I. 第3話 少年たち
一九九六年、七月。
満員電車のなか、スーツ姿の男二人に挟まれ、窮屈な席に座っていた寛人は、ゲームのスイッチを切ると、目の前で本を読んでいる北川の顔を見上げた。
眼鏡の奥の小さく鋭い目のなかで、眼球が上下に動いている。
電車がスピードを落とし、駅に停まった。
北川は『夜の果てへの旅』に栞を挟んで閉じ、カバンに押し込んだ。
ドアが開くと、満員電車の人の壁が揺らぎ、蛇口をひねったように人が放出された。寛人は、乱暴に人を掻き分けて行く北川のあとに続く。
改札を出ると、二人を待っていた村上と水岡と合流した。
背の低い水岡は、挨拶もそこそこに寛人と北川のあいだに割って入り、甲高い声で喋り始め、
ハードワックスで髪の毛を立たせた村上は、イヤフォンを耳に挿したまま軽く手を挙げ、先に歩き出した。
陽射しはすでに肌を焼き、風はなく、浅葱色の空にかすれた雲が貼りついている。
空気は白く、重かった。
学校へと向かう途中、寛人はいつもより無口で、ときどき浮かべる笑顔にも、感情がなかった。
昨夜また、異父兄の潤と母がひどい喧嘩をし、父は父で、ここしばらく塞ぎ込んでいたかと思うと、突然癇癪を起こすありさまだった。
誰彼構わず無邪気にまとわりつく水岡も、
それをからかう北川も、
ズボンのポケットに両手を突っ込み、猫背気味で寛人の隣を歩く村上も、
裕福な家庭の子供たちだった。
特殊な生態の植物が、限られた場所で群生するように、彼らもまた、こうして一つの場所に集まっていた。
寛人の父は、折からの不況に煽られ、職を失うことになっていた。勤める会社自体が、なくなるそうだ。
これまで気にしたこともないこうした不公平が、その日の朝の寛人の心を、ずぶずぶと刺した。
寛人たちが通っている都内の私立中学も、来週から期末考査が始まろうとしていた。
午前中の授業が終わり、昼休みになると、いつものように、あまり気持ちの良くない見世物が始まった。
体の大きい安東や、口の達者な黒川たちに、体が小さく、関西弁で喋る村田が囲まれ、難癖をつけられ始めた。
彼ら寮生たちは、寛人たち通学生たちとは違うしきたりを持ち、彼ら独自の物語をもっているため口を挟むこともできず、いつも何となく眺めていた。
いつもなら、村田が泣き出し、安東たちが飽きるまで続けられるこの供犠だが、この日はいつもとは違った。
村田は、机を叩きながら、執拗な口調で責め立てる黒川を突き飛ばし、教室を飛び出して行った。
突き飛ばされた黒川は尻もちを付いたが、跳ね起きると、思わぬ反撃を受けた驚きと羞恥のため、顔を紅潮させ、声を上げてその後を追った。
黒川の後に安東たちも続いた。
村田が、担任に告げ口したらかなわない、と思ったのだろう。
廊下を走る上履きの足音と、怒声が何度か聞こえてきた。水岡は食べかけのサンドウィッチを手に、寛人たちに話しかけた。
「ねえ、観に行こう。」
「バカじゃねえの。一人で行けよ。」
一人、弁当を持参していた北川は、苛立たしそうに玉ねぎの小片を除けながら言った。
寛人は、村上のCDウォークマンの片方のイヤフォンを耳に挿し、hideの『HIDE YOUR FACE』を聴いていた。
寛人は、睫毛が長く、どこか翳のある大きな目で、北川を見た。
いつも、糊の効いた真っ白なシャツを着ていたが、北川自身は容姿をあまり気にしないらしく、くせ毛を櫛で梳かすこともなく、分厚い眼鏡はしょっちゅうずり落ちた。
背は水岡より少し高かったが、体つきはすでに角張り、口の周りに濃い産毛が生えている。
見た目は冴えなかったが、北川の家は、三鷹にある二代続く医家であり、成績はどの科目でも常に上位五位以内に入り、舌鋒鋭い皮肉屋だった。
一方で、色白で手足が長く、髪の毛を伸ばしかけている寛人の成績は、下位三分の一を出たり入ったり、という具合だった。
「村田がチクって終わり。放っときゃいい」
そう言う北川に対して、寛人はあらためて、
どうして彼と一緒にいるのか
考えてみた。
通学路が一緒だからだろうか?
学期始め、席が前後だったからだろうか?
それもあるだろう。
しかし、いまは、どこかの歯車が奇跡的にかみ合い、こうして友人同士でいられたが、それが少しでも狂えば、村田と安東たちと同じように、決定的な差別関係になってしまうように思われた。
少なくともいま、寛人は北川のことを醜く思っていた。
「で、でも、あいつら、上に行ったよ。」
自己主張が苦手な寛人が、北川に反論するには、かなりの勇気を必要とした。
喉が渇いて貼りつくのを感じて、唾を飲み込み、誤魔化すために、パックジュースのストローをくわえた。
実際、職員室に行くには、教室を出て廊下を右にまっすぐ進み、突き当りを左に曲がらなければならなかった。
だが、村田たちは、教室を出るとすぐに左に曲がり、階段を昇って行く足音が聞えた。
「水岡、一緒に行こうよ。黒川、マジでキレてたし、ヤバいよ。」
北川に否定された水岡は、躊躇した。
寛人はイヤフォンを外して村上に返すと、足早に一人で教室を出て行った。
左に曲がり、階段を昇ったが、二階の廊下にも、三階の廊下にも、村田たちの姿は見当たらなかった。
階段の上方で、声が聞えた。
屋上に出たようだ。
寛人は、段を飛ばしながら階段を駆け上ると、昼間でも薄暗い踊り場で、少し息を整えた。
北川が言ったように、なにもできることはなさそうだった。
彼らに、なんて声を掛ければいいのだろう?
イジメはやめろ?
ばかな。今度は自分が標的にされるだけ。
野次馬になりたいだけ?
手を掛けた重い鉄製の扉のノブは、彼がここにいることを非難するように冷やりとしていた。
それでもノブを廻し、ドアを押し開けると、夏の凝集した陽光と、蝉の声が奔出した。
寛人は目を細め、反射的に視線を下に落とした。足元には、煙草の吸殻が何本か落ちていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます