2.
*
時々不意に思い出すものがある。ピンクのウサギ模様の絆創膏だ。
小学4年生の頃、たぶん春。思い切り転んで擦りむいた膝をさすっていた。
「お膝痛い?」
びくりと肩が揺れる。どんどん顔に熱が集まる。
ふわふわと柔らかそうな髪の女の子が、しゃがみこんで俺の目を覗き込んでいた。同じクラスの女の子。もう名前も思い出せない。
「はい、これあげる。」
ピンクのウサギ模様の絆創膏が差し出された。
俺は女の子を突き飛ばして走って逃げた。
どうしてあんなことをしたのだろう。
後悔。それは28になった今でも不意に訪れて俺を苛んだ。
沙月がいなくなった日、最後に姿を見たのは俺だった。
どんな理由があっても、俺はあの日の自分を許すことはできない。
でもそれはもう、ピンクのウサギ模様の絆創膏だ。過ぎ去って戻ってこない。
*
「いいじゃないですかぁ。行きましょうよ、合コン。イケメン連れてくって言っちゃったんですよう。」
関川が普段に輪をかけて洒落たスーツを着ているのは、このためだったらしい。よく見ると、髪もワックスで念入りにセットしている。
「俺はそういうのはいいって。」
毎回断っているのに、関川はいつも陽気に俺を誘う。
「えー、先輩彼女いないんでしょ?」
仕方なく頷く。嘘はつけないたちだ。
「じゃあ決まりです!自分がおじさんになってもずっとモテると思わないでくださいね!今日19時にボーノ集合ですよ!」
そう宣言して、さっさと帰ってしまった。
時刻は18時。19時までにあのイタリアンレストランに行くには、今すぐ帰る他なかった。
おじさん。28はおじさん。
電源の落ちたパソコンの暗いデスクトップを覗き込み、前髪をさらさらと整えた。
俺に恋人はいない。
これまでに何人かと付き合ってはみたが、みんな半年もすると居なくなる。本当に私のこと好きなのとかどうとか。
沙月と付き合ったことは一度もない。けれど俺は沙月に触れてみたいと思っていた。
色素の薄い柔らかそうな髪とか、白くて餅みたいな頬とか。
でも当時の俺は、自分がそう思っていることに気がついていなかった。
*
僅かに開いた窓から、じいじいと蝉の声が響く。
「‥‥どうする?これ、聞いちゃう?」
いたずらっぽく瞳を輝かせて沙月は言う。
焦茶色の机の上には、黒くて埃っぽいカセットテープが置いてある。
「でも、『聞くな』って書いてあるぞ?」
カセットテープの白いラベルには、黒いマジックで大きく 『聞くな』 と書いてある。
汚い文字。全体のバランスが悪くて、書き殴られたという感じだ。
「でも、聞くなって言われると聞きたくなっちゃうよねっ。」
沙月はうずうずとテープを弄ぶ。
「再生したくてもできないけどな。」
当時すでにカセットテープは殆ど化石で、すなわちラジカセも化石だった。
「化学準備室にラジカセがあったよね?あれで再生しちゃう?」
楽しそうに沙月は言う。
俺は、大粒の汗が流れる沙月の白い首筋から、目が離せないでいた。
「えー‥。化学準備室遠いだろ。」
スカートから覗く白い膝。ゆらゆらと揺れる足首。
沙月が図書室の書架で見つけてきた古いカセットテープは、なんだか小汚くて気味が悪かった。
「いいじゃん暇だし。さっ。行こ行こ。」
するっと俺の腕を掴んで歩き出す。ふわりと苺キャンディの甘い香りがした。
意気揚々と向かった化学準備室は、鍵がかかっていた。よくよく考えてみると、当然のことだ。
「もう帰ろうぜ。」
少しほっとして、ヘアピンで無理矢理鍵を開けようと躍起になっている沙月を、ドアから引き剥す。
「‥‥もうちょっと‥‥。」
焦茶色の大きな目をさらに大きく見開いて、瞬きもしない。
「‥俺はもう帰るからな。ほどほどにして沙月も帰れよ?」
ふんじゃあまたね。
振り向きもせず、沙月はひらひらといい加減に手を振った。
かちゃかちゃと再びヘアピンを鳴らし始めた音を尻目に、俺は踵を返した。
もしこの日に戻れたなら、俺はカセットテープをその場でばきばきに壊すなり、沙月を家まで送って帰るなりした。でも現実はそうはならず、沙月はそれきり姿を消してしまった。
*
「中澤裕太です。28です。よろしく。」
女の子たちの舐めるような視線。
上品な間接照明。俺は自己紹介が済んですぐに胃が痛くなってきた。
「隣いいですかっ。」
声を弾ませて、小動物のような愛くるしい目をした女の子が隣に座った。たしか、須藤ひかりと言っていた。
持参したカシスオレンジのグラスにびっしりと水滴がついて、指先がびたびたになっている。
しゃらり。ストラップを揺らしてスマートフォンを取り出す彼女。
「ねえ裕太くん、フォトスタやってる?アカウントフォローしてもいい?」
「SNSはやってないんだ。」
間髪入れずに断る。
しゃらしゃらと揺れるストラップに目を向けて、凍りつく。
「それ、そのストラップ‥」
「あ、これ?かわいいでしょ?昭和レトロ!」
カセットテープのミニチュアがゆらゆらと揺れている。
ぐらりと世界がまわる。
どうにか声を絞り出す。
「スマホ仕舞ってくれないか。頼む。」
彼女は目を丸くして急いで鞄にしまってくれた。
「ちょっと大丈夫?」
これ幸いと背中をさすられる。
初対面の女の子に急に触れられて、ぎょっとした。
「スマホ苦手なの?よかったら私に少し話してみない?」
上目遣いに彼女は囁く。
その潤んだ瞳に苛立ち、とにかく黙らせたくなった。
「‥‥聞きたい?」
耳元で低く囁いて、ぐっと身を乗り出す。なるべく近いところでひかりの目をじっと覗き込む。
こうすると、大抵の女の子は頬を赤くして動けなくなる。
ひかりも例に漏れずかちこちになっていた。
「‥‥場所を変えようか。」
言われるがままに着いてくるひかりの手を握った。
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