薄い腹の伝説

百瀬ひらく

薄い腹の伝説

 身体の薄い女は、腹が弱い。すぐ吐くし、すぐ下す。今も橋のたもとで嘔吐しながらうずくまっている。季節に合わない薄手の着物も相まって、柔らかいごみみたいだ。人波が避けていく。

 どんなに汚くても、可哀そうであれば可哀そうであるほど、そういうときほど誰かが釣れるものなのだ。ほら、少しよれた革靴と、汚れがついているものの元は仕立ての良さそうなトラウザーズが、立ち止まる。ハンカチを差し出す男の目を見ればわかる。このひとも、かくまってくれる人だ。男はハンカチを手渡すと、しばらく女の冷え切った手を握ったままでいた。逃げやしないから、出来ればもう少し時間をください。そのように女は言ったつもりだったが、声は小さくかすれていたために来た風に流されて、聞き取られていたのかどうかは怪しい。女が軽くえずくと、男は慌てて手を離した。


 湿地帯に湧く、泉のようなものだ。一か所が何かあって枯れても、歩き回っていればすぐに次の湧水が見つかる。場合によっては動かずとも、私のいるくぼみに水は流れてくる。私はいつも低いところにいるのだから。私はそれに手を入れて、一人に絶望されてもすぐに次が現れる。ある人は「お兄ちゃん」、ある人は「お父さん」を名乗っていた。また、

「依存的なのはよくない」

などとそういった人たちを罵倒する、少し賢い人もあった。いずれも私をきちんと育ててあげるといいながら、私の体の上を通り過ぎていく男たちだ。私はただ、匿われるだけ。

 小さな花柄が織り込まれたワンピースは、何人目かの「お父さん」の趣味だった。立ち襟に向かって編み上げられた胴体は、薄い腰から胸にかけての偏平な身体の線を無理矢理に露わにしているが、長いカフスと引きずるような裾は、女の肌を見せはしない。顔が派手な方ではないから、模範的、禁欲的な見た目と言えよう。そんな見た目の女がひどく乱れるのが、拾ってくれる男はみんな好きだった。

 それなのに、と女は恨みがましく橋の袂のビルを見上げる。激しく乱れる女が他の男の心を乱さないわけなどないのに、裏切ったと言っては彼らは女を放り出す。奪い取ったなら、奪い取られることもまた必定……そんな風には女は考えていなかった。ただ仲良く順番に、女の腰を、口を、ぽっかりと空いた排泄口を用いれば良いのにと思うばかりだった。好きなものが同じなのだから、きっと仲良くなれるわ。

女が見上げる先を追って、男は

「この近くにお住まいですか」

と淡々と訊く。

「いいえ、いいえ!」

激しく女が否定したので、男は近くにある常宿に女を連れ帰ることにしたらしい。大きな石造りのその建物は長逗留の人間も多いらしく、守衛に咎められることもなく男は女を連れてその上階へと向かった。宿、そのほうが気楽だ、と女は首をぐるりと回す。家に配偶者がいるからと、近場のホテルで飼われていたこともあった。その時のものよりも、だいぶ古くて大きい。足が沈み込むじゅうたんに覆われた長い廊下の突き当りにある部屋のキーを、付き添ったホテルの従業員が静かに開ける。ほのかな石鹸のにおいがした。


 絶望が折り重なるまでに、ホテルなら少しは時間が稼げる。好都合だ、と女は思った。何に絶望されるのかといえば、生活である。何もかも少しずつできなくて、家がゴミまみれになっていくこと。女にはよくわからない理由で届く、色とりどりの封筒たち。下手に引っ越し、まして籍を入れでもすれば、居場所を探し出しては喚き散らしていく親族、それを追いかけてくる官憲が訪ねてきたこともあった。そして……

 でも、そんなことはすべて、またしばらくは気にしなくてもよくなる。そう女は確信していた。きれいなタイルが隙間なく張られた深い浴槽の中、温かい桃色の液体に浸りながら、骨ばった手足をうーんと伸ばした。何か魔法でも使われているのだろうか、こわばった体は急速に息を吹き返し、感覚のなかった背中を水滴が伝うのもよくわかる。ここには、長くいられるといいな。


