを納める器官を持っているがゆえに女である、と。


だがこの性差は、それ以上の意味は持ちえなかった。


私が性的快感の絶頂を迎えて放出した精子は、行き場もなくコンドームによって堰き止められ、それを迎えるはずの彼女の卵子は、来るべき日に血と共に流れ出していく。


このように私たちは、異なる身体的特徴を持っていたが、それは何事も引き起こさず、それ以上の意味は持ちえなかった。


私はそこに、死の欲動のようなものを感じた。


私たちは生殖ではなく、生殖行為にのみ関心を持ち、緩やかな自殺をしているのではないだろうか、と。


 すぐ後ろのベッドで、一人の女が眠っていたが、私は底のない孤独を感じた。


私が、いつまでも私でいなければならないことに絶望を感じた。


私は追憶にまかせ、一人の女について思い出した。


私は、彼女にだけは、自分のことをできるだけ正直に話した。


私は彼女を愛していた。

愛することの意味さえわからず、死に物狂いで愛していた。


だけど、私たちは幼かった。


私は、愛する人には、自分のすべてを伝えなければならない、と信じていた。

お互いのすべて共有しなければならない、と私は妄信していた。


私は、中学時代、家出をしたことがあった。

それは、私にとって決定的な出来事であった。


この世界は、一つなんかじゃなかった。東京と大阪に、私と友人、すべて存在する者の為に、世界は分裂し、広がっていた。


それを物語として書きたいと、私は願っていた。


私は、すべてを彼女に話した。


彼女も同じように、私にすべてを話した。


私たちは二人の人間ではなく、私たちという一つの存在だった。


「生理、来ないんだ」

夏の雨よりも、温かくじっとりとした彼女の体温が、私に伝わる。私たちは、ようやく二十歳になろうとしていた。


「まだ、ママになりたくないかな……」

その言葉に、私は彼女に拒絶されたような気がするとともに、受け入れられたような気もした。


だが、しばらくして、私たちは、それぞれの私を選び、別々の私になることにした。


私たちには、数え切れないほどの可能性があり、その可能性を試すほうが、お互いの幸せになると信じた。


彼女の体から手を離すとき、自分の体を切り落とすような痛みがあった。私たちは向かい合い、大人になる最後の子どもの涙を流した。


『TELL ME』の湧き上がるようなイントロが流れ始めたとき、最後に見た彼女の顔が、ピントが合うように鮮明に蘇った。


 耳を音楽で塞いだまま、暗いスクリーンセイバーを眺めていると、そこに女の影が映った。


振り向くと、ベッドで寝ていたはずの女が立ち上がり、裸で私の後ろに立っていた。私は彼女と見つめ合ったが、背筋が凍った。


別人だ。彼女は、彼女ではない。


私は青ざめ、イヤフォンを耳から抜き、なにかを言い掛けた。

彼女はゆっくりと振り向き、ブーラのポスターの方へ歩き始めた。


彼女はポスターの端を掴むと、それを引き剥がし始めた。


画鋲が床に落ちる。私に背中と臀部を向け、右手で垂れたポスターを握ったまま、彼女は言った。


「あなたは、これを憶えてる?」


ポスターが剥がれたあとには、壁に女性器のような裂傷が刻まれていた。


私はそれを見て、頭を殴られたような衝撃が走った。私は、壁にそんな傷をつけた記憶はなかったが、その傷には見覚えがあったのだ。


彼女がそのなかに手を入れると、壁の傷は、まるで本物の性器のように広がり、撓り、そこから彼女は、見覚えのあるナイフを取り出した。


それは、やはり曇り一つなく、パソコンのスクリーンの光を鋭く反射させていた。


「さようなら。言葉はもう、私のものなの」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る