∞噺

デストロ

∞噺



 自分の人生が〈外れエンディングのルート〉に入っていると気づいたのは、いつだっただろうか。


 帰宅して即、テレビを点ける。バラエティ番組を流し見しつつ着座し、コンビニのビニール袋を開ける。


「こいつ、ツッコミにキレ無いなー。『なわけあるか』しか言えんのに、何でゴールデン出れてんだよ」


 独り言とともに発泡酒をあおる。

 心地よいアルコールの痺れが脳を侵すが、まだ一息つくわけにはいかない。溜め息をつき、鞄からA4の書類の束を取り出す。

 焼き鳥を片手に、ページを繰る。書面には、おどろおどろしい見出しが躍っていた。


「世間を騒がせたカルト教団、まさかの現在……廃電波塔で並行世界と交信実験」

「あの心霊配信者Mがお蔵入りにした心霊スポット……S県山中の最凶屋敷に潜入」

「半年で5人が失踪、一帯は封鎖……旧軍が隠蔽した史上最悪の人体実験に迫る」


 しょーもな、というぼやきを呑み込む。並行世界と通信って、ドラえもんの秘密道具か。こんな企画書、シラフでは到底読めない。

 だが、今の大口顧客――心霊系YouTuber〈だーぬまCHANNEL〉は登録者十万人、再生数も右肩上がり。おれのような無名のフリー映像編集が彼らの信頼を損なえば、こんな晩酌さえ出来ない日々の始まりだ。

 しかし、心霊系YouTuberというのは「ちょろい」商売に思えてならない。場所だけげ替えただけの焼き直し動画、チープ過ぎて笑う気さえ起きないヤラセ演出――売れない若手芸人の血の滲む苦労を思うと、罪悪感さえ湧き起こる。

 そんなことを思いつつ、上の空で文字を追っていると、一枚の企画書に目が留まった。


「永遠に終わらないはなし


 なんだこれ。

 奇妙な見出しだった。「永遠に終わらない噺」? 怖さも禍々しさもない。小学校の七不思議じゃないんだから。

 本文を読んでみると、ますます疑問は深まった。「落語界のどこかに、いつまでも続く落語の噺があるらしい」という、若手の落語家や芸人からの聞き取りを、淡々と列挙しているだけの内容――企画書というより、取材メモだ。

 そして、わずかA4ページ半分ほどの企画書は、


「永遠に終わらない噺

    今も続いている?」


 という一文で唐突に終わる。

 なんだこれ、と今度は言葉にして呟く。いくら何でもネタ切れが過ぎる。

 大体、「永遠に終わらない噺」って何だ、そりゃ。大学で落研おちけんにいた身からすると、下らない与太話でしかない。

 だが――作業を終え、床に就いてからも、その言葉はなぜか頭の中に残っていた。

 永遠に終わらない噺……さすがに古典ではないだろう。新作か。

 たとえば、展開の終わりと始まりが繋がっている話。いや、こんなネタは在り来たりすぎて、噂にはならない。

 あるいは、どんどんネタを付け足すことが許されている話。世代を超えて続きが書かれ続けている話。昨今では、AIが自動生成し続ける話なんて可能性もあるか。もしくは……。

 柄にもなく妄想で遊んでいるうちに、おれは眠りの底へ沈んでいた。


 *


 お笑い芸人になりたかった。

 昨今のお笑いシーンでは、万人受けを拒んだ過激なギャグや、不条理ギャグが増えている。だが、おれに言わせればまだまだ思い切りが足りない。

 落語史を紐解いてみれば、コンプライアンスなどどこ吹く風の滅茶苦茶な噺はいくらでもあった。だが、それらは名作として継承されることはなかった――理由は簡単。滅茶苦茶すぎるからだ。

 花火のように咲き乱れ、旬を終えればぱっと消える、夢幻ゆめまぼろしの笑い。それに、憧れた。

 アイデアは無尽蔵にあった。北野映画のような、緊張感と軽妙さがシュールに交錯する空気感を、何倍にも誇張した劇物のごときコント。「暴力こそ笑い」――流血沙汰さえ、笑いに変えられる自信があった。

 大学時代を、お笑い活動に費やした。百本以上のネタを書いた。R-1には欠かさずエントリーした。頭を下げに下げて、地域のイベントに出演させてもらった。

 演芸場の舞台を血ノリで汚し、出禁できんになったことも少なくない。あやうく死にかけた事故も山ほどある。

 そして、そのすべては実を結ばず――就活にも本腰を入れなかったおれは、フリーの映像編集として、ぬるぬると生き永らえている。


 *


 翌日は、午後一番からリモートでの定例会議に出席する予定だった。

 定例会議では、演者の〈だーぬま〉、事務所のマネージャー、企画チーム、撮影チームなど、スタッフ全員で企画案を取り上げ、本採用の企画を決定する。

 もちろん、雇われの映像編集のおれには、企画の採否に口出しする権限など無い。編集担当の一人として、懸念点や改善事項をちょっぴり求められるだけだ――たとえば、「この企画はカメラの長回し系で、映像のピック・編集に時間がかかるので、先にアップできる別企画があると有難いです」など。そしてこうした発言は往々にして無視され、おれは全ての皺寄せを吸収するべく血反吐ちへどを吐いて徹夜することになる。映像編集に人権はない。

 だが幸い、この日のおれは会議への参加を免除されていた――そのかわり、真昼間から炎天下の住宅街を歩いている。

 〈テツさん〉の家を目指して。


「〈テツさん〉がさ、全然メッセージ返さないんだよね。通話も出ないし。

 でさ、前田くん、同じ武蔵野線沿いだったでしょ? 住所共有するから、様子見てきてくんない。ほら、万が一ってこともあるし」


 企画チームのリーダー――実質的に動画作成の統括者であり、〈リーダー〉と呼ばれている――は、朝一番の通話でしれっと告げた。

 〈テツさん〉は、企画チームの一員だ。もっともおれは、何度かロケに同行した際に顔を合わせたほどの接点しかない。黒縁の眼鏡を掛け、よく笑う小太りの中年男性。言葉は悪いが、オタクっぽいおっさん――〈テツさん〉に抱いている印象はその程度しかなかった。

 だが、映像編集のおれに拒否権はない。〈リーダー〉のメッセージに〈了解!〉のリアクションを押す。

 もっとも、今のおれには少なからぬ興味もあった――なにしろ、〈テツさん〉こそ、「永遠に終わらない噺」の企画書の作成者だったからだ。

 

 *


 晩夏の残暑に身を焼かれながら、日陰一つない道路を歩く。教えられたアパートは、駅から十五分ほど歩いた場所にあった。

 郵便受けには封筒やチラシが溜まり、雨に濡れて茶色く変色している。ドア横のガスメーターの数字は動いていない。

 インターホンを鳴らすが、当然何の応答もない。ドアノブに手を掛けてみると、なぜか鍵は開いている……なんて都合のいいことはなく、途方に暮れる。

 試しに裏手に回ってみるが、窓には遮光カーテンが引かれ様子は窺えない。

 〈リーダー〉にメッセージを送ってみると、「管理会社に言ってカギもらってみて」と返された。苛立ちを呑み込み、従う。無関係とはいえ、後味の悪い結末は避けたかった。

 一時間ほど待っていると、いかにも不動産業界ふどうさんぎょうかいぜんとした社員が到着した。社員にドアを開けてもらい、室内へと踏み入る。


 たちまち、えたような臭いが鼻を突いた。

 まさか。


 台所を兼ねた廊下は、雑然としていた。空のペットボトルやビニール袋が散らばり、足の踏み場を制限する。廊下を歩きつつ、恐る恐るユニットバスの浴室を見てみたが、彼の姿はない。

 廊下を抜け、居間の扉の前に立つ。この向こうに、居間がある――そう思ったとき、不穏な想像が芽生える。ベッドの上に横たわる、蛆虫の巣食った腐乱死体。どす黒い液体に浸り、かびの生えたフローリング。

 おれがまごついていると、社員がおれの横を通り抜け、躊躇なく扉を開いた。おれは、思わず目を瞑る。

 ――ひっ、と、社員が短い悲鳴を上げる。


「ど……どうしたんですか」


 答えはない。おそるおそる、おれはまぶたを開いた。


 そのままぎょっとして、立ち竦んでしまう。


 予想に反し、死体はなかった――かわりに目に飛び込んできたのは、異様な部屋だった。薄暗い室内の壁一面に、文章がプリントアウトされた紙がびっしりと貼りつけられている。

 壁だけではない。床にも、ベッドの上にも、大量の紙が散らばっていた。まるで、ホラー映画に登場する呪いの祠のようだ。

 一体、何なんだ。企画書か、そうでなければ日記か何かか。おれは、そっとしゃがみ込んで、床に落ちている紙をスマートフォンのライトで照らした。

 Wordで印刷したのか、よくある体裁の書面だった。ぎっしりと明朝体で記された文字に、目を凝らす。

 ――一見すると、台本のように見えた。かぎ括弧かっこで括られた台詞が並べられ、ところどころにト書きが挿入されている。

 変則的だが、やはり企画書なのか――そう思いながら文章を読み、思わず息を呑む。


 台本ではない。

 これは、番組の書き起こしだ。


 おそらくバラエティ番組なのだろう、司会の、出演者の台詞が、所作が、一つ一つ丹念に記録されている。台本ではありえない。その逆――放送を見ながら、書き起こされた文章。

 部屋に踏み込んで、壁に目を走らせる。隣の紙も、その横の紙も――。


 ふと、部屋の中央のテーブルに注意が向く。テーブルの上に積まれた紙の山、その陰にノートパソコンが置かれていた。ふとした思いつきから、パソコンの電源を点ける。幸いパスワード等は無く、すんなりとデスクトップ画面が現れた。

 ――思った通りだ。デスクトップには、几帳面に――と言うより、偏執的なまでに整理された、大量のフォルダが並んでいる。

 フォルダを覗くと、その中には無数のWordファイルが収められていた。ファイル名に日付と番組名が付けられているのを見ると、印刷された文章の元ファイルだろう。

 ファイルの日付は、どこまでも遡れた。五年前、十年前――。


 いったい、何のために。


 ふいに、デスクトップの端のフォルダが目に入った。

 「企画案」と名付けられたフォルダだ。興味を惹かれ、フォルダを開く。

 ずらりと並ぶのは、彼が今まで提出した企画書。その一番下に――あった。「永遠に終わらない噺_清書前.txt」。

 それは、昨日読んだ企画書のメモ書きだった。企画書の前段階の、聞き書きや引用の文章が、余さず記録されている。

 ファイルの最後には、こう書かれていた。

 

「永遠に終わらない噺 今も続いている?


 ・世界中のどんなネタよりも面白い?

 ・面白すぎて気が狂うから誰も知らない? ←さすがに尾ヒレ?


 なんとしても

 もうこれしかない」


 *


 編集作業に一区切りをつけ、時計を見る。もうすっかり夜だ。

 自室に引きこもり、十二時間ほど画面に向かっていたせいで、全身が固まっていた。伸びをして、ぬるくなったコーヒーを啜りながら、動画のエンコードボタンをクリックする。

 たった今編集した動画のプレビュー映像が、早回しで再生される。派手な髪色に修験者しゅげんしゃの装束を合わせた〈だーぬま〉が、目にも留まらぬ速さでぱくぱくと口を開いているが、無音なので何ともシュールなだ。それを横目に、おれは傍らのノートパソコンを立ち上げる。

 一週間前、〈テツさん〉のアパートに踏み込んだとき、拝借したものだ。

 もちろん、立派な窃盗罪だ――パソコンの持ち主が帰ってくれば、だが。

 エクスプローラーを開き、ファイルの一覧を眺める。ドライブの至る所に、彼が聴取した噂話の録音ファイルや、資料のスキャン画像が散在していた。だが、目新しい情報はない。


 ――別に、本気にしたわけではない。

 なんとなく、親近感を覚えただけだ。

 

 さすがに目が疲れ、デスクトップパソコンのディスプレイに目をやる。プレビューウィンドウでは、〈だーぬま〉が林の中をめまぐるしく動き、テントを組み立てていた。「心霊スポットの樹海でキャンプしてみた」――呆れるほどにおもんない企画。

 そのとき、卓上のスマートフォンが鳴った。〈リーダー〉からの着信だ。フォルダの中身を漁りつつ、携帯を耳に当てる。


「お疲れ。どう、キャンプのやつ」


「お疲れ様です、編集終わって、エンコード中です。十時には上げれます」


「ナイス! 早いね~仕事。

 ほんと感謝してるからね~前田くんには」


 感謝しているならもう少しこちらに配慮した段取りをして下さい、という悪態を呑み込んで、曖昧な返事をする。作業の疲れで、気が立っていた。

 会話を終わらせようとして思い直し、気になっていた疑問を口にする。


「そういえば、あの〈テツさん〉の企画ってどうなったんすか?

 やっぱり、お蔵入りすか」


「あーあれね! 凄いよね、わざわざ親戚のツテを辿って、カルト教団の人にまで接触したみたいで。

 珍しく気合い入ってたから、期待してたんだけど……流石にねえ」


 想定と違う反応だ。

 そう言えば、そんな企画書もあった気がする。


「えーと、そうすね……。

 それも凄いすけど、もう一つあったじゃないすか」


「もう一つ?」


 話の方向を修正しつつ、ノートパソコンをスクロールする。

 ずらりと並んだ、無数の書き起こし。彼は何十年も、どんな気持ちでこの作業を続けていたのか。

 そう思いながら視線を滑らせていると、ふと違和感を覚えた。


「あれす、無限に続く噺、みたいな」


 喋りながら、画面に目を走らせる。

 ひとつひとつ、ファイル名を確かめて、おれは確信する。


 ――全部、知らない番組だ。


 おれだって、全てのバラエティ番組を知っているわけではない。しかし、お笑いファンとして少なからぬ数の番組は観ているはずだ。

 だが、画面に並んでいる番組名には、どれも聞き馴染みがない。

 つい、検索したくなる。おれはブラウザを開きかけて、ノートパソコンをWi-Fiに繋いでいないことを思い出した。

 傍らのディスプレイを窺う。〈だーぬま〉が、糸を編んで縄をっていた。エンコード中のパソコンを下手に動かすと、ソフトが落ちる危険性がある。出来る事なら、触りたくない。

 それなら、スマホで――それも、無理だ。スマートフォンは、今まさに通話中だ。


 ――気持ち悪い。


 なんとなく妙な感覚を覚え、首元を触る。見てはいけないものを見たような。

 まだ、エンコードは終わらないのか。

 ディスプレイの中では、〈だーぬま〉が縄を木の枝から垂らしている。へらへら喋りながら作業の進まないその姿が、無性に苛立つ。


「ああ、『永遠に終わらない噺』?

 今一つ弱いやつだったけど」


「え……あ、そう、それす。

 まあ弱いんすけどね、逆に気になったっていうか」


「そう? だって、これってただ教団がほうがいはを受信してるってだけでしょ?

 電波塔の教団のネタを分割して水増ししたんだろうけど、子供だましだよ」


「えっ……と」


 〈だーぬま〉は、相変わらずにやにやとした表情で、縄を輪っか状に結んでいた。


「いや、だからさ、教団がその電波塔の廃墟でじゃぎゅうと交信して、しんばりにせむかってるってヤツでしょ。

 大のオトナがいいトシして。〈テツくん〉もシンパシー感じるとこあったのかな? 未だに、現実見ないであんなんだもんね……って、これはオフレコね(笑)」


「え、いや、ええと……」


 何かがおかしい。

 いつの間にか、口の中がからからに渇いていた。嫌な汗が、シャツを濡らす。

 〈だーぬま〉が、縄で作った輪を握りながら、ハイテンションで何かをまくし立てている。

 そして輪を首に通すと、膝を屈めて――ジャンプした。

 〈だーぬま〉の身体が高速で揺れる。カメラは、その様子を映し続けている。


 ――こんな映像だっただろうか。

 いや、違う。違ったはずだ――だが、さっきまで編集していたはずの映像が、まるで思い出せない。


「えと、あの……これから上げる映像すけど、あの、どんな内容でしたっけ?

 いや何か、ド忘れしちゃって……」


 困惑を悟られないよう、何とか声音を明るくして、尋ねる。


 スピーカーから、鼻で笑うような短い声が聞こえてきた。


「前田くんって、もしかしてアレ?

 人生に無駄なことはない、とか、本気で信じてるタイプ?」


「え、それって、どういう……」


「安心して、前田くん(笑)。

 前田くんみたいなのは、もうだめだから。だって、ゴールそのものが違っちゃってるから(笑)」


 通話は、唐突に切れた。

 ディスプレイを見ると、「エンコード完了」のダイアログが表示されている。

 完成した動画を何回か再生してみたが、今の映像は二度と見つからなかった。


 *


【世間を騒がせたカルト教団、まさかの現在……廃電波塔で並行世界と交信実験】


 〈概要〉

 ・S県にある廃電波塔は、戦時中に電波兵器の研究を目的とした軍によって建設された。戦後は放棄され、バブル期に資産家が買い取って、私設テレビ局を開設するため整備したが、何らかの理由で再び放棄された

