あああああ

おさない

「あああああ」


 最初はお父さんだった。


 夜、仕事から帰って来た時のことだ。ドアを開けてリビングに入って来た父の顔を見た瞬間、僕は思わず小さな悲鳴を上げた。


 ――両目と口の中が、真っ黒に塗りつぶされていたのだ。


 まるで鉛筆で雑に塗りつぶしたかのような黒い影が、眼球の全体と口の中を覆っている。けれど、父はいつもと変わりない様子で「ただいま」と言った。


 母は動じることもなく、いつもの調子で「おかえりなさい」と返事をする。


 僕だけが凍り付いて、冷や汗を流していた。けれども恐る恐る声をかけてみると、父はいつも通りの調子で答えた。


 夕飯を食べる時の仕草も、口にする話題も、笑い方も、何一つとして変わっていない。おかしいのは黒く塗りつぶされた目と口だけ。


 ――ひょっとすると、僕の方がおかしくなってしまったのかもしれない。


 そう思って、母には黙っていた。


 変なことを言えば、病院に連れて行かれる。僕は病院が嫌いだから、そんな面倒は避けたかった。父――あるいは僕の身に起きた少しの異常くらい、見ないふりをしていれば済むと思ったのだ。


 だけど、それから数日も経たないうちに、今度は父の言葉が聞き取れなくなった。


 口はずっと開いてるみたいで、真っ黒で、そこから発される音は全部「あ」としか聞こえない。


 仕事から帰宅した父は「あああああ」と言う。これはおそらく「ただいま」だろう。母のあとに僕が「おかえりなさい」と言えば、父は満足したようにリビングへ入ってきて食卓に座る。


 そうしたら、今度は夕食を食べる前に「あああああ」。これは「いただきます」だ。返事はいらない。


 食事の最中も時々、父は「あああああ」と発するけれど、これは母が頷いたり笑ったりしているのを見て合わせれば、一応はやり過ごすことができた。


 この期に及んでもなお、母がこの異常を感じている様子はない。僕には全部「あ」としか聞こえないのに、母はいつも通り父と会話をしている。


 やはり、僕がおかしくなってしまったのだ。


 自分の心臓が脈打つ音がいつもより大きく聞こえて、何を食べても味がわからなかった。大好きなハンバーグも粘土みたいな感じがして、上手く喉を通らない。


 ――ずっとこのままだったらどうしよう。


 そしてさらに数日が経過した朝、僕は「あああああ」という声で目を覚ました。


 ベッドの脇に立っていたのは母である。父と同じく、目も口も真っ黒に塗りつぶされていた。


 母の声もやはり「あ」としか聞き取れなくなっていて、僕に何かを伝えようとしている。


 震えながら時計を見ると八時ちょうどだったので、「学校に遅れるよ」と僕を起こしに来てくれたことが分かった。

 

 母までそうなる頃には、もう町の人も同級生も先生も同じだった。


 黒い目、黒い口、絶えず聞こえてくる「あああああ」の合唱。


 三十人のクラスメイトが一斉に「あああああ」と騒ぐ教室の中に居る時なんかは、僕の方が耳を塞いで「あああああ」と叫びたくなってしまうくらいだ。


 たった数日で、世界はほとんど変わってしまった。


 僕が辛うじて生活を送れているのは、元々無口で、友達もいないから。人と話す機会がなければ会話が通じなくてもやり過ごせる。


 でも、限界だった。


 もし僕の頭がおかしくなってしまったのであれば、今すぐにでも病院に行かなければならないだろう。


 けれど、医者の先生だってきっと同じ顔をしていて、同じように「あああああ」と言うだろう。嫌いな病院で、言葉も通じない、黒い目と口をした先生と二人きり。


 想像しただけで血の気が引いて、吐き気が込み上げてくる。実際何度か吐いた。


 両親は心配してくれているように見えたけど、もう構われることすら怖かった。


 ――玄関から「ただいま」という普通の声がしたのは、そんな時のことだ。


 年の離れた兄が、家に帰省してきたのである。


 その瞬間、僕は泣きそうになりながら自分の部屋を飛び出した。


 兄だけは普通のまま、何も変わっていなかったのだ。黒い目でも黒い口でもない、ちゃんと話もできる。久しぶりに見た、僕以外の普通の人間だ。


 正直に言うと、僕は兄のことが苦手だった。年が離れているから話すことなんて何もないし、一緒に居ても気まずくて居心地が悪いだけだから。


 でももう、頼れる人なんて他にはいない。僕は何度も言葉を詰まらせながら、自分の身に起きていることを必死で説明した。


 兄はただ黙って僕の話を聞いてくれた。


 茶化すことも、冷たく突き放すこともなかった。


 こんなことなら、試しに電話でもかけていれば、もっと早く相談できていたかもしれない。僕は泣きながらそう思った。


 そうして全部を話し終えたとき、兄は静かに僕の肩へ手を置いた。


 温かい手だった。


 未だに震えている僕に対し、優しく、こう言ってくれたのだ。





「あああああ」

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あああああ おさない @noragame1118

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