2.




 時々不意に思い出すものがある。ピンクのウサギ模様の絆創膏だ。


小学4年生の頃、たぶん春。思い切り転んで擦りむいた膝をさすっていた。


「お膝痛い?」


びくりと肩が揺れる。どんどん顔に熱が集まる。


ふわふわと柔らかそうな髪の女の子が、しゃがみこんで俺の目を覗き込んでいた。同じクラスの女の子。もう名前も思い出せない。


「はい、これあげる。」


ピンクのウサギ模様の絆創膏が差し出された。

俺は女の子を突き飛ばして走って逃げた。

どうしてあんなことをしたのだろう。


後悔。それは28になった今でも不意に訪れて俺を苛んだ。



 沙月がいなくなった日、最後に姿を見たのは俺だった。

どんな理由があっても、俺はあの日の自分を許すことはできない。

でもそれはもう、ピンクのウサギ模様の絆創膏だ。過ぎ去って戻ってこない。





 「いいじゃないですかぁ。行きましょうよ、合コン。イケメン連れてくって言っちゃったんですよう。」


関川が普段に輪をかけて洒落たスーツを着ているのは、このためだったらしい。よく見ると、髪もワックスで念入りにセットしている。


「俺はそういうのはいいって。」


毎回断っているのに、関川はいつも陽気に俺を誘う。


「えー、先輩彼女いないんでしょ?」


仕方なく頷く。嘘はつけないたちだ。


「じゃあ決まりです!自分がおじさんになってもずっとモテると思わないでくださいね!今日19時にボーノ集合ですよ!」


そう宣言して、さっさと帰ってしまった。

時刻は18時。19時までにあのイタリアンレストランに行くには、今すぐ帰る他なかった。


おじさん。28はおじさん。

電源の落ちたパソコンの暗いデスクトップを覗き込み、前髪をさらさらと整えた。





 俺に恋人はいない。

これまでに何人かと付き合ってはみたが、みんな半年もすると居なくなる。本当に私のこと好きなのとかどうとか。



 沙月と付き合ったことは一度もない。けれど俺は沙月に触れてみたいと思っていた。

色素の薄い柔らかそうな髪とか、白くて餅みたいな頬とか。

でも当時の俺は、自分がそう思っていることに気がついていなかった。





 僅かに開いた窓から、じいじいと蝉の声が響く。


「‥‥どうする?これ、聞いちゃう?」


いたずらっぽく瞳を輝かせて沙月は言う。

焦茶色の机の上には、黒くて埃っぽいカセットテープが置いてある。


「でも、『聞くな』って書いてあるぞ?」


カセットテープの白いラベルには、黒いマジックで大きく 『聞くな』 と書いてある。

汚い文字。全体のバランスが悪くて、書き殴られたという感じだ。


「でも、聞くなって言われると聞きたくなっちゃうよねっ。」


沙月はうずうずとテープを弄ぶ。


「再生したくてもできないけどな。」


当時すでにカセットテープは殆ど化石で、すなわちラジカセも化石だった。


「化学準備室にラジカセがあったよね?あれで再生しちゃう?」


楽しそうに沙月は言う。

俺は、大粒の汗が流れる沙月の白い首筋から、目が離せないでいた。


「えー‥。化学準備室遠いだろ。」


スカートから覗く白い膝。ゆらゆらと揺れる足首。



 沙月が図書室の書架で見つけてきた古いカセットテープは、なんだか小汚くて気味が悪かった。


「いいじゃん暇だし。さっ。行こ行こ。」


するっと俺の腕を掴んで歩き出す。ふわりと苺キャンディの甘い香りがした。




 意気揚々と向かった化学準備室は、鍵がかかっていた。よくよく考えてみると、当然のことだ。


「もう帰ろうぜ。」


少しほっとして、ヘアピンで無理矢理鍵を開けようと躍起になっている沙月を、ドアから引き剥す。


「‥‥もうちょっと‥‥。」


焦茶色の大きな目をさらに大きく見開いて、瞬きもしない。


「‥俺はもう帰るからな。ほどほどにして沙月も帰れよ?」


ふんじゃあまたね。

振り向きもせず、沙月はひらひらといい加減に手を振った。

かちゃかちゃと再びヘアピンを鳴らし始めた音を尻目に、俺は踵を返した。



 もしこの日に戻れたなら、俺はカセットテープをその場でばきばきに壊すなり、沙月を家まで送って帰るなりした。でも現実はそうはならず、沙月はそれきり姿を消してしまった。





 「中澤裕太です。28です。よろしく。」


女の子たちの舐めるような視線。

上品な間接照明。俺は自己紹介が済んですぐに胃が痛くなってきた。



 「隣いいですかっ。」


声を弾ませて、小動物のような愛くるしい目をした女の子が隣に座った。たしか、須藤ひかりと言っていた。

持参したカシスオレンジのグラスにびっしりと水滴がついて、指先がびたびたになっている。


しゃらり。ストラップを揺らしてスマートフォンを取り出す彼女。


「ねえ裕太くん、フォトスタやってる?アカウントフォローしてもいい?」


「SNSはやってないんだ。」


間髪入れずに断る。

しゃらしゃらと揺れるストラップに目を向けて、凍りつく。


「それ、そのストラップ‥」


「あ、これ?かわいいでしょ?昭和レトロ!」


カセットテープのミニチュアがゆらゆらと揺れている。


ぐらりと世界がまわる。

どうにか声を絞り出す。


「スマホ仕舞ってくれないか。頼む。」


彼女は目を丸くして急いで鞄にしまってくれた。


「ちょっと大丈夫?」


これ幸いと背中をさすられる。

初対面の女の子に急に触れられて、ぎょっとした。


「スマホ苦手なの?よかったら私に少し話してみない?」


上目遣いに彼女は囁く。

その潤んだ瞳に苛立ち、とにかく黙らせたくなった。



 「‥‥聞きたい?」


耳元で低く囁いて、ぐっと身を乗り出す。なるべく近いところでひかりの目をじっと覗き込む。

こうすると、大抵の女の子は頬を赤くして動けなくなる。

ひかりも例に漏れずかちこちになっていた。


 「‥‥場所を変えようか。」


言われるがままに着いてくるひかりの手を握った。



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