 前の「お父さん」に付けられた痣が消え、青白い頬に走っていた赤い血管が目立たなくなるまで、男は女に触れなかった。そっと寄り添ってもそれ以上近づいてこない。そろそろ次の手に出ないと、元の場所に返されてしまう。そう女が思い始めた日の昼頃、朝から出かけていた男が帰ってきて、どさどさと下ろした大きな麻袋から、つんと油のにおいがした。

 床にごわごわした大きな布が敷かれ、そこに立てられた骨組みの上に、白い布の張られた大きな木枠が載せられる。何枚も綴られた白い紙の束が高価なことは、ずいぶん前に少しだけ働いた雑貨店で、便箋を濡らして怒られたから知っていた。あれよりもずっと、厚くて白い。多分その紙束よりもほかの、瓶に入れられた油や、色とりどりのチューブのほうが。

「これはね、全部君のだよ」

明るいところで真正面から見る男の顔は、声の印象から考えていたよりもだいぶ若々しかった。明るい亜麻色の目。美しいものばかりを見て目が肥えている人間の、そういう太り方をした柔らかな頬肉が、角ばった顎に続いている。

「そんなに高価なもの貰うわけにいかない」

そう女が言いかえせば、男はころころと意味のない笑い声を立てた。今までの「お父さん」たちは家事か裁縫、せいぜい店番なんかをさせるばかりだった。当たり前だ、女に学はない。手に職もない。要領がいいわけですらない。こんなものを与え立って無駄なことは、女が一番わかっている。

「君は目がいい」

 亜麻色の目がくるんと輝いた。昔作ったべっこう飴に似ている。ぺかぺかと太陽を反射する、ほろ苦い飴。

「その目とその手、きみに最初に会った時にいい手だと思ったんだ。どこまでも触れる器用な手をしている」


 何回ベッドにもぐりこんでも、男は触れてこなかった。だから女は焦っていた。触れてくるのは画材の前に座らせられた時ばかり。きっとできるよと励ましつつ、最初は黒い塊を持たせられて、見たものを描きつづけた。

 今や、女の描くものは、それはそれは色とりどりの油絵だ。描きあがったと男が判断したものは、次々と持ち去られていった。産んだ子猫を持っていかれる繁殖用の猫のように、女は残りの絵に顔を近づけて、舐めるようにまた描き始める。

 絵を教える時だけ触れる男の体温は、外の気温に合わせるように高くなり、そしてまた低くなった。半年がたっていた。


「裸婦像を描きたいの」

 それまで窓から見えるものやホテルの客たち、持ち込んだ花や果物ばかりを描かせてきた男は、初めて描きたいものを告げた女を、珍しいものを見るように眺めた。いつ飽きられるともしれない生活の中で女が人間をつなぎとめる方法は、やはり触れて触れられることしかない。習い性となったそれを封じられた生活はもう何年も前、記憶がないくらい幼いころのことしかなくて、そんなころだって女はやっぱり、「お父さん」を名乗る人間ににこにこと笑いかけていたのだ。

 男が画商であり、そしてそれだけでなく、自らもまた絵を描く人間であることは、女にとって幸いだった。触れられる前に、まずは脱ぐ機会がなければ始まらないからだ。見本として、私の裸の像を描いてほしい、と伝えた。

「見本にならなければ意味がないからね、僕の手が見えるようにしよう」

 男は大きな鏡を用意させた。鏡の前で裸になってベッドに横たわる女の、ポーズを作ってやるために、男は初めて女の体に、下着で隠れる部分の体に触れた。前の「お父さん」の趣味で剃り上げていた陰毛はもうふさふさと元通りに生えそろっている。黒く濃いその茂みには触れぬまま、男は女の腹を下からなぞるように触れた。骨盤を確かめるように触れると、さらさらとした油っ気のない指が皮膚の少し下まで潜るように推してくる。下腹部からへそを通って、みぞおちの下まで、ある一定の幅をもって、なにかを探るように、確かめるように。

