エッシャーの神隠し

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エッシャーの神隠し

 『でんぐりでんぐり』と呼ばれる虫に、俺はいたく心を奪われた。背中には団子虫のような甲羅を乗せ、足は人のような形のものが六本、目は蟹のようで、移動するときは六本の足で歩くか身体を丸めて車輪のように転がるらしい。そうして無限に階段のある天も地もあべこべな家を同じような仲間と徘徊する。俺は『でんぐりでんぐり』になりたい。こうして何も考えず、たまに思い出したようにでんぐり返りをして過ごしていたい。

 肩にトンと何かがぶつかり、我に帰ってそちらを見ると眼鏡を掛けた厳格そうなおじいさんに睨まれた。後ろが詰まっているから立ち止まるなということらしい。日曜日のエッシャー展は大賑わいだった。

 エッシャー展に来たのは、会社で無料券を貰ったからというだけの理由だった。エッシャー自体は中学の美術の教科書で見たことがあったから、どんな作品を描く人かは知っていた。だまし絵や錯視を用いた絵を多く残している画家だ。トリックアート展などにもよく飾られている。

 一番有名なのは今回のポスターにも使用されている『滝』だろうか。滝と水路のモノクロの絵で、滝から落ちる水の流れを辿ると、水路を流れ続け気付けばまた滝から落ちていくという絵だ。こんな現実には有り得ないような立体をよく描いていた。

 『でんぐりでんぐり』が描かれているのは『階段の家』という作品だ。こちらは重力や天地があべこべな世界で無限に続く階段のある家の絵だった。その家を『でんぐりでんぐり』が這っている。『でんぐりでんぐり』はこの家の家主なのだろうか。この世界における人間のような存在なのだろうか。

 俺は『でんぐりでんぐり』になりたい。

 改めてそう思う。

 多分疲れているのだ。やりたくないことばかりをやらさせれて嫌気が差している。何を頼まれても全てなんとかこなせてしまうから頼まれているのだとは分かっていた。しかも俺の性格からして頼まれれば断れない。そういう点では、俺が悪いのかもしれない。

 エッシャー展を一通り見終わり玄関へ戻ると、ポスターが貼ってあった。あまりに見慣れたポスターだった。俺がデザインを担当したポスターだからだ。

「我ながらよく出来てる」

 嬉しいけど、少しばかり寂しくなるのはなぜだろう。例えば学園祭の次の日の静けさだったり、花火の最後まで残っている光だったり、夕陽の沈む瞬間の紫色の空だったり、そんな終わり往くものにばかり心を奪われてしまうのはなぜだろう。

 何も終わらなければこんな気持ちにならずに済むのだろうか。

 スマートフォンが振動したから画面を見れば、「げ」と思わず声が出た。

『ごめん、至急出社して』

 久しぶりに完全にフリーな一日の筈だったのに。ミュージアムショップもゆっくり見たかったのに。幸か不幸かこの美術館は職場に近かったから、俺はそのまま出社することにした。

「早かったじゃん。もしかして連絡が来るのを見越して途中まで出社してた?」

 出社したら佐藤先輩がそんなことを言う。

「そんな訳無いでしょう。エッシャー展行ってただけです」

「へー……律儀。で、この前辞めた新入社員君のミスが発覚しちゃってさぁ。手が足りてないから行ってくれない?」

「うわ最悪。……まぁ謝る頭なんて何個でもあるんで、いいですけど……」

 あまり規模の大きくない広告会社だったから、長くいる俺は自分の分野以外の雑務も頼まれるようになっていた。

 俺は会社を出ると百貨店で菓子折りを買い、先方に謝りに行った。幸いなことに見知った担当者が出迎えてくれて案外すんなりと話は通った。知り合いだからというのもあっただろうし、自分がこれまで誠実に仕事をしていたことが助けてくれたというのもあったのだろう。

 再び職場に顔を出し先輩に報告を終えて解放されると、もう日が落ちかけていた。休みの日の仕事は平日と比べると変な疲れが出る。帰り際にまたエッシャー展に行くことにした。半券で再入場も出来たし、ミュージアムショップも見たかったから。

 昼には人が多かったが、閉館間際になるとまばらになっていた。

 さっきはゆっくり見れなかったから、俺はもう一度館内を回ることにした。『階段の家』の前で俺は立ち止まる。やっぱりこの絵が一番気になった。この世界に憧れたし、『でんぐりでんぐり』から目が離せない。じっと見ていると、絵が動き出しているような気がしてくる。……いや、本当に動いている。なんか、奥の方から、こっちに来ているような。