   ← エピソードを盛る(資産家は発狂して家族心中したとか)

 

 ・その後、今世紀初頭にワイドショーを賑わせたG教団が、教団施設として購入

 

 ・教団は、強力な電波を利用して並行世界との交信を試みている

 

 ・現リーダーの考えでは、並行世界は無限に存在していて、世界のあらゆる可能性にアクセスできる。交信によって、人は全知全能になれる

   ← 教団広報とやり取りしてもっと掘り下げる

 

 ・今年の夏になってから、信者が急速に増えている

  画家や作家、芸能人のコミュニティで噂話を通じて? 要調査

 

 ・電波塔の建てられた土地はだった? 付近では昔から精神病者が多い?

   ← ホラー路線が入ると散漫になる、差別的になるリスク 要相談


 ・おれは、見えていたのに


 *


 レンタカーを借り、東京を離れて四時間。既に日はとっぷり暮れて、山道は闇の底に沈んでいた。

 教習所ぶりの運転に冷や汗をかきながら、つづら折りの道路をよたよた上る。

 電波塔の場所は、丁寧にも〈テツさん〉の資料に記載されていた。幾度となく確認したし、この道で間違いないはずだが……。

 ヘッドライトが切り取る光円こうえんを凝視しながら車を進めていると、道の片側に空き地が現れた。草が生い茂る空間の奥には、錆びた鉄門が設置されている。


 情報は、正しかった。


 門の前に車を停め、懐中電灯を片手に草むらへと踏み出す。

 藪をかき分け、なんとか門に辿り着く。門は胸くらいの高さで、容易に乗り越えることができた。

 しかしその先は、さらにぼうぼうに伸び切った草が茂り、山道は今にも自然に還る寸前だった。こんなこともあろうかと、道中で買った鉈をベルトから抜くが、夏の間に育ち切った雑草の茎にはまるで歯が立たない。

 本当に、ここなのか。全て思い違いではないのか――疑念が胸を過ぎる。しかし、ここまで来たら進むしかない。


 背丈よりも高い藪を泳ぐように進む。全身が痛い。

 自分が、途方もなく無力な存在になったような気分に陥る。


 おれは、何をやっているのか。


 何時間、そうしていただろうか。ほとんど思考が消え失せ、機械的に足を進めていたそのとき、ふっと藪が途切れた。

 はっとして、懐中電灯を持ち上げる。

 木々が切り取られた空間の中心に、古びたコンクリートの建物が立っていた。

 高さは二階建て、装飾は何もなく、無骨な建造物だ。正面には入り口が、扉もなしにぽっかりと開いている。屋上は金属製の覆いで囲われ、その向こうから、巨大な鉄骨がぬるりと突き出して上空の闇に消えていた。


 間違いない。

 廃電波塔だ。


 おれは疲労も忘れ、ただ一目散に、入り口へと走った。

 入り口をくぐった途端に、饐えたような臭いが鼻腔を満たす。建物の内部には、外観と同じく殺風景なコンクリートの廊下が真っすぐに続いていた。

 コンクリートが水を含んでいるのか、壁はしっとりと濡れていて、むわりと湿気を孕んだ空気が身体を包む。臭気もますます強くなり、巨大な動物の屍骸にでも侵入したような錯覚を覚える。


 ここは、本当に教団の施設なのだろうか。

 どう見ても、ただの廃墟にしか見えない。


 疲弊と困惑で、気が狂いそうだった。それでも、進むしかないのだ。

 ほぼ這い進むような格好で、ひたすらに廊下を進む。


 何十分も、そうして、真っすぐな廊下を歩いていた。

 ――空間的にありえない、ということには気づいていた。だが、もう、どうでもよかった。


 やがて――廊下はいきなり終わり、唐突に空間が開けた。


 講堂のような、広い部屋だった。円形の空間らしく、部屋の中央に向かって長椅子が同心円状に配されている。

 その長椅子に、びっしりと人間が坐っていた。

 男もいれば、女もいた。着ている服もばらばらだった。一様に同じ表情で、部屋の中央を見つめている。

 ――彼らは、死んでいた。真新しい死体もあれば、腐敗して骨が露出している死体もあった。見渡す限り、生きている人間はいなかった。


 死体のひとつに、既視感を覚えた。眼鏡を掛けた、大柄な中年男性の死体。

 近付いてみると、〈テツさん〉だった。〈テツさん〉は、他の死体と同じように、うつろな表情で部屋の中心を向いている。その頬には、なぜか涙の痕があった。

 彼は後で弔うこととし、先へと歩を進める。

 部屋の真ん中には、円形の演壇がしつらえられていた。そしてその中央を、一本の太い鉄柱が貫いている。鉄柱の表面には、顔のような不気味な紋様が刻まれ、ところどころに御札が貼られていた。


