喫茶ノクターン

cherryblossom

第1章 ー喫茶ノクターンー


――プロローグ――


 夜の街は、霧に沈んでいた。

 湿った石畳の上を、かすかな靴音が響く。

 それは人の気配というより、夜そのものが奏でる静かな拍動のように、通りの奥へと溶けていく。


 その先にあるのは、小さな喫茶店。

 赤いひさしの下、雨に濡れた灯りが滲み、店名を淡く浮かび上がらせていた――「ノクターン」。


 ここは街の片隅にひっそりと存在する隠れ家。

 昼の喧騒から遠く離れた夜の巣であり、迷い込んだ者だけが辿り着ける不思議な場所だった。


 店主の橘雫は、その扉の向こうで静かに客を待っている。

 伊達メガネの奥に潜む眼差しは、ただの喫茶店の主人にしてはあまりに鋭く、時折、影を思わせる。

 彼女はただ紅茶を淹れるだけの人間ではなかった。


 カウンターには黒猫ルナが座り、外の気配を伺うように琥珀の瞳を細めていた。

 この猫の視線を越えて店に足を踏み入れる者は、例外なく何かを抱えている。秘密、罪、あるいは過去。


 そして、その夜。

 雨を連れてやって来たのは、一人の探偵――黒崎涼。

 濡れたコートの裾を払う仕草には、追い立てられるような焦燥と、言葉にできない疲労が滲んでいた。


 その瞬間、ルナが低く唸った。

 雫はカウンターの奥で、心臓がわずかに跳ねるのを感じた。

 ――何かが始まる。

 直感がそう告げていた。


 この夜、「ノクターン」はただの喫茶店ではなくなる。

 紅茶とカクテルの香りに紛れて、嘘と真実が交錯する。

 そこに集った客たちは、偶然か、必然か――。


 やがて雫自身の封じた記憶までもが、静かに目を覚まそうとしていた。


 あの日、失われたもの。

 あの日、信じたもの。


 扉が閉まる音は、まるで物語の幕が上がる合図だった。


 霧深き街の夜。

 ここからすべてが始まる。

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