 探査されている感覚になる。深海の中を覗き込むみたい。女は首を曲げて、自分の腹に触れる男を覗き込んだ。

「お子さんは今、どこにいるの」

だから、男に静かに聞かれたことに、なんで?という声も出なかった。どうしてわかったのか。子どもを産んだことがあると、看破する男ははじめてだった。おそろしいあの十か月の間、女は肉割れが出来ないようにずっと油を塗りこみ続けたし、飛び出たへそは産んだ後すぐさま脱脂綿を詰め込んで、元に戻るまで押し込み続けた。ついでに子どものへそも同じようにした。女が子にしてやった、子どものためを思ってしてやったことは、最初の数週間にあふれるほど出る乳をふんだんに与えたことと、そのことくらいだった。子どももまた、女のもとからすぐに持ち去られていったから。

「『お兄ちゃん』のところ」

女は息を吸いなおして、ようやっと答える。

「頼れる兄弟がいるのか、よかった」

嘘をついているわけではない。その子の父親との血のつながりは毫もないが、そいつは女に大してお兄ちゃんと自称していたからだ。そういう人間も何人かいる。

「お腹の筋肉が割れているのがわかるかい?ここから内臓を触れるんだよ」

腹の太い、ベルト状の筋肉が、妊娠すると裂けてしまうことがあるらしい。すぐ腹が痛くなるのは割れているから、胃の腑が外に出てきてしまっているからだと男は解説する。

「人体の仕組みを知ることが、絵を描くことに繋がるからね」

男はにこにこと、太ももの付け根を伸ばすといい、と触れながらかるく負荷をかける。膝より上がぐんと伸びて、身体が少し楽になる。

「早く描いてください」

と、女は応えた。

 描かれながら鏡を見れば、男の手元が鏡に映って、はっきりとその動きを見ることができる。いくつかの円で関節のあたりをつけ、中心に当たるところに線を引く。人間の体を描くときに教わった、それは基本だった。ここに円が来るのか、と、服を脱いだ自分の体が教材になる。鏡に映る自分の体の上に、想像上の炭で円を描く。輪郭に線を引き、光の当たらない場所には陰影をつける。知らず、指が少しだけ動く。盗み取ろうと師の線を凝視して、女の下腹はしっかりとそのために準備をされた時のように、しっとりと赤く膨らんで湿っている。そこに触れるものは、ここには一人もいない。


 ここに連れてこられてから初めて、女はホテルを出た。四角い包みを、胸の前に捧げるように持っている。これがどこかに持っていかれてしまう前に、行かなければならないところがあった。

 高い階段の上に玄関がある中流階級の邸が、女の訪ね先であった。玄関で名を告げると、金髪をひっつめて、お仕着せをきっちり着込んだ使用人が出て、焦ったように

「急にいらっしゃっては困ります」

と押し出そうとした。

「会えなくてよいのです、ただひとつ、渡したいものがあって」

女は包みを取り去る。子どもを抱く裸婦の絵、女神と祝福された赤子の像に擬した、小さいけれども細かく書き込まれた木枠。押し問答になる。ただこれを預けたいだけなのだと頼み込んでいると、背後から

「お母さん見て」

と他の女を呼ぶ、丸々と太った女の子がいた。ちょうど帰宅してきたその子の黒髪はつややかで、意志の強そうな跳ね痕が付いていた。

「何これ、きれい」

きれい、という言葉が耳に入って、思わず振り返ってしまったのが、女の運の尽きであったらしい。振り返って、そのまま守衛に押された女は、絵を持ったままゆっくりと階段を落ちていった。見ていた人間は全員、息を吸い込んだ。誰も間に合いはしなかった。


 転がり落ちたことが、女をホテルに泊めていた男に知れたのはすぐのことだった。女の着るものすべてに、男の逗留先が縫い込まれていたからだ。階段から落ちた衝撃で、絵は切り裂かれていた。男は切り裂かれた絵を拾った。男は絵を修復すると、それをもって、数か月ぶりに異国の自宅へと向かう旅に出た。

 転がり落ちた際、腹に受けた傷がもとで、女はじきに息を引き取った。知らせの手紙は、海を渡るときに行方不明になり、ついに男に届くことはなかったという。

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