 すると、ごろごろごろごろと絵の中の『でんぐりでんぐり』がこちらに向かってきて──人が飛び出してきた。

「は!?」

 俺の横をすり抜け、そいつは背後の壁に激突する。

「えっ?」

 背中をしたたかに打ち、足を広げて座り込んだのは、俺よりもいくらか年下に見える男だった。肌の色は一度も日に当たったことが無いかのように白く、髪は黒い。服は白く、簡素なTシャツとズボンを身に着けていた。

 男は驚いたように目を見開いた。

「有限だ」

「有限?」

「限りが、ある」

 天を仰ぎ、辺りを見回し、トントンと確認するように床を叩く。

「すげー! こんな世界あるんだ俺が望んだ世界じゃん」

 嬉しそうに男は言った。

「お前……は?」

「それ」

 男は立ち上がり、指を差したのは『階段の家』だった。その中の一匹の『でんぐりでんぐり』を指し示している。

「これであり、これであり、こいつである」

 順番に男はいくつかの『でんぐりでんぐり』を指差していく。

「けど俺は今俺になった。俺は俺だ」

 そして自分を指差して、誇らしげに男は言った。

 こいつは何なんだろう。絵から出てきたとでも言うのか? そんな夢みたいなことが起こるとでも? けど俺ははっきりと絵から出てきたところを見てしまっているから、否定のしようがない。

「なぁ、あんたはなんなんだ?」

 問われて思う。俺とはなんなのかと。

 会社員であり、デザイナーであり、社会人ではあるが、問われているのはそういう物ではないように思う。俺というものは一体何なのか。

「俺は……人間、だ」

「人間って言うのか!」

 返事を濁したが、そいつは俺の答えに満足したらしく納得したように歯切れよくそう言った。

「お前は『でんぐりでんぐり』なのか」

「でんぐり……? え? 何?」

「この虫なんだろ?」

「そう!」

 こいつが『でんぐりでんぐり』という名前を知らないのも無理はない。『でんぐりでんぐり』というのは日本での俗称なのである。ちなみに正式名称は『Pedalternorotandomovens centroculatus articulosus』で、他に『Wentelteefje』とか『Curl-up』とも呼ばれていたりする。