 紋様を見つめた、そのとき――途端に、頭痛がした。

 脳に、直接火箸を突っ込まれているような、強烈な痛み。立っていられなくなり、這いつくばる。

 笑い声がした。一人、二人の笑い声ではない。群衆の大爆笑――後ろを振り返ると、部屋じゅうの死体だと思っていた人々が、おれを見て笑っていた。中には、指を差して笑い転げている人間さえいる。


 ふざけるな。馬鹿にしているのか。


 おれは指先に力を籠め、死ぬ思いで這い進んだ。


 演壇に手を掛けると、ますます頭が割れるように痛む。笑い声はいよいよ大きくなり、脳内に反響する。


 もう、ここで死んだっていい――おれは両腕に全力を込め、壇上へと身体を持ち上げた。


 頭が痛い。

 五月蠅うるさい。


 おれは立ち上がろうとして、もう無我夢中で、目の前の鉄柱を掴んだ瞬間、世界が弾け、分かれ、引き裂かれ、飛び散り――おれは、すべてを見た――あらゆる世界で、男が、女が、老人が、子供が、欧米人が、侍が、動物が、木が、ボケていた――彼らがボケるたび、世界が揺れ、そのうねりはツッコミとなって反響した――すべての漫才は、無限に広がる宇宙どうしの界面かいめんに生じた紋様だった――どこまでも織り成される薄い膜の表面で光り、飛び交い、消えていく無数のギャグ――忍者の衣装を纏った男が、手裏剣を投げながらあるあるネタを繰り出していた――漫才の順序を逆転させ、最後に謎が解けるミステリー型の漫才師がいた――シチュエーションをマトリョーシカのように展開し、混沌とした世界を笑いに変えるコントがあった――寄生生物の落語家が、宿主の落語家を操って二重で楽しめる噺があった――コント中にボケ役がツッコミ役を殺してしまい、錯乱のあまりボケを続けながら相方を解剖して臓腑を撒き散らす狂気のコントがあった――一般人の脳に外科処置を施し、ユーモアが増大するのか確かめる企画があった――身体を切断されながら、芸人はどこまでコントを続けられるのか検証するドッキリ番組があった――平穏な動画のオチで脈絡なく首を吊って死ぬ不条理ギャグが売りの配信者がいた――、無数の世界は際限なく自由な笑いで満ち、何もかもが滑稽で、しかし崇高で、そして――おれも、そんな存在のひとつだった。


 次の瞬間、おれの意識はここに戻っていた。講堂は暗闇に包まれ、死体たちは沈黙していた。

 だが、おれの脳には無限があった。

 おれは、正しかった。おれは、正しかったのだ。

 おれは、久し振りに――心の底から笑った。愉快な気分だった。


 *


【検索してはいけない!? YouTubeに潜む狂気の映像】


 〈通称:切腹マン(削除済み)〉

 ・暗い部屋の床に男が座っている。型落ちのスマホで撮影されたような、低解像度の画質。

  やがて、男がこちらに向かって喋りはじめる。落語のような、コントのような語り口調だが、内容は意味不明。

  しばらくそれを続けた後、男が話しながら刃物(小型の鉈のようなもの)を取り出し、自らの腹を切り始める。

  男は苦痛をこらえるような表情で話を続けながら、腹の傷に手を突っ込み、血液と臓器を撒き散らす。

  やがて、男が話を止め、泣き始める。それから、大声で独り言を発する。


  「なあ、おもろいやろ。おもろいよな? おもろいよな。おもろいよな。これ。な。

   ふざけんな。おもろいわけない。おもろいわけないだろ。なあ。なんで? おれが見たのは、めちゃくちゃおもろかったんだよ。ほんとに。

   なんで、おれがやるとこんなにおもんない。なんで? おれが、(聞取不能)だからか。

   誰か、教えてくれ。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。……」


  (以降、二分強同じ言葉を繰り返してから、倒れ伏す。その後、男の死体を約一時間十分映し、映像終了)


 ・ハードなグロネタのため、取扱いが難しい。非公開のリスクも。要相談

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