第一章 影の遺児 第三節 初任務
月の白が、瓦に霜のように薄く乗っていた。
誠三郎は短刀一本を黒い帯で体に密着させ、裏町の影に息を殺して沈んでいる。
十にも満たぬ身には重すぎる役目。
だが、影烏に拾われたあの日から、逃げるという選択肢はなかった。
標的は賭場の胴元。
金のために人を潰し、女を売り、子を泣かせると噂の男。
なぜ殺すのか、その理由を問う者はいない。
命令はただ一つ――「消せ」。
出立の前、指南役の朽木玄斎が低く告げた。
「怯むな。おまえは刃となるために生まれたのだ」
その言葉に、返事はしなかった。
返すことを許されていない。
誠三郎はただ、柄を握る手に爪が食い込むのを感じながら、息を数えた。
通りの先から、間の抜けた鼻歌が近づいてくる。
標的の男は酔っていた。
酒と汗の混じった臭いが風に乗って届く。
草履が石畳を擦る音は不規則で、月光に揺れる影は頼りない。
誠三郎は呼吸を止める。
一、二、三――次の一で出る。
影から音もなく滑り出す。
短刀を刺すのではない。
体重を乗せ、落とす。
玄斎に教えられた通り、骨の隙間をなぞるように刃を滑らせ、一息に抜く。
生温かい飛沫が手の甲に散った。
鉄と酒の混じった臭いが鼻の奥を刺す。
男は獣のような呻き声を上げ、なおも地を這おうとした。
その肩を足で踏みつけ、もう一度。
今度は深く、静かに。
全ての音が、止まった。
遠くで聞こえていた犬の吠え声も、町の奥で軋む木戸の音も消え、耳の奥で自分の心臓が打つ音だけが、やけに大きく響いていた。
倒れた男の顔が、月に照らされる。
半開きの目は白く濁り、虚ろに夜空を映している。
口はだらしなく開き、歯の隙間から血泡が滲んでいた。
酔いに浮かんだ愚かな顔のまま、男の時間は永遠に止まった。
誠三郎は目を逸らせなかった。
まぶたを閉じれば、この顔が闇に焼き付くと、本能で知っていたからだ。
短刀を布で拭う。
だが、刃にまとわりつく脂肪のぬめりは、何度拭っても落ちきらない。
掌にじっとりと残る感触が、肉を断ち、骨に当たった記憶を呼び覚ます。
桶の水を浴びたい。
だが、許されない。
影の任務は、刃を振るって終わりではない。
この死の感触を体に刻んだまま屋敷へ戻り、なお沈黙を守り通さねばならないのだ。
屋敷に戻ると、水桶が用意されていた。
誠三郎は膝をつき、血に汚れた手を沈める。
水はすぐに赤黒く濁った。
指の隙間に絡みついた血は、爪で掻いても落ちない。
背後に立った玄斎は、何も言わなかった。
長い沈黙ののち、ぱたり、と扇を閉じる音がした。
「……よくやった。これでおまえも影の一人だ」
称賛でも、叱責でもない。
ただの事実を告げる声だった。
その夜、誠三郎に粥は与えられなかった。
「初めて血を浴びた者は、食うことを許さぬ。
腹を満たせば、刃は鈍る。
その夜の飢えと渇きで、己が振るった刃の重さを知れ」
それが、掟だった。
空腹のまま横たわると、まぶたの裏にあの男の死に顔が浮かんだ。
白濁した瞳。
だらしない口元。
喉が焼けるように渇いていた。
だが水を飲んでも癒えない。
血のぬめりが舌の上に残っている気がして、胃の腑から何かがせり上がってくる。
それでも、誠三郎は吐かなかった。
涙も流さなかった。
ただ、胸の奥に、冷たく重い石がひとつ、静かに落ちた。
――これが、人を斬るということか。
声にならない問いが、夜の闇に溶けて消えた。
翌朝、稽古場に子供たちが並ぶ。
玄斎はいつもの冷然とした声で言った。
「昨夜、ひとつの命が刈り取られた。
影は名を持たぬ。
誰がやったかを問う必要はない」
まるで雨上がりに「路地が滑るぞ」とでも言うような、変わりない調子だった。
床を拭いていた澪が、ふっと顔を上げた。
目が合う。
彼女は何も言わない。
ただ一瞬、その瞳の奥に憐れみとも侮蔑ともつかぬ影が走った。
それだけで誠三郎は悟った。
――自分はもう、昨日の自分ではないのだ、と。
新蔵は竹刀を磨く手を止めず、目を伏せたままだった。
その沈黙が、どんな言葉よりも重くのしかかった。
こうして誠三郎は、己の内に刺さった最初の棘と共に、歩き始めた。
それは痛みであり、いずれは力となる、決して抜けぬ棘だった。
(第三節 了)
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