「まだいるのか?」

 足音と共にやってきたのは制服の警備員だった。腕時計で確認すれば、二十時の閉館時間をとうに過ぎていた。

「閉館時間だから早く帰って」

「はーい、すぐ帰ります」

「俺の帰る場所?」

 警備員の言葉に『階段の家』を見て男は小声で呟いた。

「それならここなんだが……」

 絵の中に戻ることは出来るのだろうか? しかし男の表情は固く、絵の中にはまだ帰りたくなさそうだった。

「この世界が気になるんだろ」

 男は黒目を輝かせてこちらを向く。

「ひとまず俺の家に帰ろうか」

 そいつは大きく頷いて、俺の後ろを付いてきた。学生の頃の後輩みたいで、なんだか可愛いなと思った。




「この世界で一番繁栄している生物になっただけだと思う」

 一人暮らしのマンションに帰り、お茶を飲みつつテーブルを挟んで対峙する。

 なぜお前は人間になったのかと聞けば、男はそう答えた。

「『階段の家』の世界では『でんぐりでんぐり』が一番繁栄してたってことか?」

「そうだと思う。この世界はどこを見ても画一的でシンプルで面白いな。終わりがあるというのは新鮮だ」

「褒めてるのか褒めてないのか全然分からないな」

「感想を言ってるだけだよ。どちらがいいか、どちらが悪いかなんて事はない」

「俺も無限の世界なんて行ったことがないから、どちらがいいかなんて分からないな」

 時計を見ればもう二十一時頃だったから、俺は立ち上がりキッチンへ向かった。夜ご飯の時間はとうに過ぎてしまったが、寝る前には何か胃に入れておきたい。

「食べたいものある?」

「何かを食べた記憶は無い」

 それもそうかと思いつつ冷蔵庫を開けると、冷蔵庫の大半をすぐに食べられるようにと切っていたスイカが占領していた。田舎から丸々一個送られてきたスイカだ。

 虫だし瓜科は食うだろ、と半月の形のスイカを二つお盆に乗せ(スイカを乗せられるような大きさの皿は無かった)、テーブルに戻った。

「それはなんだ?」

「スイカ。種は出せよ」

 男は人差し指でつつき、鼻を寄せて匂いを嗅ぎ、首を傾げた。そんな様子に構わず俺がスイカにかぶり付くと、そいつも真似して大口を開けた。

「美味い!」

「美味いだろ? そのスイカ、『でんすけすいか』って言うんだよ。お前も名前無いと呼びにくいし『でんすけ』でいっか」

「でんすけ! いいな」

 適当に伝助という漢字を嵌めておいた。予測漢字変換候補一番目である。

「お前はこれからどうすんの?」

 その内絵の中には戻るのだろうが、それまでは自由にしてほしい気持ちもある。

「分かんないけど、俺のいた場所より面白そうだからしばらく居たいな」

「少しの間くらいならうちには居て良いから、なんか適当によろしくな」

「ありがとう」

 色の白い男──伝助が嬉しそうに礼を言う。どことなく最初に見たときより肌が赤味を帯びた気がするのは、気のせいなのだろうか。




 昨日も仕事をしたが、今日は平日なのでもちろん仕事に行く。社畜だという自覚はあるが、仕方ないのだ。社会人だから。

「俺は出勤するけど、伝助はどうする?」

「俺も行って良い?」

「それはダメ」

「そっか。まぁなんか適当にやってるよ」

 そう話していたのが一時間前のことで。

「ねぇ、入口に君の知り合いっていう人が来てるんだけど」

 そう言われたのが五分前だった。職場のビルの入口に居たのは、伝助だった。

「行く場所無いから来た」

 ダメって、言ったはずなんだけどな……。とはいえ目の届くところに居てほしいというのも事実だった。しかし部外者だし社外秘の物もあるから、職場の中にまでは通せない。

 仕方ないので従兄弟が来てしまったということにして、会議室にいてもらうことにした。会議室には、外部向けの資料もあるし退屈はしないだろうという意図もあった。

「時間が出来たら見に来るから、ここで待っててくれるか?」

「いいよ。今俺の目には全てが新鮮なものに映るから、暇はしないと思う」

 俺は仕事に戻り、何かのついででたまに会議室を覗くとそのときの伝助は社内報を見ていた。確かに暇はしていなさそうだ。

 デスクに戻ると佐藤先輩が申し訳なさそうな顔をしていた。嫌な予感がする。

「ごめーん! これ急ぎでやってほしいんだけど……」

 誤植に訂正のシールを貼る仕事をしなければいけないらしい。簡単ではあるが、かなり時間は取られる。

「前に言ってたやつですね。皆でやるしかないでしょう。何部あるんですか?」

「三万部」

「いつまでです?」

「明後日」

「さすがに猫の手も借りたいね……」

「……借りよう」

 このくらいならばさせてもいいだろう。会議室に行くと伝助は印刷用の見本誌を見ているところだった。

「伝助、暇か?」

「忙しい」

「お前にも出来そうなことあるから手伝ってくれない?」

「やる!」

 伝助も加わり皆で作業を始めた。伝助はどうやら根が器用だし、コツを掴むのも早いようだ。単純な作業ではあったが、さくさくと作業を進めてくれる。

「伝助君って先輩の何なんですか?」

「従兄弟」

「似てないですね!」

「だろ? よく言われる」

 伝助は黙々と作業をし続けていた。無限の集中力と、同じ作業を無限にやり続けられるというのは、もしかしたらあの絵の中の世界で培われた能力なのかもしれないと、その姿を見ながら思った。

「終わったー! 達成感があるっていいな」

 そんな伝助の働きもあって、予想より早く作業が終わった。

「伝助君ありがとうね! 本当に助かった」

 佐藤先輩が伝助に礼を伝えた。まだ何か言いたげだった。

「新入社員も辞めて手が足りなかったところですし、伝助君をバイトとして雇っちゃえばいいんじゃないですか?」

「そんなことして良いんですか?」

「伝助君って学生? 良かったらこの夏だけでもどう?」

 ちらりと伝助は俺の顔を窺った。俺はやっても良いんじゃないかということを視線で促す。

「やります!」

 俺としては目の届くところに居てくれるし、会社としても人手があるに越したことはない。食費も二倍かかるなとは思っていたので、丁度良いかもしれない。



 それからは伝助と一緒に出社して、伝助と一緒に退社するという生活になった。

 伝助は根本的に「有限である」という事が好きらしく、何かの物事が終わることに物凄く達成感を得られるようだった。この世界は無限のものなんてあまり無いから、つまり大体の事が楽しいようである。

 良いよなぁ、と思う。俺よりもこの世界に向いている。何かが終わる度に物寂しくなってしまう俺にとって、それは羨ましくも見えた。

 伝助が慣れたきた頃、職場の人達で仕事終わりにバーベキューに行くことになった。

 テントを立て、火を起こし、作業が終わったとこので伝助は小高い丘を昇り転がっている。縦ではなく、横向きではあったが。

「久々に転がったな」

 全身に草を付けた伝助が、感慨深そうにそんなことを言う。佐藤先輩を含む女性社員はその姿に笑っていて、何人かの社員は真似して丘を昇り同じように転がったり滑ったりしていた。

「無邪気過ぎでは」

 伝助に付いた葉っぱを払いながら俺は言う。このまま洗濯したら洗濯物が全部葉っぱまみれになりそうだ。

「限りがあるっていいな。色んなことが出来て楽しい」

「お前がこの世界を楽しんでいてくれて嬉しいよ」

「空って無限?」

 伝助が指を差したから、俺はその指先の向こうを見た。どこか寂しい気持ちになる空だ。

「無限に限りなく近いかも」

「ちょっと懐かしい感じがするんだ。昼と夜の狭間には色が無くて、俺が居たところみたいだ」

「戻りたい?」

「こっちの世界の方が好き」

「ずっとこっちにいる?」

「出来るならそうしていたいな」

 佐藤先輩が俺たちのことを呼んだ。

「ねぇ、もうお肉食べないの?」

「あんまり腹が減らなくて」

「俺はもうちょっと食べに行こうかな」

 伝助はそう言って佐藤先輩のところへ焼けた肉を取りに行く。

「お前ちょっと焼けたよな」

 初めて会ったときよりも、健康的な肌になっている。腕を伸ばして比べると、俺の方が白かった。

「元々焼けても黒くなりにくいからな」

「日に焼けたら色が変わるなんて知らなかったな。不思議だ」

「リトグラフ(版画)だもんな」

「厳重に保管されてたし」

「焼けるわけ無いか」

 伝助が絵に戻ったら、一匹だけ色の付いた絵になるのだろうか。そんな絵も少し見てみたいなと思った。




「今日の予定って空いてる?」

 パソコンに向かっていると、パソコンと俺の目の間の狭い隙間に佐藤先輩が顔を入れてきて俺は仰け反った。

「集中してるところに脅かさないで貰えます?」

「ごめんごめん、株式会社MCEに行くから付いてきてほしかったんだけど」

 クライアントの会社だ。気難しい社長だったから、慣れている人が行った方がいいだろう。

「俺が行きたいところだけど……」

 しかしながら俺は暇ではない。モニター三つを駆使して、仕事を進めていた。

「今日は急遽本業の方の締め切りがあって」

「このデザインの仕事は君しか出来ないからなぁ」

 忘れられがちではあるが、俺はデザイナーであって営業では無いのである。

「じゃあ、伝助君連れていって良い?」

「良いですけど……役に立つかは分かりませんが」

「行って良いの?」

 近くで作業をしていた伝助が不意に名前を呼ばれたから顔を上げた。

「一人で行くよりは心強いから! じゃあ借りてくね」

 心配ではあったが、不安はなかったから俺は二人を見送り作業へと戻る。

 夕方、佐藤先輩が伝助と帰って来た。

「伝助君が仕事取ってきたよ!」

 そんな驚くような台詞と共に。伝助は佐藤先輩の隣で困ったような照れたような顔をしていた。

「伝助君が先方に気に入られちゃってさ。新しい仕事も貰えたんだよね。さすが君の従兄弟だ」

「俺も嬉しいよ」

 どうやら伝助は俺の代わりをしてくれるらしい。楽しそうに俺がやっていたことをやってくれているし、皆も伝助のことを慕っている。こんなに嬉しいことはない。

 伝助はこの世界に合っているみたいだ。

 じゃあ、俺は?

 俺の居場所は、どこだろう。



 三ヶ月の会期が終わり、エッシャー展の最終日。入口のポスターは夏の日差しに焼かれてどこか色褪せたように見えた。

 再びやってきた俺はまた『階段の家』の前で立ち止まる。ここは伝助がいた世界だ。

 最終日だと言うのに、どうしてだか周りに人はいない。俺は絵を囲っていた低い柵を跨いで越える。

「俺はでんぐりでんぐりだ」

 手を伸ばして絵に触れると、抵抗無く絵をすり抜けた。絵の中の手は手じゃなくて、足になっていることも分かる。終わりの無い世界がこの中に広がっている。思いきって絵の中に飛び込んだ。

 この世界に色はない。空は白く、輪郭と影だけが黒い。天と地があべこべの世界で、俺の足が地に付いていることだけが真実だった。周りには同じような見た目の仲間がたくさんいた。見上げれば仲間たちの頭が見えて、横では裏を向いて階段を昇っている。

 俺の個性は消えていく。無限の中では皆が俺で俺が皆だ。それが俺にとっては心地よい。何も考えなくていい。何にも縛られない。ここならばもう、寂しくない。気まぐれに転がりどこまでも進み、たまに歩いて、時に転がり、進んでいく。思考は段々と霧散する。どこまでもいける。どこまでも

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